日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

10/9

10/9 清めの背後に   ルカ17:11~19

イエスがサマリアへ向かう途中にいやした10人の人々のうち、帰ってきたのは1人であったと今日の聖書は語っています。これだけ見ると、帰ってこなかった人たちはずいぶんと恩知らずのように聞こえます。でもどうでしょう。当然全員、祭司の所に見せに行く途中で清くされたと記されておりますし、清くされるのは体に起こった劇的な変化ですから、清くされたことに気が付かなかったはずはないと思うのです。
 最近「コスパ」という言葉を聞くことがあります。「コストパフォーマンス」の略だそうですが、要するにどれだけ効率よく何かを成し遂げたか、ということのようです。考えてみればわたしたちは結構色々な場面で「効率」を気にしています。大学の単位の取得から、部活の練習に至るまで、多くの場面で「効率的に」振舞うように求められています。最近は教会の宣教においても「効率」を考える向きもあるようです。そう考えていくと今回のイエスの振る舞いは、あまり効率的とは言えそうにありません。10人の人を癒して、1人しか戻ってこないとすれば、10%の効率。でも現実的には教会が色々な場面で神さまのことを伝えようとしてもなかなか伝わらない、教会のメンバーが増えない、と多くの人が思っています。実際、日本の信徒の数は人口比0.1%を割り込んで久しいです。しかし、最近、色々な場面で「そうでもないかもしれない」と思うようになりました。教会のこと、キリスト教のことを多くの方が詳しく知っているのです。でも、それでも教会に通う人は多分その中の10人に1人にも満たないのでしょう。
 帰ってきた1人と帰ってこなかった9人の違いは何でしょうか。それは「清くされた」というイエスの働きの背後に神さまがいることに気が付いたからだと思います。教会のことを良く知っていても、その背後に神さまの働きを見なければ、そこに来ることはないでしょう。わたしたちに必要なのは「効率」ではなく、何度でも、神さまのことを人に伝えることだと思います。地道な働きですが、神さまを伝えようとする心がある限り、少しずつ神さまの国は前進していくのですから。

10/2

10/2 奴隷として仕える  ルカ17:5~10

今日の福音書の中で、イエスは2つの話をしています。前半は何となくわかりますが、後半の僕についての話は、今だったら考えられない話ではないでしょうか。
 イエスの生きていた時代、ローマ帝国の支配圏(ユダヤ地方も)では、奴隷制度が普通に存在していました。聖書の中でよく「僕」(しもべ)と出てきますが、要するに奴隷のことです。そう考えると、この話で僕が仕事の後、給仕までするというのは何となくわかってきます。今、奴隷制度はありませんし、「奴隷」というとアメリカの黒人奴隷が真っ先に思い浮かびますから、かなり悲惨な状況を想像してしまいます。「僕のように(奴隷のように)仕えなさい」と言われると何か納得がいかないような気がします。
 「奴隷」と言ってもローマの奴隷制度は、悲惨な部分もあるのですが、考えているよりずっとゆるい制度です。ローマの場合、ほとんどあらゆる仕事を奴隷にさせており、一般的な家庭でも家事をする1~2人の奴隷を抱えているのが普通でした。イエスが弟子たちの足を洗って驚かれましたが、こういったことも奴隷の仕事でした。鉱山や農場で働く奴隷は、かなり悲惨な状況だったようが、家庭や特に上流階級の場合、料理や掃除などの家政婦や、子どもの家庭教師、門番などの仕事から、専門教師や秘書、会計士などの専門職までみんな奴隷の仕事でした。働く年数も5年から20年くらいと幅がありましたが、自分でお金をためて自分で自分を買い取って解放されたり、働きが良いと解放され、自由になることが自由にできたようです。解放された奴隷は主人の家で奉公を続けることもありますし、ためたお金や築いた人脈を基に商売を始めることもありました。また解放奴隷から皇帝になった人物もいました。また、聖書にもあるように、奴隷が病気になった時、使い捨てのように扱うのではなく、「わたしの僕をいやしてください」と医者を手配することもありました。
 イエスはたびたび、わたしたちに対して「互いに仕え合うように」説きます。そう、お互いに「奴隷として」仕え合うように説いているのです。年齢も性別もなく、出身地も関係ありません。みんな等しくお互いの奴隷として、仕え合うのです。今日の聖書のイエスの話に対して、「ここまでやんなきゃいけないのかよ」と思うかもしれません。でも、その思いを乗り越えて「仕える」ことにしたとき、人に対する見方や、対処の仕方がかわってくるのではないでしょうか。多分、辛いこともあるでしょう。ただ単に利用されるだけで終わることがあるかもしれません。それでなお、神さまの呼びかけに応えて働く時、わたしたちは人として少し、成長しているのではないでしょうか。

