福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
7/17
7/17 多くのことに思い悩む ルカ10:38~42
本日の福音書はマルタとマリアの物語。忙しくしているマルタが、イエスの所で話を聞いているマリアをとがめてイエスにたしなめられる。そんな有名なお話です。しかし、世の主婦の方々は、どちらかというとマルタの気持ちがよくわかるのではないでしょうか。あれもこれもと家事に追われ、教会に来たら来たで色々な事がある。「失礼のないようにしなければ」とか「恥ずかしくないようにしなければ」なんて考えると頭がいっぱい。そもそも、みんなで分担してやれば一人一人の負担って、それほどでもないはずなんですが、やっている人に物事が集中して、これがまたなかなか分担できないというのも悩みです。むしろ「一生懸命頑張っているマルタを評価してやってよイエスさま」と、この箇所を読みながらいつも思います。
教会の礼拝に始めて来る人がいた時、教会の対応は2つに分かれます。1つは積極的にどんどん話しかけていくこと、もう1つは、相手からアプローチがあるまでそっとしておくことです。もちろんこれはどちらがいいとも悪いとも言えません。話しかけてほしい人もいるし、どんどん話しかけてほしい人もいる。積極的な人もいれば引っ込み思案な人もいる、本当にそのニーズは様々ですから正解はありません。東京オリンピック招致の時「おもてなし」という言葉が人口に膾炙しましたが、本来「おもてなし」というのは、様々なものを準備して歓待するだけではありません。状況によってはそっとしておくのもおもてなしの一つですよね。要件があればすぐできるように、そばにいるというのも大事なことです。
この状況ではマルタがイエスにたしなめられてしまいましたが、かといってみんながマリアになってしまえば、そもそも大事な「もてなし」そのものがなくなってしまいます。かといってみんなが忙しく立ち働いているのなら、イエスは放っておかれてしまうわけですからこれもよくないでしょう。状況に応じて、人に応じてそれぞれの対応があるわけです。
この話を読み解くヒントはイエスの言葉にあります。それは「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである」ということです。わたしたちは一度に色々な事を気にしてバタバタするのではなく、目の前にある自分に与えられた一つに集中するほうがよいのだと思います。イエスをもてなそうと思ってしていたはずなのに、かえって居心地が悪くなってしまうような場合は、もはやもてなしではなくなってしまいます。マルタにとっても「イエスのことを考えてのもてなし」であったはずなのに、「もてなすこと」が中心に来てしまって、そばにいることもまたイエスのためなのだ、ということがどっかに行ってしまっています。そもそも「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と言っていたイエスのことですから、誰かがそばにいてイエスの話を聞くというのも大切です。わたしたちが教会で行うすべてのこと、その中心にイエスがおられることを知りましょう。そして、教会で行われるすべてのことは、神さまのため、イエスさまのために行われることを知りましょう。礼拝に出るのも、食事や会合の世話をするのも、イエスさまのためです。教会にふらっと来た人に対応するのも神さまのためです。これが、イエスの言う「必要なことはただ一つだけ」ということなのです。
7/10
7/10 敵の世話になる ルカ10:25~37
今週の福音書は「よきサマリア人」。誰もが知っている、もしかしたらクリスチャンじゃなくても知っている人の多い、本当に有名なお話です。ところでここに出て来る“サマリア人”ですが、福音書を読むと「ユダヤ人とは交わらなかった」とありますが、どうしてなのでしょうか。
かつてイスラエル王国(ユダヤの国の北半分)がアッシリアに滅ぼされた時、国の高官たちが連れ去られた上、その空いた場所にアッシリアから来た人々が入植しました。残っていた人々とやってきた人々が交わり、神さまを信じるようになった人たちが、それが「サマリア人」です。しかし、アッシリアの宗教や習慣も混じっていたため、「イスラエルの血を穢した」として当時のユダヤの人たちは交わりを避けていました。聖地であるエルサレムからも締め出されたため、ゲリジム山に神殿を築き、「サマリア教団」を形成しました。まったく違うのでしたらあきらめて共存できたかもしれませんが、ほとんど同じで細部が違うとなれば、かえって諦めがつかなかったのかもしれません。そんな状況ですから、「会ったこともないけどなんか怖い人達」くらいの印象の人もいたでしょう。なんせ交わらなかったのですから。
