日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

4/4

4/4 「新しい命へ」   マルコ16:1~8

 今日は復活日。イエスさまのよみがえられた日です。ちょうど4月の頭で、日本だと様々なものが新しくなる時期ですし、北海道だとちょうど様々な植物の芽が出始めるころで、「新しい命」であるイースターととってもつながっている感じがします。
 さて、B年はマルコによる福音書が朗読されました。日曜日の朝、イエスの葬られた墓を見に行った婦人たちが、イエスの遺体がないことに気がつきます。そして、そこにいた若者に「あの方は復活なされてここにはおられない」と言われて、逃げ帰ってくる、という話になっており、「復活後」の話はほとんどありません。これがマタイやルカの福音書と大きく違うところです。しかも、福音書自体が「恐ろしかったからである」で終わっているのです。
 「新しいこと」「もの」というのは怖いものです。物事を新しく始めたり、新しい場所に行ったり、新しい仕事を始めたり、新しい状況になったり、etc. わたしたちはそういうとき、恐れを感じます。新しく幼稚園に来た子たちが、親から離れるのが不安で泣き出すように、なかなか新しいことを始められなかったように、わたしたちは恐れを感じるものです。新しい技術がなかなか導入されなかったりするのもそうですね。墓に行った婦人たちにとって、墓にイエスの体がない、ということは恐ろしかったでしょう。そしてさらに「復活した」(ガリラヤでお目にかかれる)という新しい状況は「恐ろしい」ものです。だから逃げ去ってしまったのです。
 イースターは「新しい命」の時です。神さまによる新しい命の始まりの時です。多くのものが新しくなります。ということは、わたしたちが恐れを抱きやすい時期でもあります。しかし、恐れることはありません。なぜなら、新しいことというのは、神さまがわたしたちに与えてくださったものだからです。イエスが「新しい命」に復活した、ということはわたしたちも新しい命に向かっていくということです。そして、イエスさまはわたしたちの手を引いてくださいます。イエスさまに従って、新しい命に向かって、目の前にどんどん出てくる新しいものを受け入れながら進んでいきましょう。

3/28

3/28 「なぜわたしをお見捨てになったのですか」   マルコ15:1~39

 今週の福音書はイエスの受難。教会の暦は今日の「しゅろの主日」から聖週に入ります。エルサレムに「ホサナ」と歓呼の声で迎えられてから、最後の晩餐、逮捕、裁判、そして十字架、最後に復活、と続く、キリスト教にとって一番大事な1週間です。わたしたちの信仰の原点は、この受難の物語にあるのです。
 十字架にかけられたイエスは何を思ったのでしょう。ゲッセマネで「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈りましたが、十字架の上では「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。御心に適うことがご自分の十字架上の死であることは、ある程度予感はしていたでしょう。しかし、実際に十字架にかけられるというのは非常に痛みを伴うことです。血も流れる。だからこそ「見捨てられた」という気持ちになるというのは当たり前です。この叫びは詩編第22編の一節で、実は詩編の精神を叫んだのだ、という話がありますが、そんなきれいな気持ちではないでしょう。覚悟していたとしても、この痛みは人の身では耐え難いことです。それに、人の気持ちというのは、たとえわかっていたとしても、考えているのと違う反応をしてしまうこともあります。また、心の中に相反する気持ちが同居することもあって、一つに定まらないこともあります。自分の中にたくさんの矛盾を抱えているのが人です。たとえイエスといえど、頭で自分の受難のことが分かっていたとしても、苦しさに耐えかねる部分もあったのです。苦しさを口にしたのです。だからこそ、わたしたちはそのイエスによって救われるのです。
簡単に気持ちを切り替えられたらどんなにいいでしょう。簡単に割り切ることができればどんなにいいでしょう。でも、わたしたちはそれがなかなかできない生き物です。だからこそ、そのイエスが生身の「人」として「人の間で」生きた姿を見て救われ、また神さまがわたしたちのどうしようもなさをも理解してくださっていることを知るのです。そしてまた、イエスが苦しさを口にしたことを覚えましょう。苦しさは口にせず耐えるのが美徳のように思われることがあります。しかしそうではありません。ほかならぬ神さまに向かって「苦しいのです」と口に出すのがよいのです。イエスもそのようにしたのですから。誰も聞いてくれる人がいないなら、神さまに聞いてもらいましょう。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。わたしは苦しいのです」

