福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
4/17
4/17 答えが知りたい ヨハネ10:22~30
今週の福音書は場面が一転して、神殿の境内での出来事。イエスに対してユダヤ人たちが「いつまで気をもませるのか」と迫ります。あなたがメシア、救い主であるなら今すぐ教えてほしい、その気持ちはよくわかります。わたしたちだって、色々な事に「事前にこうなるってわかってたらもっと対処の方法があったのに」とか「あの人がああだって知っていたら・・・・」とか思うことってありますよね。
大学受験くらいまでの学校の勉強は「問題」があって「答え」がある。その中に「正解」がある。という勉強だったように思います。小学校の時の計算ドリルや漢字ドリルに始まって、受験勉強なんか一問一答が多いですよね。「考えを述べなさい」と書いてあっても、大体正しい答えが決まっています。そして正しい答えは基本的にいつも1つでした。「正しい答え」がどこかにある、とわたしたちは子どものころから刷り込まれています。でも、実際の現実はそうじゃありません。答えは人の違い、時期の違い、などなど色々な要素で違いますし、いくつも答えがあってどれも正しいなんてことがザラにある世界です。神学の世界なんて「これが正しい」なんて言いきれるのは神さまくらいなんじゃないかと思うくらい正解が多岐にわたります。さらに「神学的に正しくても、現実的には正しくない」なんてことになってきますと、訳が分からなくなってきますね。
ユダヤ人たちは「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と迫ります。「正しい答えを教えてほしい」と言うのです。しかしイエスは「わたしは言った」「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と返しています。でも少なくとも、聖書を読む限りは「わたしは救い主である(メシアである)」とイエスが言ったところはありません。ではこれはいったいどういうことなのでしょう。
現実は一問一答で正しい答えがいつもあるわけじゃないということは、先ほども少し言いましたがみなさんの方がよくご存じでしょう。実際、どれもこれも正解じゃないけどどれかを選ばなきゃなんないなんてことになることは良くあります。「イエスは救い主である」と聞いたとき、わたしたちは「そうだ」と思いますが、イスラム教やユダヤ教の人は「違う」と言いますし、「よくわからない」と答える人も結構いるんじゃないかと思います。じゃあイスラム教の人たちが正しくないのかと言うと、彼らにとっての救い主は別にいるわけですよね。答えはいくつもあるわけです。イエスは「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と言いました。それが大切です。わたしたち一人一人が、イエスのことを救い主だと思った、これが正解です。答えは誰か偉い人に与えられるものではなく、自分で出すものである、ということです。「わたしにとってイエスとは誰か」「わたしたちにとっての現実は何か」をわたしたちが見出すことが、信仰において大切なのだと思います。誰かに誘われて行きはじめた教会も、自分にとっての大切な場所に変わっていくように、初めに半信半疑だった信仰も確信に変わっていくように、「わたしにとってのイエスは誰か」を「わたしにとっての正しい答え」見出していきましょう。イエスは正しい答えを教えてはくれないかもしれません。でも「誰かに言われた」ものではなく、自分にとっての正しい答えを、自分にとっての信仰を見出しながら進む道が、イエスと共に歩む道なのです。
4/10
4/10 再出発の時 ヨハネ21:1~14
先週の福音書では、ユダヤ人たちを恐れて家に閉じこもっていた弟子たち。場所の描写はありませんが、そう日も経っていないことですし、おそらくエルサレム近郊のことだったのでしょう。しかし、今日の福音書では、弟子たちは外に出ており、場所もティベリアス湖畔、すなわちガリラヤ近郊に移っています。ガリラヤは、弟子たちの多くの出身地であり、イエスの育ったナザレのある場所であり、カファルナウムなど、イエスが活動を始めた場所がある、いわば彼らにとっても地元です。しかも、彼らは漁をしています。ペトロやゼベダイの子たちのもともとの職業は漁師です。イエスに出会って喜んだけれども、彼らはまず、自分たちの地元に帰り、本職である漁師に戻ろうとしていました。エルサレムだと身の危険がありますが、地元であるガリラヤならなんとかやっていけるだろう、という気持ちだったのかもしれません。