9/25

9/25 門が深い淵となる   ルカ16:19~31

今日の福音書はイエスのたとえ話。前段の話を引き継いでいるとすると、金に執着するファリサイ派の人々に対して話したのでしょう。ある金持ちと、ラザロという貧しい人の話がここで語られています。
生前、金持ちとラザロを隔てているのは門だけでした。門から中をのぞく事も出来ますし、金持ちは何度となくその門を出入りしたでしょう。ラザロと接触することは簡単にできました。でも、二人の間には心の中に深い淵があったのでしょう。金持ちは名前くらいは知っていたようですが、ほとんど交わることはありませんでした。陰府の国においてはそれが逆転します。二人の間には深い淵があって行き来はできませんが、金持ちはラザロと積極的に接触しようと試みます。
 人と人とを隔てるモノは多くありますが、最初は金持ちの家の門のように開いてはいても、状況はわかっていても、自分からは行く気にならないものがほとんどです。そしてそれは、それこそ陰府の国に行くくらいの時が流れると、深い淵に変化してしまい、渡ることができなくなってしまうものです。「その時」が来れば、と言い換えてもいいかもしれません。これらのことは、物理的な距離というより、心理的な距離の問題です。物理的な場所に関しては、よっぽどの場所でない限り、2日もあればたどりつくことができます。でも、心の距離の長さというのは、それこそ目の前にいたとしても、なかなかたどり着けない蜃気楼のようなものでもあり、反対にどれだけ物理的に遠くても瞬時に心がつながるようなものです。
 金持ちとラザロの間の距離は、わたしたちと神さまとの間の距離です。金持ちが元気な時に、自分の状況がいい時にラザロのそばをほとんど見ないで通り過ぎたように、わたしたちは神さまに対して、そして周りの人に対して心の距離を大きくとることがあります。残念ながらそれはほとんどの人に必ず起きることです。わたしたちは、というより人間は本来、神さまにつながっているものです。わたしたちの目は、実はいつも神さまのことが目に入っています。でもそれを意図的に、あるいは無意識に無視してしまっているのです。そうこうしているうちに、隣に立ちながらも心理的な距離がどんどん広がってしまい、最後は深い淵となって、わたしたちの間に立ちはだかってしまいます。では、わたしたちはどうすればよいのでしょうか。
 それはやはり、目に入っていることを意識することでしょう。そして、一日少しだけでも、神さまに目を向ける時間を取ることです。そして、今日のバザーのような時、心理的な距離があろうとも、隣で共に働くことなのではないでしょうか。