3/21

3/21 「神さまの種をまく」   ヨハネ12:12~20

 「一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ」、イエスはそういって多くの人々に教えます。これは自分が十字架の上で死ぬこと、そしてそれによって神さまの教えが世界中に広まることを示しています。また、その「死」は「栄光」であり、死ぬことが終わりではない、ということも示してくれました。
 「種」は不思議です。それ自体よりも大きなものを生み出すことができ、種そのものは最後には跡形もありません。神さまがなさることは不思議なものです。イエスは自分を「種」にたとえました。教会という木が大きく育ったあと、イエスの痕跡はたくさんありますが、イエス自身はどこにもいません。「教会」は、それに倣って神さまの種をまく場所です。
 わたしたち人間は自分のことを「残したい」と思うことがよくあります。物に名前を刻む、例えば病院などに自分の名前を入れる、などなど。しかし、自分の名前を残したとしても、それが大きくならなければいったいなんの意味があるでしょう。というよりも、教会において大事な考え方として、第一に「神さまを伝える」ということです。個人の名前を残すことより、誰がやったのかを伝えていくことよりも大事なことです。「神さまを伝える」ことより「誰がやったか」を優先した時、神さまは伝わらなくなります。「人の名」にこだわると、麦は落ちても一粒のままであり、名前にこだわらないのなら、その麦は多くの実を結ぶのです。そもそも、教会が2000年維持されてきたのは、名前も知られない多くの信仰者たちが「種をまき」続けたからです。名前が残っている人も、それが主目的だったかと言われればそうではないでしょう。わたしたちは多くの「名前も知らない」人たちという「種」の上に育ったのです。
 大斎節は、ちょうど春に差し掛かる時期です。種なども準備される時期です。日本では年度が替わるタイミングで、新たな種まきの始まる時期でもあります。自分ではなく、神さまの種をまくことを意識していたいものです。

3/14

3/14 「なんの役にも立たないでしょう」   ヨハネ6:4~15

 今日の福音書は五千人の給食。集まった多くの人たちに食べさせるためにはたくさんのパンが必要です。子どもの持っている「5つのパンと2匹の魚」では足りない、という弟子たち。そして、その「何の役にも立たないでしょう」と言われたもので多くの人々の腹を満たしたイエスが見事に対比されています。
 「5つのパンと2匹の魚」では「五千人」の腹を満たせない、という判断は極めて理性的なものです。だって、明らかに足りない。分けるのも難しいくらいの量ですよね。だから弟子たちの反応は当たり前のことだと思います。それをイエスは力技でひっくり返してしまうわけです。ただアンデレの言った「役に立つ」「立たない」という考え方には少々違和感があります。
 例えば「教会」という場所は誰か一人の力で維持しているわけではありません。むしろ「多くの人」の力で維持されているのが健全です。「この人がいなければ成り立たない」という状況におちいらないようにするべきですし、「わたしがいるから何とかなってるんだぞ」という言葉が聞かれることが無いようにしたいものです。一人一人の力は小さくても、力を合わせることで大きな力を出すことができます。「役に立つ」「立たない」というのは「誰か」が決めるのではなく「神さま」が決めることです。少年がたまたま持っていた「パンと魚」でさえ、神さまは五千人を養うものとしてくれました。わたしたち小さな一人一人の力も、神さまによって「多くのこと」を成し遂げる力に変えられることがあります。「なんの役にも立たない」と決めるのではなく、「きっと何とかなる」と神さまに頼ることこそ、多くのことを成し遂げる原動力になるはずです。そしてそれこそ「教会」に必要なものだと思います。