イエスがこと譬えを語った時は、二つの民族がお互いに口も利かないような状況でした。要するに「敵」です。しかし、追剥に襲われたユダヤ人に手を差し伸べたのはその敵だけでした。そして、彼はその手を取り、運んで治療してもらうことになったのです。もちろんこの状況だとやられて身動きできなかったかもしれませんが、それはある意味で「受けざるを得ない」状況にあったということです。起き上がったユダヤ人はどうしたか、もちろん「サマリア人」に対する態度は変わらなかったかもしれないけれども、この出会いによっておそらく意識は少し変わったのではないでしょうか。
「隣人を助ける」という時、普通「隣人」の範囲に敵は入っていないのです。おそらくそのサマリア人も敵に手を差し伸べなくても問題なかったでしょう。しかし、サマリア人は手を差し伸べ、ユダヤ人もその手を取ったのです。もし、手を差し伸べる側だったらあなたはどうしますか。祭司たちと同じように去りますか、手を差し伸べますか。逆に、手を差し伸べられる側だったら、あなたはその手にすがりますか。それとも振りほどきますか。「敵」を世話できますか、世話になれますか。これは、大きな覚悟が必要な事です。しかし、その道を通った時、わたしたちの「隣人」の範囲は劇的に広がることになるでしょう。
7/3
7/3 この家に平和があるように ルカ10:1~12,16~20
どこかの家に遣わされたら「この家に平和があるように」とあいさつしなさい、とイエスは言いました。だからでしょうか、祈祷書の「病人訪問の式」の最初に「司祭は病人の家または病室に入って次のように言う。『平安がこの家にありますように』」と書かれています。しかし思うのですが、病室だと大部屋で「どのベッドかな」なんて探していますとなかなかこのように言う機会がありません。家でもなかなか入って改まって『平安がこの家にありますように』と言うことはなかなか難しいですね。何となく「調子はいかがですか」と様子を尋ねたり、「しばらくでした」とあいさつをしたりと、なかなか祈祷書通りにはできないものだなぁと思います。もちろんこれには「一部または全部を用いる」とあるので必ずしも全部しなくてもいいと言えばいいのですが。
「平和があるように」というあいさつは、イエスたちユダヤ人にとっては日常のあいさつでした。「シャローム」(平安)というあいさつが、おはようもこんにちはもさようならとしても用いられたからです。わたしたちが礼拝の中で行う「平和のあいさつ」はまさにここからとられていて、お互いにお互いの平安を、平和を祈り合う大切な礼拝の一部でもあります。しかし面白いのは、「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる」と言っているところです。口から出した言葉、祝福の言葉である「平和」自身にまるで意志があるかのように、言葉が飛んで行ってその人の所にとどまったり戻ってきたりするようなイメージです。
実にイエスの時代の人々はこういった言葉の力を強く信じていました。イエス自身が神の言葉で、イエスの口から出た言葉が実現していたように、強い願いをもって口から出された言葉が現実となり得ることを多くの人が当たり前に信じていました。「平安を祈る」こともそうですが、裏を返せば「呪う」ことだってできたのでしょう。イエスはその言葉を強く意識させました。道中にあいさつをせずに、家に行ってから「平和」という言葉を掛けるようにと促したのです。「平和」という言葉は日常のあいさつですが、その言葉の、普段何気なく使われている言葉が、あいさつとしてしょっちゅう耳にする言葉が、イエスという神の言葉によって現実のものとなったのです。
「この家に平和があるように」「あなたがたに平和があるように」というあいさつは、もしかしたらわたしたちにとっても、「ああ、教会でいつもやってることね」という感じで、あまりその意味を強く意識しない言葉かもしれません。「主の平和」とあいさつを交わす時、握手をしようがお辞儀をしようがハグをしようが、相手に対して「平和」を強く願っているでしょうか。「だれとやったっけ」というほうが気になってしまって、願うことを忘れてはいないでしょうか。やり方や全員にやったかどうかが問題ではなく、わたしたち全員が心から、相手の「平和」を願う時、それは現実のものとなるでしょう。教会の礼拝で唱える一つ一つの祈りの言葉、その言葉を強く意識して、その言葉の通りに強く願って、ともに祈りをささげていきたいと思います。
6/26
6/26 神さまを一番に ルカ9:51~65