9/18

9/18 基礎   ルカ16:1~13

今では幼稚園から公文などの塾に通わせたり、学習指導を行ったりすることもあるようですが、多くの子どもたちが本格的な勉強を小学校に上がった時から始めます。小学校6年、中学校3年の義務教育の間に、読み書き計算、常識とされている知識などを学びます。皆さんもそうだと思いますが、難しい公式を使った計算はできなくとも、四則演算ができ、新聞や本はとりあえず苦もなく読めるくらいの知識は身についているのではないでしょうか。もちろんできなくてもそれなりに生活はできると思いますが、今の日本の状況から考えて、字が読めない足し算できない、という人はほとんどいないのではないかと思います。ある意味でわたしたちの生活の「基礎」になっている部分だと思います。
 イエスは不正な管理人のたとえを話しながら「ごく小さなことに忠実な者は、大きな事にも忠実である」と説きます。小学校の勉強ですら、最初の基本がわかっていないとだんだんついていけなくなるものです。ひらがなばかりの絵本を読めなければ、漢字の混じった文章を読むのは難しいでしょう。四則演算ができなければ、微分積分もわかりません。当然それと同じように、信仰の基礎がしっかりしていなければ、やがて信仰を手放してしまったり、大きな勘違いをしたりしてしまう可能性があります。
 では「信仰の基礎」とはなんでしょう。「小さなこと」とはなんでしょうか。もちろんそれはいくつもあると思いますが、まず「日々祈ること」です。祈り=神さまとの対話はわたしたちの生活の基礎です。また一人で祈るだけではなく共に祈ること=礼拝に参与することも大切です。誰かと共に祈り、一つのパンと杯を分かち合うことにより、わたしたちがキリストにあって一つであることを確認するのです。聖餐を受けることもまた、わたしたちの日々の生活の基礎です。
 実に、わたしたちは多分、小学校の勉強と同じくらい記憶のかなたにあるかつて、こういった「信仰の基礎」を学びました。もう、薄れている記憶かもしれません。でも、その「基礎」に何回も戻ってくる必要があると思うのです。「礼拝に出なくたって、毎日お祈りしなくたって、人々への奉仕を欠かさないからいいじゃないか」と思われるかもしれません。もちろん体の無理が利かない場合もありますから、そのことを責めているわけではありません。しかし、生活の中に「祈り」が欠けている状況での奉仕は、必ずではないですが歪んでしまうことがあります。自分の生活の中に「祈り」や「聖餐」が組み込まれているかは、今一度確認した方がいいのではないかと思います。「祈り」や「聖餐」の効果は目に見えるものではありません。わたしたちの「霊」の部分に作用するものだからです。でも生活に「祈り」が欠けた状況が続くと、何となく「霊的に」疲れてきます。まず「祈り」と「聖餐」を生活の中に取り戻しましょう。もし教会に足を運ぶのが難しい状況であれば、お伝えください。それを運ぶのもわたしの役割です。わたしたちの心に「霊の糧」を豊かに補給しつつ、日々の生活を歩み続けたいと思います。

9/11

9/11 神さまが探してくださる  ルカ15:1~10

今日朗読された福音書は、イエスがファリサイ派の人々に対してした「失われたものが見つかる」3つのたとえ話のうちの2つです。「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」どちらも有名ですね。無くしたものが見つかった時、天の国に大きな喜びがある。でも、この話をするとよく「じゃあ残された99匹はどうなるのか」という質問をよく受けます。結局放っておかれてしまうではないか、と。むしろ必要な犠牲として1匹のことは割り切って、残りの羊を生かすべきではないかというのです。
 確かにその質問の通り、社会は「小数を犠牲にして多数を生かす」のが普通のことです。行政の福祉の考え方もこれに準じています。それぞれの細かい状況はさておき、大人数を広くカバーする。はみ出した部分は考えない、というか対応しない。個々の状況は犠牲になることがありますが、多くの人が支援を受けることができる。教育の現場もそう。一人一人が理解するまで勉強の箇所を進めないわけにはいかず、わかっていない子がいることは知りながらも勉強は前に進む。休んだ子がいても、その子の対応まではしない、ということが普通に行われています。色々な場面で「ついてこれない者は仕方がない」という考え方をしたことってないでしょうか。この考え方って、社会的にはごく普通の考え方で、これが必ずしも悪いわけではないでしょう。確かに大多数の人には助けがあるのですから。そして、わたしたちはこの考え方にとても慣れています。
 しかし、教会の考え方としては、神さまの国の考え方はそうではありません。「見失った羊を探しに行く」ように「無くした銀貨を見つけるまで探す」ように、そして「残されたものをも失わず」にいる世界です。そう、神さまの国はとっても欲張りなのです。そんなことを言ったって、現実には難しいんじゃないか。だって教会から離れていった人を呼び戻すことができないじゃないか。という声が聞こえてくるかもしれません。でも、神さまはその人をずっと探しておられます。人間には難しくても神さまにならできると信じることが大切です。先だって神さまの国に帰られたSさんは、約40年ぶりに教会に戻ってきた方です。夢でお告げがあったと彼は語っていましたが、わたしはそれを聞いたとき「神さまがこの人を担いできてくださった」と思ったのです。昔紋別にいた人で、彼のことを知っている人はほとんどいませんし、彼が今苫小牧にいるということを知っているという人は皆無でした。それでも再び教会の扉を叩いたのは、人間には把握しきれなくても、働きかけきれなくても、神さまが働いて下さっていたことの証です。それには40年という、わたしの人生より長い時が必要でした。だから「すぐ」結果が出なくても、神さまの「長い目」で、神さまが探してくださっていることを覚えて、担がれてきた羊をこれからも受け入れていきましょう。