イエスの弟子たちのほとんどは、何らかの生業を持っている人たちでした。しかも漁師など、手についている仕事です。戻ろうと思えばいつでも自分たちの日常に戻ることができたわけです。ある意味で、それを繋ぎとめていたイエスがいなくなってしまった時、死をも恐れず宣教に出ていくだけの動機が足りなかったのかもしれません。しかし、そんな弟子たちの所にもまたイエスがやってきます。
ペトロをはじめとした弟子たちは、最初、イエスだとわかりませんでした。先週読んだところだとすぐにイエスと分かったようですから、やはり一時的にでも心が離れてしまったのではないかと思います。もしくは、「もう終わったことだから」とか「あきらめたから」という思いだったのかもしれません。しかし、イエスは弟子たちに「なぜわからないのか」と問うのではなく、自分がイエスであることも明かさず、船の右側に網を打つように伝えるのです。その時、主の愛しておられたあの弟子(ヨハネ)が気が付きます。「主だ」。そして多くの魚が採れ、彼らは食事の席に着きます。弟子たちはイエスの言葉のもとに活動する「漁師」に戻ったのです。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人はかつてイエスに「人間をとる漁師にしよう」と声をかけられています。イエスとの交わりをいったん閉じて、自分の日常の中に戻ろうとしていた彼らが再び、「人間をとる漁師」に戻る、再出発する、今日の福音書はそんな場面です。そのきっかけは「船の右側に網を打ちなさい」という言葉に素直に従ったことにあります。「なんでそんなことしなきゃなんないんだ」と言っていたら、今の教会はなかったかもしれませんね。
わたしたちにも「もう信仰を失った」とか、「教会は昔通っていたところ」とか、「親は熱心だったけど、ねぇ」というような時があるかもしれません。しかし、イエスはそんな時にも「右側に網を打ちなさい」と伝え、イエスと共に歩む道に優しく引き戻し、再出発をさせてくださいます。イエスさまの優しい声に素直に従い、何度でも再出発をしていきたいものです。
4/3
4/3 揺れながらついていく ヨハネ20:19~31
復活日の朝を迎えました。今日は教会の一番大きな、そして大事なお祭りです。正直なところ現代的な感覚からすると“復活”と言われても、眉に唾をつけてしまいそうですね。聖書には4つの福音書がありますが、これらの福音書に共通して伝えられている話は多くありません。その中で最も大切なのが今日読まれた「空っぽの墓」のお話です。細部は違いますが「イエスを墓に葬った後、様子を見に来た婦人たちが墓の入り口が開いているのを見つけ、中に入ってみると遺体がなかった」というのがどの福音書でも語られる共通したストーリーです。
今の日本の墓地を想像すると難しいですが、当時のこの地域の墓地は天然の洞窟などを利用し、遺体を布にくるんで安置し、荒らされないように大きな岩でふさいでいました。その墓の入り口が開いている、そして遺体が無いというのは、とっても異様な出来事が起こっているということです。
“あるはずのものが無い”というのは、とても奇妙な感じがするものです。「いつもここに置いているはずのものが無い」「見つからない」というのは、誰もがよくある経験です。ただでさえ、今まで話したり歩いたりしていたイエスが「いなくなってしまった」という感覚なのに、その身体まで無いのです。「せめてその身体だけでも大事にしたい」と思い、香油を用意したりしていた婦人たちはひどい喪失感の中に叩き落されました。弟子たちも、最初は信じられなかったくらいです。“せめて”と思っていた願いも打ち砕かれるのだとしたら、いったい何を信じればよかったのでしょうか。「もう何も信じられない」という気になってもおかしくはありません。「空っぽの墓」は絶望のしるしです。