わたしたちの誰もが“今一番心にかかっていること”を持っています。例えば“病気の家族を抱えていて、出かけていてもいつも心配である”とか“天候が悪いので畑の様子がいつも気になる”とか“高齢のペットを抱えていて自宅での様子が気になる”とか“昼から出かける予定をしているけど、礼拝早く終わるかしら”とか多くの場合があります。しかし、今日の福音書でイエスは「あなたに従います」という人に対して、父の葬りといった重要な事から、家族へのいとまごいという小さな、しかし大事なことまで、気にせず自分に従いなさいと言います。正直なところ、理不尽だなぁと感じます。これをわたしたちに当てはめてみるとどうでしょう。ここにいるわたしたちはみんな“イエスに従おう”と思った人であることは間違いありません。でも、ここに居ながらもちょっと気になっていることがあったりしないでしょうか。また、今日来られなかった方々はどうでしょうか。「イエスさまに従う」と言いながら礼拝に来ていない(来られない)のは、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる」ことにならないのでしょうか。でも仕事があったり、断れない用事があったり、そもそも病気だったりしたらと、事情はたくさんあるものです。
教区で「洗礼準備や信仰生活についてのハンドブックを作ろう」という話が持ち上がっていて、改めてわたしたちが最初に教会に来た時に読んだような入門書をじっくり読む機会に恵まれています。じっくりと読んでいくと、反省させられることしきりです。信仰生活が長くなって、なんとなく惰性になってしまっていることもあるかと思いますが、信仰においての姿勢、イエスに従うと言った時の姿勢について書かれているところを読んでみると、襟を正して背筋が伸びるような気がします。「礼拝は公祷であるから、なるべく出席すること」とか「聖書は個人で読むものではなく、多くの人と読むものです」とか、多くの項目があって、いちいち「ああ、そうだったなぁ」と思わされます。もちろん、今の自分には厳しいこともあるのですが、今一度自分の信仰を見つめ直すことが必要だと感じます。
ここでイエスが言いたいのは、休まずついてこいとか家族を捨てろとか法事なんかやめろということではなく、信仰に対する姿勢のことです。日常の中で、神さまよりも「気になること」ができてはいないでしょうか。一番大切なのは、イエスに従う「姿勢」です。教会に来る、来ないという単純なことが問題になっているのではありません。事情によって来られないこともありますし、そもそもそれぞれのやっていることはやはり、神さまから「これをしなさい」と呼ばれたことであるはずなのです。ですが、主日は神さまの日です。ですから、この日ばかりは、何をするにしても「神さまのため」にしましょう。礼拝に行くなら神さまのため、仕事も神さまのため。誰かと出かけるならそれも神さまのため。そのように、普段のわたしたちの生き方を、すべて神さまのために、神さまのお造りになった世界のためにすることが、イエスに従うことの一番の姿勢なのです。
6/19
6/19 自分の十字架 ルカ9:18~24
自分にとってのイエスさまって、どんな人でしょう。真剣に考えたことがありますか? やさしい、すべて包み込んでくれそうな・・・なんて優しいイメージの人もいるでしょうし、先頭に立って道を示してくれるなんて、師匠のようなイメージを持つ人もいるでしょう。もしかしたら、厳しい、なんてイメージを持っている人もいるかもしれませんね。イエスの周りにいた人たちも、様々なイメージを持っていたようです。今日の福音書でも「洗礼者ヨハネだ」とか「エリヤだ」とか「昔の預言者だ」とか、様々に言われていた様子がうかがえます。では、一番身近にいた弟子たちにとってのイエスは何かと言えば「神からのメシアだ」というものでした。メシアというのは「救い主」という意味であり、自分たちを救ってくれる者、特にユダヤ民族を異民族の支配から解放してくれる人のことを指していたようです。弟子たちがどのように考えていたのかは必ずしも分かりませんが、そう遠いイメージではないと思います。そんな彼らにイエスは「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と声をかけます。
「十字架」というのは、今でこそ救いのシンボルであり、十字架のアクセサリーを身につけている人も多いでしょう。でも、当時の十字架のイメージは「死刑」、しかも一番悲惨な処刑の仕方のイメージで、決して前向きなものではありませんでした。イエスが十字架にかかった時のように、罪人が自分の十字架を担いで処刑場まで行き、十字架にくぎ打たれ、処刑される凄惨なイメージでした。普段、わたしたちが「イエスさまは十字架にかけられて、すべての人をお救いになった」と語る時、「救われた」ということに焦点が当たり、「十字架の苦しみ」を避けてしまうことってないでしょうか。
わたしたちが「救われた」という時に、十字架は避けては通れないものです。十字架を担うというのは苦しいものです。簡単ではありません。しかしイエスはその十字架を「日々」背負いなさいと言うのです。イエスに従うということは、楽になることだけではありません。楽しいこと、嬉しい事だけではありません。つらいこと、苦しいことも必ずついてきます。「十字架」というのはそういうことです。「日々の生活」が楽しい事だけに満ち溢れていたらいいでしょうけれども、なかなかそうはいきません。自分にとって避けたいこと、嫌なこともやってきます。逃げることができない時もあります。その中でやっていかなくてはならない、そう考えていくと、鬱々とした気持ちになってしまいます。