9/4

9/4 持ち物確認  ルカ14:25~33

「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたの誰一人としてわたしの弟子ではありえない」とイエスは言います。自分の持ち物を「捨てる」となると、ミニマリストならともかく、躊躇はありますよね。物を捨てるとき「もったいない」と思うことがよくあります。と言っても、ため込むだけなら物が増えてしまって大変ですよね。でも、イエスが言っているのは「物」に限ったことではなさそうです。イエスがこう言う前にいくつかたとえがありますが「塔を建てようとした者」も「講和を求める王」も、なにか「物」を捨てるというカテゴリには当てはまらなさそうです。捨てるのはむしろ「できるという思い込み」だとか「隷属しない誇り」のような、どちらかというと精神的なものだと言えそうですよね。
 わたしたちは物だけに限らず、色々なものを持っています。身につけた技術や人のつながり、感情なんかもその一つです。わたしたちは自由だと言いながら、結構色々なものに縛られてしまっていて好きなところに動くことができません。また好きなようにふるまうことも難しい。明日から突然辞めてどっかへ行ってしまっても誰もそんなに困ることはないかと思いますが、やっぱり人が動いたりといろいろ大変になるでしょう。誰かが突然失踪したとして、周りの人には大きな影響があります。冷静に自分の周りを点検してみると、自分で身につけたものだけでなく、いつの間にか自分にくっついている自分を縛る鎖のようなものが多いことに気が付きます。イエスの言うように、家族のつながりも実際に自分が進みたい方に進めない足かせになっている時があるかもしれません。必ずそうだと言っているわけじゃないですよ。念為。でも、縛っていることに気が付いたのならそれを解決する方法もあります。いつまでも自分以外の誰かのせいにはできませんよね。
 「自分の十字架を背負って来なさい」とイエスは言います。わたしはこれを「自分の道を自分で決断すること」しかも「神さまに祈って決断すること」だと思っています。自分でやろうと決めてやる時、たとえ失敗したとしてもそれでいいのです。でも、誰かのせいにしている時、自分の十字架を背負っていることにはなりません。自分以外の誰かのことは自分の十字架にはなりません。自分と周りを取り巻く状況を冷静に観察する時、わたしたちにくっついている捨ててしまうことができるものがたくさんあるのではないでしょうか。思い込みだけで塔が立つことはありませんし、神風が吹いて敵が去ってくれることもありません。冷静に自分たちを見つめて、取るべき道を取る。自分に絡みついている何かを捨てさる。こうして、わたしたちはイエスの弟子になっていくのです。もしかしたらそれは苦しいものかもしれません。でも、神さまこそ、イエスさまこそわたしたちの自信の一番のよりどころのはずです。だからわたしたちは何を捨てても大丈夫。そう信じてイエスさまについていくようでありたいものです。
 