3/7

3/7 「熱心を神さまに」   ヨハネ2:13~22

 本日の福音書は「宮清め」。イエスが神殿から商人を追い出す場面です。追い出すと言っても言葉で諭すのではなく、文字通り実力行使に出るわけで、優しいというイメージのあるイエスの激しい面が見られます。
 追い出された商人たちですが、彼らも別に、ただ商魂がたくましいから神殿の境内で商売をしていたわけではありません。それなりのニーズがあってのことです。神殿にささげるいけにえの動物を遠くから連れてくるより、現地で手に入れたほうが安全です。また、神殿へ納める神殿税(要するに献金)は普段流通しているローマの貨幣ではなく、イスラエルの古い貨幣で納めることになっていましたから、現地で両替するのが巡礼する人にとっては便利です。普段使わないものを溜めておくのも大変ですから。しかし、それが長くなることによって神殿の境内で商売するのが当たり前になり、本来の理由であったニーズとは離れてしまっていたのでしょう。
 「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」という言葉は、神殿の商人たちにかかっている言葉だと言えます。最初は人々のことを考えていたはずですが、商売のほうがメインになってしまいました。商人だから当たり前かもしれない。しかし、それを整えるのは神殿にも責任があります。教会でも事業に熱心になるあまり、「祈りをささげるため」ではなく「事業のため」に教会に足を運ぶようになったりすることがあります。「人のため」「神さまのため」と口には出しながら、祈りよりもそちらが優先になることがあります。
 わたしたちは神さまによって生かされている、ということを信じるものです。だからこそ、わたしたちの「熱心」をきちんと神さまに向けることが必要です。大斎節はそのための祈りの期間です。自分の「熱心」の向ける本来の方向を見つめましょう。

2/28

2/28 「神の言葉を恥じる」   マルコ8:31~38

 今日の福音書はイエスが死と復活について語る場面。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という言葉はあまりに有名です。
 新型コロナウイルスによって、多くの教会が今までと方向転換をしなくてはならなくなりました。礼拝をしようと「集まる」ことすらも難しくなっているからです。北海道は「対策をする」ことで礼拝を行うことができていますが、東京などでは「礼拝を休止」しています。しかも「あそこで礼拝をやっている」という噂が出ると、越境して礼拝に来る人がいたり、自粛警察が出てきて嫌がらせをされたりと、地域によっても大きく違います。それでも「集まる」ことが、これほど後ろめたい気になるなんて想像もしていませんでした。イエスの言葉を「恥じる」というわけではないのかもしれませんが、それに近いことなのではないかとも思います。
 「神のことを思うのか、人間のことを思うのか」というのは、非常に大きな問いだと思います。今の時期で言えば、神さまのことを考えるなら必ず礼拝をするのが当たり前です。人のことを考えるなら、礼拝をしない、休止するのが当たり前です。そこで教会は「礼拝をする」という方向に向かいます。もちろん、様々な対策をとってのことですけれども。軸は神さまにあるのです。礼拝を休止する場合でも、自宅で礼拝できるやり方を整えるとか、いくつかの方法はあるでしょう。少なくとも教会が神さまに軸足をおかないということはありえない。でも、わたしたちは時々、自分の心の弱さのゆえに、「人」に軸足を置いてしまうことがあります。神さまの言葉を恥じるような方向に向かってしまうことがあります。そんな状態で、わたしたちが自分の十字架を背負うことができるかと言われると厳しいように思います。
 今は大斎節です。そう、神さまの言葉をわたしたちに取り戻すための時期です。自分のことを見直して、神さまの言葉を恥じるような動きをしていたら改める時期です。祈りましょう。神さまのみ言葉を聞きましょう。そして、自分の十字架を背負って、イエスさまの後に従いましょう。

2/21

2/21 「霊に送り出される」   マルコ1:9~13

 大斎節が始まりました。今日はマルコによる福音書から、イエスが荒れ野に行った様子が読まれました。マルコによる福音書の記述はとてもシンプルなもので、サタンから誘惑を受けたこと、四十日間荒れ野にいたこと、天使たちが仕えていたことが描かれるのみです。ここで大切なのは、イエスが荒れ野に行ったのは「霊」に送り出されたから、ということです。そして、その「霊」というのは悪い霊などではなく、洗礼の時に天から下ってきた「霊」、つまり聖霊だということです。「霊」は、わたしたちにとっても様々なことをもたらしてくれます。しかし、「霊」は神さまの霊であり、思うままに動くものですから、一見、わたしたちにとって不利益に見えることにわたしたちを導くことがあります。四十日間荒れ野にいるということはとても大変なことです。食べ物は少なく、水も少なく、野獣もいる。わたしたちだってある程度装備が整っていても、人の住んでいないところで四十日間過ごすというのはなかなかできることではありません。そんなところにイエスは導かれたのです。「試練」というと聞こえはいい気がしますが、一歩間違えば死んでもおかしくない状況です。でも、そんな時でも神さまは助けを用意してくれています。天使たちが仕えて、イエスを守っていたのです。「霊」が導く試練には、必ず神さまの助けがあるはずなのです。だから乗り越えることができる。よく「神さまは耐えられない試練は与えない」と言って、「試練」(しんどい状況)を肯定しようとすることがありますが、それは違います。明確に分かる形で助けが近くにないのなら、それは「霊」によって導かれた試練ではなく、人によって押し付けられたものです。また「試練」だからと言って助けを求めないこともありますが、それも違います。その試練を「霊」に与えられたものにするのなら、助けは必要なのです。しんどい時ほど周囲から助けを得るべきです。そして、「試練」の中にある人がいたなら、できる限り手助けすることです。そうすることで、その人は乗り越えることができます。「霊」による試練なら必要な助けに、人によるものなら「救い」となるのです。