でも、イエスは厳しいことを言いながらも、わたしたちを見捨てたわけではありません。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われたように、いつもわたしたちと共にありながら、同じ十字架を、いやわたしたち自身以上の十字架を背負いながら、わたしたちを励まして、導いて下さっているのです。一緒に歩いて下さっているのです。イエスと共に、十字架を背負って歩みながら、時にイエスに助けてもらいながら、またお互いに助け合いながら、一歩一歩、信仰の歩みを続けていきましょう。
6/12
6/12 罪深さとふさわしさ ルカ7:36~50
今週の福音書はイエスがファリサイ派の人々と食事をしている光景から始まります。その席に女性が入ってきて、イエスの足を涙で洗ったところから、問答になります。「罪深い」とされた女性がイエスのもとに近づくことを、ファリサイ派の人が見とがめます。「罪深い女」が近づくことをとがめないイエスに対しての疑問です。「罪深い」人を近づくことを許さないべきなのではないか、というのです。
様々な場面で、色々な人に「礼拝に出てみませんか」と教会はいつも声をかけています。でも、たまに「わたしみたいな罪深い人が出られない」とか「下々の者が出られない」と断られることがあります。多分穏便に断ってくださっているのでしょう。そんなことを言わずにぜひ来ていただきたいなと思うのです。「礼拝に出てみたい」と思ったことは、すなわちイエスに近づく資格を得たということです。ファリサイ派の人の言うとおり、「罪深い人が礼拝に出られない」というのなら、わたしなんか牧師をしている場合ではありませんね。罪だらけですし。そして、それは今ここにいる皆さん一人一人も同じことです。もし、この中にですね、自分は礼拝に出るのに、教会に来るのにふさわしくないと考える人がいたのなら、その人こそ礼拝に出るのにふさわしい人です。それは誰かに決められることではありません。礼拝に出ることで、わたしたちはイエスの赦しを、イエスが包み込んでくれることを豊かに感じることができます。自分のことを「罪深い」とか「資格がない」とか思いながらも礼拝に出ようとするその姿勢は、「信仰」を示すものとなります。
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」とイエスは言います。「行きなさい」ということは「生きなさい」につながります。赦されたから、そのままどこかへ「行って」しまうのではなく、赦されたことを抱きながら「生きなさい」ということです。そしてそれは、誰かに評価してもらうものではありませんし、誇るものでもありません。ただイエスさまはわたしたちを常に招いてくださっていること、それは「罪深さ」で妨げられるものではないということ、それぞれの「罪深さ」がありながらもあえて、招いてくださることを知りましょう。そして、その招きに応えて、歩み続けましょう。大切なのは、イエスさまに近づくことのできる「資格」というのは、自分が判断するものでも、他人が判断するものでもなく、ただ神さまの招きによるのです。すべての人を招いてくださる神さまがいる以上、何を迷うことがあるのでしょうか。そして、それを確認する場が、礼拝です。わたしたちはみな、その礼拝に招かれている者です。招かれていることを、それぞれが「赦されて」いることを確認しながら礼拝を進めていきましょう。
6/5
6/5 嘆く者に、イエスを通して歩み寄る神 ルカ7:11~17
先週、今週と、イエスの癒しの話が続きます。病気を癒された百人隊長の僕に引き続いて、今度はナインのやもめの息子が生き返らせられます。嘆く母を見てあわれに思ったイエスは、棺に手を触れ言葉をかけると、その息子は生き返ります。
先週の話と今週の話、この2つに共通するのは「言葉」です。イエスの語った言葉が「現実」になったこと。それは、イエスに神の力が宿っていることを示しています。なぜなら、ヨハネによる福音書にもある通り、世界は「言によってなった」からです。神の言葉は現実となります。「言葉」だけで人を癒したり、よみがえらせたりする者がいるということは、その人に神の力が宿っている、もしくはその人を通して神の力が働いたことの一つの証明となります。人々が驚き、そして神を賛美するのも当たり前です。待ち望んだ救いが目の前に現れたからです。そしてこの話で何より大切なのは、イエスが自ら「あわれに思って」近づいたことです。百人隊長の時のように、願いがあって癒されたのではなく、イエスの側から近づいて行ったのです。母親はもし、息子が危篤状態だったら、きっとイエスに願ったでしょう。