8/28

8/28 ささげていくこと  ルカ14:1,7~14

「誰かに何かをしてもらったらお返しをしたい」というのは人間にとって当然の心理です。というよりも、何かをしてもらったら「何らかのアクションを返さない」と失礼にあたるというのが常識ですよね。しかしイエスは、お返しのできない人に施しなさいと言います。その方がいいと言うのです。そうは言っても、やっぱりもらう一方だと気まずくなってしまうし、やっぱり常識に外れているのではないかと思ったりもします。
 東日本大震災の支援に行っていた時のことです。当時教区の青年たちを車に乗せ、何回も釜石に行きました。そして、色々なところでお手伝いをして、仮設住宅もあちこちに訪問しました。最初のころは本当に物がみんな流されてしまって何もない方も多く、支援物資は非常に重宝されていました。でもよく聞いたのは「もらうばっかじゃいけない」という思いです。自衛隊の人たちにお返しをしようと思っても断られた。これは仕方がない。市役所の職員とかもダメ。公務員だからわかる。って、結局何となく罪悪感がつのって物資がいただけない、ということを口にする人が結構いました。ですから、仮設を訪問してお手伝いをした後、だいたいお茶と大量のお菓子をいただくことになるんですね。実は結構迷ったんですよ。こういう場合には、何かを受け取ったりしないのが基本です。だからその辺をきっちり言い聞かせている指導者がほとんとなんです。でも、きっちりやりすぎてかえって関係が悪くなってしまうこともあります。ですから、結構色々な形でいただいたお返しをどんどんみんなが受け取ってきた結果、時期になると毎日ワカメ。それから釜石の人たちはイカが獲れると塩辛を作るんですね。それを大瓶でくださるんですね。イカの塩辛であふれる冷蔵庫。でもね、その「返したい」と言う気持ち、「借りを作りたくない」気持ちと言うのはよくわかるんです。しかし、だからといって「返したくないから何もしなくていい。こじきじゃないから」ということではないんですね。「して下さったことはうれしい。だけれども心ばかりの物をお返しさせてください」ということが大切なのではないか。それが小さなことだとしても、そうやって自分が「いただいたな」と感じたら、他の誰かに返す、そんな気持ちが大切なのだと学んだ気がします。
 イエスの言うように「貧しい人・・・」を招く時、もしかしたら別の形でお返しを受けるかもしれない。また、お返しが無いのかもしれない。そうなった時、わたしたちは一喜一憂するのではなく、それを別の誰かにつなげていくことが大切です。また、わたしたち自身が実は、返しきれないものを受けていることを忘れてはいけません。わたしたち一人一人の命は神さまから受けていて、わたしたちはこれに返せるものはないからです。わたしたちが精いっぱい生きること、そしてその中の一部を神さまにお返しする、例えば収穫物をささげることや、献金などもこれにあたります。わたしたちは「すでに受けている」という実感を持ちましょう。そして、その一部を神さまのため、また神さまがお造りになった他の人々のため、世界のために、少しずつおささげしていこうではありませんか。

8/21

8/21 チーム一丸となって  ルカ13:22~30

今、リオデジャネイロでオリンピックが開かれています。現地時間だと今日が閉会式ですね。地球のちょうど反対側で、放送時間が早朝と深夜ですから、睡眠不足になっちゃってる方も多いのではないでしょうか。あそこで競技している選手たちって、たとえメダルが取れなかったとしても、すごいですよね。自分でしっかりと鍛錬して、人を蹴落とすのではなく、自分に技術や力をつけてあの場に立っているわけですから。
 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と問われたイエスは「狭い戸口から入る用に努めなさい」と言います。「つとめる」と言うと色々な意味がありますが、この場合は読んで字のごとく「努力する」「力を尽くして行う」という意味になります。オリンピックの選手たちがみんな、力を尽くして競技するように、力を尽くす、努力するということです。
 でも、ダイエット等にも言えることなんですが、基本的に楽をして何とかする方法ってありませんよね。ダイエットの場合、「食べないで動けば」誰でも基本的に痩せます。とにかく口から入ってくるカロリーより、運動して消費するカロリーの方が多ければいいんですから。でも、これって誰にでもできるけれども誰にでもできるわけじゃありません。それができるんだったらみんな標準体型なはずなんですが、「痩せなきゃ」と言いながらどこかでサボってるから痩せないわけです。スポーツだってそう。オリンピックに出たいと思えば、自分で努力するほかはありません。他人の足を引っ張って勝ったとしても最終的には意味がないと思います。いくら才能があったとしてもそれだけで何とかなるほど甘くはありません。いくら体質的に太りにくくても、ある程度セーブしなければ太ってしまいます。そしてまた、多くの人にとっては、その努力すらも「狭い戸口」になっています。誰でも努力すれば可能性はゼロではないのです。「狭い戸口」とは、「誰でもできるはずの努力」をサボろうとするわたしたちの心の弱さにあるのだと思います。
 イエスが「努めなさい」と言ったのは、信仰もまた「自分で力を尽くす」しかない部分が大きいからであると思います。「祈ること」も「聖書を読む」ことも、誰かに代わってもらうことはできません。一緒に励まし合いながらやることはできても、自分で始めなければ何もスタートしないのです。スポーツの場合、自分で努力しつつコーチにアドバイスをもらいつつ自分を鍛えていきますよね。コーチはアドバイスをするのであって、代わりに試合に出てくれることはありません。練習して身につけるのは自分です。信仰もこれと同じです。自分で祈ってみる。聖書を読んでみる。読み方、祈り方がわからないのならコーチに聞いてみる。コーチは信仰の先輩たちであり、牧師であったりします。そのために教会があり、牧師がいるのです。コーチだってもちろん自分を鍛えなくてはいけません。それに時に耳の痛いことも言わなければいけません。そうやってそれぞれが努めつつ、進んでいくのです。教会は一つのチームです。チームが一丸となって「努めつつ」進んでいけるようでありたいと願っています。