こうして、イエスは「目に見えなく」なりました。イエスの葬られた墓にイエスはいないのです。でも、もしイエスの身体がそのまま残されて、永久保存されていたとしたらどうでしょう。それは「イエスは死んで、もういない。もう生き返らない」という確固たる証拠になり、かえって絶望感が増してしまうかもしれません。それに対して墓が空っぽであったとしたら、その中身はどこかにあるはずです。しかし、イエスの遺体はどこにもなく、この後多くの弟子たちが復活のイエスに出会うことになるのです。「目に見えないもの」が、「再び見えるようになった」のです。そして多くの人が「信じた」のです。
どこかに置いちゃったものが、何かの拍子に出てくるように、「今は見えないけれども、確かにそれはある」のです。信仰とは「目に見えないものを信じる」ことです。だからこそ、絶望のしるしであるはずの「空っぽの墓」に多くの人が希望を見出し、このことを語り継ぎ、4つの福音書に残しました。「何かが無い」ということは希望のしるしとなりました。なぜならそれは、何かを見出すための始まりでもあるからです。こうして、空っぽの墓から復活のイエスを見出した人々によって、イースターは希望のしるしとなりました。わたしたちももしかしたら、空っぽの墓の前で絶望に叩き落される時があるかもしれません。でも大丈夫。それは新たに何かを見つけ出すことができる出発であり、希望を持つことの始まりとなるからであり、死を潜り抜けたイエスが共に歩んでくださる道であるからです。復活のイエスさまに出会い、進んでまいりましょう。
3/27
3/27 空っぽの墓 ルカ24:1~10
復活日の朝を迎えました。今日は教会の一番大きな、そして大事なお祭りです。正直なところ現代的な感覚からすると“復活”と言われても、眉に唾をつけてしまいそうですね。聖書には4つの福音書がありますが、これらの福音書に共通して伝えられている話は多くありません。その中で最も大切なのが今日読まれた「空っぽの墓」のお話です。細部は違いますが「イエスを墓に葬った後、様子を見に来た婦人たちが墓の入り口が開いているのを見つけ、中に入ってみると遺体がなかった」というのがどの福音書でも語られる共通したストーリーです。
今の日本の墓地を想像すると難しいですが、当時のこの地域の墓地は天然の洞窟などを利用し、遺体を布にくるんで安置し、荒らされないように大きな岩でふさいでいました。その墓の入り口が開いている、そして遺体が無いというのは、とっても異様な出来事が起こっているということです。
“あるはずのものが無い”というのは、とても奇妙な感じがするものです。「いつもここに置いているはずのものが無い」「見つからない」というのは、誰もがよくある経験です。ただでさえ、今まで話したり歩いたりしていたイエスが「いなくなってしまった」という感覚なのに、その身体まで無いのです。「せめてその身体だけでも大事にしたい」と思い、香油を用意したりしていた婦人たちはひどい喪失感の中に叩き落されました。弟子たちも、最初は信じられなかったくらいです。“せめて”と思っていた願いも打ち砕かれるのだとしたら、いったい何を信じればよかったのでしょうか。「もう何も信じられない」という気になってもおかしくはありません。「空っぽの墓」は絶望のしるしです。
こうして、イエスは「目に見えなく」なりました。イエスの葬られた墓にイエスはいないのです。でも、もしイエスの身体がそのまま残されて、永久保存されていたとしたらどうでしょう。それは「イエスは死んで、もういない。もう生き返らない」という確固たる証拠になり、かえって絶望感が増してしまうかもしれません。それに対して墓が空っぽであったとしたら、その中身はどこかにあるはずです。しかし、イエスの遺体はどこにもなく、この後多くの弟子たちが復活のイエスに出会うことになるのです。「目に見えないもの」が、「再び見えるようになった」のです。そして多くの人が「信じた」のです。