しかし死亡が確認され、一切の望みが絶たれた時、嘆くことしかできませんでした。イエスはそんな彼女をあわれに思い、近づいて行ったのです。近づくイエスのことを、ルカが「主は」と書き著し、そのほかの部分を「イエスは」としているのも偶然ではありません。かつてエジプトで「苦しむ民の声を聞いた」とモーセに伝え、出エジプトを起こしたように、神さまは時に、「神のみ心のままに」嘆く人々に歩みよります。イエスを通して嘆くやもめに近づく神のことを、ルカは「主」と表現し、イエスを通して神の力が働いたこと、そしてイエスが「神の言」、神の子であることを示したのです。それを見た人々は「神はその民を心にかけて下さった」と言って、神を賛美します。イエスその人ではなく、その背後にいる神さまを、確かに人々は見ていたのです。では、この話は、わたしたちに何を教えてくれているのでしょうか。
一つは、イエスは神の言であり、神のみ心を行う者であるということです。そして、もう一つは「神はみ心のままに、嘆く人々に歩みよることがある」ということです。しかも、直接ではなく、「誰かを通して」その力を現すということです。もちろん、嘆いているから神さまがいつも助けて下さるわけではありません。その御心は計り知れないからです。そして、「誰かを通してその力を現す」ということは、わたしたちを通して働くこともあるということです。わたしたちがそれを望んでいるかは関係ありません。その時がいつかはわかりませんが、可能性はいつでもあります。だからこそ神さまのみ心を知るため、祈りを続けましょう。それはとても小さなことかもしれません。しかし、いつでも神さまの召し出しに応じる、そんな覚悟を持ち続けていたいのです。
5/29
5/29 命令を遂行するもの ルカ7:1~10
本日読まれた福音書は、ルカによる福音書から、百人隊長の部下が癒される場面です。百人隊長の民族についてははっきりしませんが、おそらくはローマの兵隊であったのでしょう。彼らは憎まれることも多かったのですが、その百人隊長は異邦人でありながらもユダヤ人との関係を重視した人であったようです。普通は異邦人とは交わらないことを良しとしていたユダヤ人の長老たちが熱心に願うほど慕われているというのは、かなり珍しいケースなのではないかと思います。イエスは今日の話の中で、この隊長たちの部隊の信仰を「これほどの信仰を見たことがない」と言って褒めます。
しかし、考えてみると少し不思議な話かもしれません。なぜなら、上官の命令に従うというのは、軍隊において当たり前のことです。上官の命令にいちいち異を唱える部下がいたら統制がきかず、戦闘を行うことができません。不従順な兵士は処罰されます。100人隊という一つの部隊を率いるためにも、命令の内容のいかんではなく、上官の命令には従うというルールを徹底させるのはごく普通の行動です。そして、その命令は主に言葉によって為され、隊長の言った命令(言葉)が実現されるのです。また当然のことですが、100人隊長も、その上の1000人隊長や将軍の命令に従います。こうやって軍隊は動いていくものです。
100人隊長は、イエスがやって来た時に直接会おうとしませんでした。友だちを送り、「わたしはあなたを迎えるのにふさわしい者ではないし、こちらから出向くのさえふさわしくない」と言わせます。そして「ひと言おっしゃってください」と言います。ただ言葉だけをください、と言うのです。部下の癒しを願いながらも、自分はイエスの前に出る資格がないと考える隊長の心にあったのは、「言葉」への深い信頼です。神さまが直接来てくれるのでなくても、間接的に伝えられた言葉さえあれば、自分の部下は癒される。自分の命令を実行する部下なのだから、自分をはるかに越えた上官であるイエスの言葉も当然実行するに違いない。“離れていたとしても自分がそうしているように当たり前に実行できる”と考えられる、その「信頼」はまさに「信仰」です。
確かにこの100人隊長は自らの「軍隊」という経験を通して、それを素直に受けることができました。「軍隊」と言うと、わたしたちにとっては縁遠く、忌避したいもの、という感じがします。庶民であるわたしたちは、こういった上意下達のような、逆らうことを許されないような方式に慣れてはいません。例えば会社において上司に逆らうということはあり得ますし、教会において“牧師の言うことは絶対で逆らえません”ということはありえないでしょう。そんなわたしたちはどうすればいいのでしょうか。このような固い信仰を持たなくてはならないのでしょうか。そうでなければ救われないのでしょうか。
わたしはそうではないと思います。なぜなら、このような絶対的な信仰は「めったに見られない」ものであり、多くの人々のことをイエスは否定したのではないからです。ただ、このようなイエスの言葉に対する絶対的な信頼=信仰を持ちたいと願うことは大切です。できないかもしれない、けれども願い求める。そのような心をイエスさまは認めて手を差し伸べてくださるでしょう。