8/14

8/14 分裂をもたらす   ルカ12:49~56

今週のイエスの言葉は、わたしたちが持っている「優しいイエス」のイメージからどうしてもかけ離れていて、何となく触れずにいたい場面です。でも考えてみれば、イエスは聖書の中で時折厳しいことも言っているし、神殿で商人の台をひっくり返すなどの実力行使もしていますから、ただただ優しいだけではなく、彼の言葉は厳しいことの方が多いのではないかと思います。
「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。」と全否定します。じゃあ何かと問われれば「むしろ分裂だ」というのです。しかし皮肉なことに、イエスを迎えた人々の間には分裂が数多く起こっています。マルタとマリアの姉妹も争います。使徒たちも争います。パウロはペトロと争い、たもとを分かち、違う方向に宣教に出かけます。今の教会だって多くの教派に分かれています。教派の違いで戦争もしていたこともあります。一つの家族であるとも例えられる教会の中でも簡単に争いになります。イエスは「あなたがたに平和があるように」と呼びかけているけれども、下手をしたらその言葉の解釈を巡って争いが起きかねない、というのはとっても皮肉な現実です。
  「平和」という言葉も気をつけなくてはなりません。ただ争いが起こらないのが「平和」だとするのなら、例えば独裁国家は非常に平和です。争いは起こりません。何かあったら秘密警察が来てしまいます。今の日本は確かに平和かもしれません。でもだんだん、口に出す言葉が規制されてきているような気がしているのは気のせいでしょうか。そういった時に指摘しようとすると「争い」になることがあります。もちろん「正義の戦争」などど、どっかの国みたいな主張をするつもりはありません。しかし「争い」を回避することだけが正しいのではないこと。「その人が怒ると面倒だから」という理由で必要な指摘をしないのだったら本末転倒でしょう。でももちろん、のべつくまなく指摘するのが良いというわけではありません。「正しいこと」だけを言っていても通じないこともあります。逆に「耳触りのいいこと」だけを言うのがいいわけでもありません。その中で「和」だけを考えてなあなあで抱え込んでしまいやすのが「家族」なのかもしれません。だからこそイエスは「分裂だ」と指摘したのでしょう。近すぎて指摘できないこともありえます。
 ではわたしたちはどのようにするべきか。人と人とのつながりである「和」が先にあるのではなく、「正しさ」が先にあるのではなく、どの場合も「神さまのみ心」がどこにあるのかを聞きながら進むべきでしょう。だからこそ争いになることもあり得るのだと知ることです。しかしそれに対してすべての人が、どんなに憎い仇であっても「神さまに創られたもの」であることを忘れないことです。そして、それを何によってするのかと言えば、祈りによってしかありえません。祈りながら、神さまのみ心を確かめながら、わたしたちの間の「平和」を問い直すことが必要なのではないでしょうか。