2/14

2/14 「言ってはいけない」   マルコ9:2~9

 大斎前主日の福音書は、必ず「イエスの姿が変わる」場面が読まれます。今日はマルコによる福音書。今日の朗読部分の最後に、イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに告げます。
 なぜ、イエスは「話してはいけない」という言い方をしたのでしょう。一つには「メシア・救い主」がある期待に満ちている言葉だったからです。神によって「わたしの愛する子」と言われ、モーセとエリヤと語らったイエスは「新しい時代を担う者」「メシア」と弟子たちには見えたでしょう。しかし「メシア」と言えば、弟子たちや多くのユダヤ人たちには「ローマ帝国の支配を退け、自分たちの国を作るための指導者」でした。しかしイエスは言います。「人の子が死者の中から復活するときまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」 「人の子」つまりメシアは「一度死ぬ」ということです。それは戦争に勝つ指導者像からはかけ離れています。人々の期待通りではないわけです。だからこそ、神さまによる正しい「救い主」という姿を見せてから、人々にそのことを伝えなさい、とイエスは言ったのです。そしてそれはイエスの復活によって既に示されたので、わたしたちは「イエスこそ救い主」と大いに語らなくてはなりません。そして今週から始まる大斎節は「イエスこそ救い主」であることをもう一度確認するための大事な期間です。イエスさまが救い主であることを黙想しながら、大斎節を過ごしましょう。

2/7

2/7 「人里離れたところで」   マルコ1:29~39

 今日の福音書はイエスの活動について。イエスがシモンの姑をはじめ、多くの人を癒したり、あちこちで説教したり、悪霊覆いだしたりしたところです。ここでわたしが重要だな、と思うところは、もちろん癒しの業もそうなのですが、イエスが朝、人里離れたところで祈っていたところです。福音書には時々、イエスが人里離れたところで祈る様子が描かれています。
 「祈る」というのはどこでもできることです。いつでもどこでも、それがたとえ教会という場所でなくてもできることです。だから教会に行かなくてもいいんだ、と言う人もいます。なぜなら「祈り」というのは神さまと自分とが話すことだからです。特に祈りの上手な人ならば、誰がいる場所でも、どんな喧噪の中のであっても、「自分と神さまの祈りの場所」を作り出すことができます。だからどこで祈ってもいい、確かにそうです。でも、そういった人であっても、例えばイエスさまでも、周囲と離れ、人里離れたところで祈ることが必要です。ましてや祈りが決して上手ではないわたしたちならば、どれだけそうやって一人で祈る時が必要になることでしょう。わたしは時々感じますが、「あまり祈っていない」時と、「たくさんお祈りした」時では全然心の状態が違います。やはり、神さまにお話するということは、わたしたちに心の安定をもたらしてくれます。
 「人里離れたところ」をこの日本で見つけるのはなかなか難しいものです。だって、あっちこっちに人が住んでいるし、人の動きも多い。本来、教会というのはそうやって「祈る」ための場所としてあるのです。お寺や神社もそうですね。でも、そういった場所にはなかなか足が向きにくい。また、携帯電話やスマートフォンの出現で、わたしたちは便利になりましたが、ますます「人里離れる」ことが難しくなりました。この便利な小さな箱は、「携帯する人里」と言っても良いと思います。心の弱いわたしたちは、ついつい一人になるとスマホを見てしまい、なかなか離れることができません。ですから、一度その、ポケットの中の人里を脇に置いて電源を切り、静かに神さまと語らうときを、一日の中で作ってみてください。ほんの5分ほどの時間でも、神さまはわたしたちに豊かな時をくださいます。「人里離れて」祈るひと時を大事に、信仰生活を送っていきましょう。