5/22
5/22 三位一体の真理を悟る ヨハネ16:12~15
本日は三位一体主日。父と子と聖霊なる三位一体の神を記念する主日です。先週の聖霊降臨日で、父なる神、子なるイエス、聖霊、の3つが揃い、三位一体の秘儀が完成しました。真理の霊=聖霊がやってくると、わたしたちを導いて真理をことごとく悟らせる、というのですが、残念ながらわたしはまだ、真理と呼べるものに到達してはいない気がするんですが、みなさんはいかがでしょうか。もしも真理悟った人がいたら、ぜひそのお話を伺いたいと思いますが、残念ながら、ついぞ出会ったことがありません。
真理の霊は自分から語るのではなく「聞いたことを語る」とイエスは言います。さらに「わたしのものを受けて、あなたがたに告げる」と言います。父なる神と子なるイエスと、真理の聖霊は一つにつながっています。それぞれが新しいことを始めるのではなく、伝えられたことを告げるのです。実は牧師の語る説教も、これに似ています。なぜなら、聖書という神さまの言葉から始め、神さまの言葉を今の生活の中に当てはめながらそのご意志を、聖霊の助けによって知り、聖霊の助けによって語るからです。聖書という書物は、文字通り一語一句にわたるまで研究され尽くしていて、新しいことを1つ見出すだけでも本が一冊書けるレベルです。考えてみてもすごいことだと思うのは、おそらく今世界中のあらゆる国の色々な場所で、それこそ何百万何千万の牧師たちが神さまの言葉を、それぞれの日常の中で語っているのです。そしておそらくそれは、多少似たような内容があったとしても全く同じことはありません。しかし、それぞれが神さまのみ心のほんの一部分、それこそ0.0000001%くらいを語るのがせいぜいですが、それぞれ聖霊によって力を受けて語っているのです。そしてまた、その真理の霊は、わたしだけでなくみなさん一人一人に働き、わたしの語る言葉だけでなく、みなさんの受ける心や力にも働きかけ、神さまの言葉がわかるようにして下さっています。その力はイエスから、神からやってきています。三位一体の神が、わたしたちが神さまを理解することを助けようとしています。今ここにいるわたしたちは、真理を悟る途上にいます。
けれどもわたしたちは、それを素直に受けることができません。時にわたしたちは委ねきれずに、自分の頭の中の思いだけにとらわれ、神さまの言葉を聞くことができずにいることがあります。わたしもまた、旧約聖書の預言者イザヤのように「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」と言ったにもかかわらず、委ねきることができないと感じています。しかし、本当にゆだねるのなら、三位一体の神は、わたしたちを豊かに支えて下さり、真理を悟らせる道に誘ってくれるでしょう。三位一体の神に、すべてを委ねて、真理を悟る信仰の旅路を続けていきたいと思います。
5/15
5/15 遣わされた者として ヨハネ20:19~23
本日は聖霊降臨日。わたしたちの支えとなる聖霊が、わたしたちの所に送られた日です。聖霊は炎の舌として、またイエスが吹きかける息として、また風としてわたしたちの所に送られました。以来、2000年もの間、人と共にいたのは聖霊であり、聖霊を通して、わたしたちは神さま、イエスさまとつながっていたのです。
イエスは使徒たちに息を吹きかけて「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言いました。もちろん、これは使徒たちが言われたことですが、その言葉の射程は、使徒たちに連なる多くの人々、つまり使徒たちから聖霊を授けられた多くの人々にも及んでいる言葉です。聖職按手の時、わたしたちは「聖霊を求める歌」(聖歌298番)を歌い、新たな聖職に特別の聖霊の恵みを祈ります。聖霊がその人の上に働くことを祈り、主教が「聖霊を受けなさい」と言い、新たな聖職が誕生します。そしてその恵みは、聖職だけに限るものではありません。わたしたちが堅信式を受ける時、やはり主教により、特別の聖霊の恵みが与えられ、それぞれが強められます。今ここにいる人々の多くが、聖霊によって強められた者であり、これから強められる者でもあるのです。つまり、聖職だけに限らず、多くの人々が、イエスによって遣わされるものになっているのです。