8/7

8/7 再臨は突然に   ルカ12:32~40

「泥棒がいつ入ってくるかわかっていたら自分の家に押し入らせはしない」というイエスの指摘はごく当たり前のことでしょう。予定や想定はしていても、それを越える事態が起こることがしばしばあることをわたしたちは知っています。急な電話、来客などなど、わたしたちはできる限り事態をコントロールしようと努めたり心がけたりしますが、なかなか思う通りにはなりません。ことが起こるのはわかっているけれども、それがいつなのかわからない、という状況は、わたしたちにとっては多大なストレスです。そして労力が伴うことでもあり、難しい事であると知っています。例えば教会は誰がいつ訪ねてきてもいいような状況でなければならないことは知っています。単身だということもありますけれども留守にしていることもある。電話だって取れる状況と取れない状況がある。来客予定を把握していたとしても、突然かかってくる電話や訪ねて来る人に関しては対応できないこともある。しかしだからと言って常時教会に居て電話の前に座っているわけにもいきません。信徒訪問、病床訪問に出かけることもそうですし、教区の宣教的な働きなど、出かけなくてはならないこともありますから。でも人間、やはり予定が立たなかったり、予想外のことが起こったりするとバタバタするし、イライラもするものだと思います。
主イエスの再臨についても同じことで、どんなに願っても、「人の子がいつ来るのか」ということを神さまが教えてくれることはなさそうです。「思いがけない時に来る」と聖書に繰り返し言われている通りです。「来るんなら先に言ってよ!」と言いたいところではありますが、牧師が訪問してきたときに「都合があるんだから先に電話してくれ」と言うことはできても、残念ながら神さまが「明日は都合が悪いんで明後日にしてください」なんてことを聞いてくれるわけがないことを、わたしたちは知っています。
それでもイエスは「用意していなさい」と繰り返し語ります。イエスだって物理的に無理なことはわかっているでしょう。警戒し続けるのは難しいですし、それぞれに仕事などやるべきこともあるからです。ではわたしたちはどうしたらよいのでしょうか。
まず大切なことは、すべてを神さまのために行うということです。仕事も、遊びも、休みも、すべてのことを神さまのためにしているという意識を持ちましょう。それには多くのことを祈りをもって始めることが必要です。祈りをもって会議を始め、祈りを持って終わる。掃除もそう、仕事もそう。口に出して、あるいは心の中で祈ってから様々な事を始めること。また朝目覚めたら祈ること、寝る前に祈ることもそうです。そして礼拝に出席することです。教会関係のカレンダーは日曜日が週の初めの日になっています。週の初めの日に祈りをもって生活を始め、次の日曜日に祈りをもって振り返りながら新しい週を始める。そんな生き方のためです。そして最後に、突然のことを、急な予定変更を歓迎できる心を持つようにしてください。特別なことは何もいりません。突然誰かが訪ねてきて予定が狂うとしばしばイライラするものですが、そうではなく、突発的な様々な事態を歓迎するということです。むしろ喜ばしいと思うことです。もちろん、それを完全にいつもできるわけではありません。でも、心がけていくことを大切にしたいと思うのです。

7/31

7/31 例えば川の流れのように   ルカ12:13~21

今週の聖書は愚かな金持ちのたとえ話。イエスに「遺産の調停」を願った人に対しての辛辣なたとえ話です。「遺産がほしい」という願いを口に出した人に対して「どんな貪欲にも注意を払いなさい」とイエスは言います。しかし、残念ながら資本主義社会で生きるわたしたちにとって、「何かを欲しがる心」と無関係ではいられません。テレビやラジオ、雑誌や書籍に至るまで、様々な分野で様々なものが四六時中紹介される世の中にわたしたちは住んでいるからです。テレビやラジオなんか見ないし、と言っても、他の人のモノを「あらこれはいいわね」なんて欲しくなることもありますよね。わたしたちは残念ながら欲望と無関係ではいられないのです。自分のことについても他人のことについてもそうでしょう。もっとこうなりたい。あるいは周りの人にこうしてほしい。こう接してほしい、などなど、自分を振り返ってみると多くの欲望が渦巻いていることに嫌になることもあります。
 今日のたとえ話の金持ちは、徹頭徹尾自分のことしか考えていません。自分の所にため込み、自分が使うことだけを考えています。でも考えてみれば、自分だけで仕える量というのは限られています。なんでもそうですが、自分の手元に置いておくのなら、自分とせいぜい自分の身近な人にしか用いることができないものになります。なるほど、確かに自分が獲得したものかもしれません。でもその「獲得した」ということが、どこからもたらされたのか思い巡らしてみるとどうでしょう。結局多くのもの、自分の命さえも自分で獲得したのではなく、神さまから与えられたものであることに行き当たります。
 金持ちが金持ちであるのはある種の恵みであるとも言えます。また畑の収穫は大地の恵みで、神さまからもたらされたものです。それを自分だけで仕舞い込んでおくのなら、それは死んだものになります。しかしその反対に誰かのためにそれを用いるのなら、それは生きたものとなるでしょう。神さまはこの金持ちが用意したものを別の誰かのために用いたのです。
 わたしたちは多くの恵みの中で生かされています。自分が今ここにいることも、自分が何かを成し遂げる力が与えられたことも恵みです。与えられていることは強さも弱さも恵みです。そして、それらのものが「恵みである」ととらえられるのなら、「恵み」はせき止められてはならないのです。多くの人が用いられるようにしなくてはなりません。例えば特許という制度がありますが、誰にも使えないように独占していると、それを上回る技術が開発されてしまったりすることがあります。しかし、誰でも使えるように門戸を開いていると、様々な研究が行われて便利になるということがあります。IPS細胞関係の特許は京都大という公的機関が持っているので、多くの人が使いやすい形になっていて、様々な研究が行われています。山中教授も完全に独占すれば多くの利益を得られたかもしれませんが、そうしませんでした。自分の研究という成果を、「与えられた恵み」として多くの人と分かち合っているとも言えます。文章を作るのが上手くても、それを自分だけで読んでいるのなら意味がありません。例えば小説の形で発表することによって多くの人と分かち合うことができます。自分の得たものをささげることによって、自分以外の誰かが助かるかもしれません。「恵み」はせき止められると、水の流れのように淀んでしまいます。命の水の流れのように、わたしたちも多くの恵みを流していけるようでありたいものです。