「遣わされる」と言っても、何をするのかよくわからないと思われるかもしれません。しかし、イエスによって、聖霊によって、神によって遣わされるという時にすることは一つしかありません。それは神さまのみわざとみ言葉を宣べ伝えるということです。「宣教」「伝道」と言った時、ややもすると教役者だけに課せられたもののように扱うことがありますが、そうではなく、聖霊によって遣わされたすべての人が担うべき務めであるということです。日曜日、教会に行っている時だけがクリスチャンであって、それ以外はただの人であるのではなく、いついかなる時でも聖霊によって強められ、イエスによって遣わされた者であるということなのです。堅信のことを按手、とも言いますが、手を置いて祈るということによって聖霊が伝えらえます。使徒たちは、後に続く人々に手を置くことで、聖霊を伝えてきました。働き人である教役者だけではなく、すべての人が聖霊を伝えられています。そもそも、人が創造された時、神によって鼻に吹き入れられた息こそが聖霊です。わたしたちはみなすでに聖霊を受けており、その力によってイエスに派遣されているのです。「聖霊を受けなさい」というイエスの言葉は、今のわたしたちにも及んでいるのです。
み言葉を宣べ伝える、みわざを宣べ伝えるというと、難しい事のように感じられるかもしれません。しかし、そんなわたしたちをこそ、聖霊が支えてくれます。そのことを信じ、毎日をイエスに遣わされた者として、生きていきたいものです。
5/8
5/8 一つになる ヨハネ17:20~26
本日の福音書は、最後の晩餐の一番最後にイエスが祈りをささげる場面から読まれました。イエスは「すべての人を一つにしてください」と祈ります。いたるところで分裂が起きている今、みんなが心を一つにすることができたらどんなにいいでしょう。
ところで「一つにする/なる」と言うとどんなイメージを持つでしょうか。聖書の中で多く取り上げられるのは結婚についての部分でしょうか。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と様々な場面で言及されていますし、この結婚のイメージは、人が信仰を得ていく時の比喩にも使われます。でも、現実にはどうでしょう、教会で出会う多くの夫婦関係が「一体となる」というのは程遠いようです。しょっちゅうケンカしていたり、“口もきいてない”なんて言っていたり、と考えると結婚に対するイメージはがた落ちです。たった二人の夫婦でさえこうなのだから、「すべての人」ならどんなに大変な事でしょう。大体において、教会が一丸となってやるということですらなかなかできません。教会の中でいくつもの小グループに分かれてけん制し合う、実際よく見る光景です。「一つになる」というのはかくも難しいものです。
しかし、一方で「イエスはそんなに難しいことを要求したのだろうか」とも思います。イエスは、律法にこと細かく従うことが難しかった人々に、新しい掟を与え、多くの人が神さまのみ心を行うことができるようにしてくれました。だからこそ、今もまた多くの人が神さまを信じてここに集っています。
「一つになる」という言葉だと、何となく「完全に混ざる」ということを想像します。赤と青の絵の具を混ぜたら紫になりますが、それを2色に分離するのはとても難しいですよね。でも、人間と人間をそうやって混ぜるわけにもいきません。「一つになる」という言葉をイメージする時、聖書の中のたとえを使うなら、「一つの身体」や「ぶどうの木」のイメージでしょう。様々な部分が役割こそ違えどつながり合い、お互いを生かしあう。「一つになって」動く。そして、その「一つとなる」ことの射程距離は、生きているわたしたちの間だけではなく、「天の全会衆」たちにも及びます。その中心にあるのが「イエス・キリスト」であり、「イエス・キリスト」への信頼です。それを確認するのが「礼拝」、特に「聖餐式」であると思います。「礼拝」をいつも共に捧げることによって、わたしたちは「一つである」ことをいつも確認します。「この週だけ出る」とか「毎週じゃなくていい」ではなく、できる限りいつも、礼拝に出て、「わたしたちが一つ」であり続けられるよう、共に祈りをささげ続けたいと思います。
5/1
5/1 思い起こし、物語れ ヨハネ14:23~29
今週の福音書は最後の晩餐後のイエスの話から朗読が行われました。イエスはこの後、十字架にかけられ世を去ることになりますが、その前に最後の教えを弟子たちに残しています。イエスの昇天の祝日が今週の木曜日にありますが、天に去る自分の代わりに弁護者=聖霊をわたしたちの所に送ることを言い残されました。
今日は、イエスが地上で過ごした最後の主日を記念する日です。イエスがいよいよ天に帰ってしまいます。わたしたちに、イエスが復活されて共にすごされ、これから天に帰ると言われても、実感がないかもしれませんが、当時の弟子たちにとっては非常にせっぱつまった、寂しい、というような多くの感情が渦巻く時だったでしょう。それは、最後の晩餐の時「あと3日で死ぬ」と言われた時と重なります。「どうしたらいいのだろう」という、漠然とした不安が弟子たちの間に広がります。そこでイエスは「聖霊」を送ることをわたしたちに告げます。聖霊がイエスのことを常にわたしたちに思い起こさせてくれる、だから安心しなさいと、イエスは言います。
「思い起こす」ということは、教会にとって大事な教えです。それはただ単に「思い出す」というだけのことではありません。「思い起こす」ということは、今はいなくなってしまったその人が、今もそこにいるかのように強く思い出す、ということであり、今もそこにいるかのように振舞う、ということです。今行われている聖餐式は、イエスが最後の晩餐の時にしたことを「思い起こす」礼拝です。わたしたちは直接会ったことはないかもしれないけれどもこうやって繰り返して「思い起こし」、イエスの物語を、聖書を語ります。そしてそれは、今は天に帰られた多くの人たち、すなわち「天の全会衆」と一緒にささげる礼拝なのです。今まで教会に連なっていた多くの人たちと、目には見えないけれども、一緒に行う礼拝なのです。「キリスト教は先祖を大切にしない」と言われたりすることがあるのですが、そうではなく、むしろ毎週の礼拝の中で、今まで教会で過ごした多くの方が、今もいるように「思い起こして」いるのです。あの人はいつも礼拝ではああだったね、説教の時こうだったね、とかふとわたしたちの頭の中でよぎる思いがそうです。また、イエス・キリストにわたしたちは直接会ったことはないけれども、繰り返し「思い起こして」物語ることによって、多くの人にイエスはまた、現れてきたのです。そして、それを助けてくれるのが聖霊です。聖霊が、今礼拝しているここに満ち満ちているからこそ、わたしたちは何度でも、会ったことがなくてもイエスのことを「思い起こす」ことができます。そして、わたしたちが直接会ったことがある人のことでしたら、もっと鮮明に思い起こすことができるでしょう。
本日午後、納骨式が行われます。彼女もいつも共に礼拝をささげていることを、いつもの姿を思い起こしながら、好きだった花の中に彼女を見ながら、本日の礼拝を最後まで続けていきたいと思います。
4/24
4/24 与えるよりも受ける方が幸いである ヨハネ13:31~35
今週の福音書は最後の晩餐の時、イエスが弟子たちの足を洗い、ユダが出て行った後の出来事。イエスが弟子たちに新しい掟を与えます。「互いに愛し合いなさい」とイエスが弟子たちに教えた新しい掟は、教会の中にずっと受け継がれてきたのですが、なかなかわたしたちは「互いに愛し合う」ことができないでいるように思います。
わたしたちは割と「与える」ことは得意です。人に何かをプレゼントする、奉仕活動をする・・・etc. 東日本大震災もそうでしたが、今回の熊本の地震のためにも、おそらく多くの方が支援に行かれるのでしょうし、献金や物資の支援等で力を貸してくださる方も多いのではないかと思います。教会でも、「何かをささげる」ことの方が強調されますし、「受けるよりも与える方が幸いである」というイエスの言葉も相まって、わたしたちは「与える」ことにとても熱心であると同時に、「受ける」ということに対していくばくかの罪悪感も持ち合わせているかもしれません。「わたしたちはこじきじゃないから」「自立しているのだから」と言って、誰かに与えられるもの/ことを断ることも珍しくはありません。
しかしイエスの言葉をよく見てみると、イエスは「互いに」愛し合いなさい、「互いに」足を洗いあいなさい、とわたしたちに伝えています。その前に「人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光を受けた。」と、神さまも含めて「相互に」与える-受けるという関係を言い表しています。そう、互いに愛し合うということは、「愛する」だけでなく「愛される」ことも必要になります。だからこそ「与える」だけではなく「受ける」ことも必要になるのです。こちらが支援をしようとして送った支援物資も受け入れ先がなければ意味が無くなってしまいます。「受けて」もらえなければ「与える」こともできないのです。
「もちろんそんなことはわかっているよ」とおっしゃるかもしれません。でも本当にそうでしょうか。とっさにわたしたちは「遠慮」という形で、「受ける」ことを拒否しがちです。「与える」ことだけを続けていると、何となく相手との関係が疎遠になってしまうということはないでしょうか。「受ける」だけだと、その人といることが苦になったりはしないでしょうか。少しでもお返ししようとすると遠慮されたりしてしまって困ったことはありませんか。「与えるだけ」「受けるだけ」では、実は対等な関係ではなくなってしまいます。だからこそイエスは「愛し合う」と言う言葉がもともと二人がお互いに愛さなければ成立しない言葉なのに「互いに」とそのことを強調したのではないでしょうか。そしてそれは、実は「神さま」も含めてのことになりうるのです。「例外」が無いのです。
だからこそわたしは、敢えてこう言います。「与えるよりも受ける方が幸いである」 わたしたちは神さまの恵みを一身に受けています。そして、多くの人から多くのものを「気持ちよく」受けることこそが、「互いに」愛し合う道の大事な部分であり、それこそが「多くの人が、わたしたちは主の弟子であることを知ることになる道なのです。