7/24

7/24 祈る   ルカ11:1~13

「どう祈るのか」という弟子たちの問いに答えて、祈りを教えるイエス。こうやって「主の祈り」はわたしたちに与えられました。多分教会に通っている人で、主の祈りを暗唱できない人はいないと思います。口語は難しくても文語なら出て来るという人もいますね。また、キリスト教関係の学校や施設などでも教えるので、結構多くの方がうろ覚えではあっても、クリスチャンであるなしに関わらず唱えることができるのではないでしょうか。聖ルカ幼稚園の園児たちも「主の祈りをどうぞ」と言われれば唱えることができます。
 一方で、わたしたちは主の祈りは暗記するくらい唱えているけれども、その言葉の一つ一つの意味に目を留めているだろうか、と思うことがあります。「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈る時の「わたしたち」はどこまで含まれるのだろうと考えるだけで、この祈りの射程距離の長さに気が付きます。
最近、子どもの貧困等のニュースが流れます。幼稚園ではあまり関係ないかと思いきや、最近は制度の改革もあって、そういった保護対象にあたるんじゃないかという子どもが通うようになるケースもあります。保育園なんかでは昔からあることだと思いますが、認定こども園を目指す今、そういったことと無関係ではいられません。幼稚園や小学校で、朝食を出すサービスをするところもあるようです。ホームレスになり食べるものが無いとか、生活保護で、とか、そういったことを「自己責任」ととらえる向きもありますが、わたしたち「主の祈り」を唱える者としては、だれの責任であろうとも「少なくとも世界中のみんなが飢えない方がいい」と考えるべきであろうと思います。福祉などの制度の原点は、この「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」の「わたしたち」を「すべての人」ととらえるところにあるのだと思います。
イエスは主の祈りに続けてこう言います。「求めなさい。そうすれば与えられる。」と。執拗に願えば根負けして願いをかなえてくれることがある。わたしたちは祈る時、神さまを根負けさせるくらい一生懸命祈っているのだろうか。主の祈りも、ただのお経のように意味を考えないでただ唱えるだけになっていないだろうかと思います。唱え方がお経のようになった時、祈りの意味は消えてしまいます。祈る言葉の意味を今一度見直し、その言葉にしっかり願いを込めていきたいと思うのです。「わたしたちの罪をおゆるし下さい。わたしたちも人をゆるします」という祈りは、もしかしたらわたしたちの多くにはしんどく響くのではないかと思います。「どうしてもゆるせない人がいる。」というのはごく当たり前の心理です。ですからそれを無理に「しろ」というわけではありません。自分だってできていないのにそんなことは言えません。でも、その力を、思いを与えてくれるように神さまに真剣に祈ることはできるように思うのです。「み名があがめられますように。み国が来ますように。」と祈る時、イエスさまが再び来られることを強く願っているでしょうか。これは主の祈りだけに限りません。成文祈祷というのは、どうしても字を読むだけになってしまいがちですが、その意味を自分のものとしてしっかりとらえ、自分の言葉にしながら思いを乗せて祈っていくことが大切です。言葉はいつか現実になります。祈りというのは、ただ黙って座っていることではなく、自分と世界を変えるための第一歩です。祈祷書の多くの言葉を自分のものとしつつ、今日の礼拝を続けてまいりましょう。