どこかに置いちゃったものが、何かの拍子に出てくるように、「今は見えないけれども、確かにそれはある」のです。信仰とは「目に見えないものを信じる」ことです。だからこそ、絶望のしるしであるはずの「空っぽの墓」に多くの人が希望を見出し、このことを語り継ぎ、4つの福音書に残しました。「何かが無い」ということは希望のしるしとなりました。なぜならそれは、何かを見出すための始まりでもあるからです。こうして、空っぽの墓から復活のイエスを見出した人々によって、イースターは希望のしるしとなりました。わたしたちももしかしたら、空っぽの墓の前で絶望に叩き落される時があるかもしれません。でも大丈夫。それは新たに何かを見つけ出すことができる出発であり、希望を持つことの始まりとなるからであり、死を潜り抜けたイエスが共に歩んでくださる道であるからです。復活のイエスさまに出会い、進んでまいりましょう。
3/20
3/20 十字架につけろ ルカ23:1~49
長い長い福音書朗読。毎年復活前主日は、イエスの受難をおぼえ、イエスの最後の1週間の出来事が朗読されます。また、今日の礼拝はイエスがエルサレムに「ホサナ、ホサナ」と喜びの声をもって迎えられたことの記念でもあり、イエスの生涯のもっとも濃い時間を象徴する、深い意味のある主日です。ある意味で、苦しみの後の復活の喜びに焦点が当たる来週のイースターよりも大切な一日です。今日、みなさんに「しゅろの十字架」をお配りしましたが、この十字架は、しゅろの葉によって喜びをもって迎えられたイエスが、十字架という処刑道具につけられ苦しむという、非常に相反する出来事の象徴です。だからこそ、わたしたちの祈りの友となり得るのでしょう。
わたしたちは喜ぶことが好きです。精神的にマゾヒスティックでもない限り、普通は楽しいこと、嬉しいことをいつも味わっていたいものです。ですから、どうしてもしんどいこと、苦しいことからは目をそらしがちです。苦しみの後に喜びがあるとわかっていても、ダイエットのために運動をしたり食事制限をしたりするのを続けるのは難しいですし、部活動などの練習や、仕事のための勉強など、苦しいことは避けたくなるものですし、ほどほどにしておきたくなるのが普通だと思います。なるべくなら回避したいと思って当たり前です。
教会の信仰もそうなっているのかもしれません。楽しいこと、おもしろそうなことをするのはみんなでやることはできますが、下準備などのことちょっとしんどいことは誰かに集中しがちです。イースターやクリスマスの喜び、祝いはクローズアップされても、大斎節における克己や苦しさについて大いに語られることがあまりない気がします。
先日、映画「パッション」を見ましたが、ああやって映像で見ると、わたしたちの信仰の喜びなどが、実は「苦しみ」を通してのものだったことを思い出させられます。それと同時に、鞭打たれ、引き出されたイエスを見つつも嘲笑し、「十字架につけろ」と叫んだ人々の様子を思い出します。普通にあれだけ血を流している人がいたら「かわいそう」とか「なにもそこまですることはない」と思いそうなものです。でも、彼らの口から出てきたのは「十字架につけろ」という叫びでした。「あの場に自分がいたら多分叫ばない」ということは簡単です。でも、わたしは多分叫んでいるでしょう。そしてペテロのように「知らない」と言っているでしょう。映画の傍観者ではなく、自分を「十字架につけろ」と叫ぶ人として見てみる必要があるのではないでしょうか。
今日から始まる1週間にイエスが受けた苦しみや悲しみがあるからこその復活の喜びであり、また信仰であり、わたしたちはその上に立っていることをおぼえるのはとても大切なことです。すべてが楽なこと、楽しいことだったらどんなにいいかと思いますが、今週1週間はイエスが受けられた「苦しみ」「悩み」「悲しみ」と今一度、しんどいけれども向き合うべき1週間です。今日から「聖週」が始まります。平日ですが聖木曜日や聖金曜日の礼拝も行われます。イエスの受けた苦しみを通り抜け、来週の復活の喜びに向かって、歩みを進めていきましょう。
3/13
3/13 そんなことがあってはなりません ルカ20:9~19
今日の福音書は「ぶどう園と農夫」のたとえ。こちらも有名なたとえ話です。ぶどう園の主人は神、僕は預言者、農夫たちはユダヤ人たち、正確には律法学者たちや祭司長たち、息子はイエス、と当てはめていくと、なるほどと思えるたとえ話です。しかし、これを聞いた律法学者たちや祭司長たちは、相当頭に来たでしょうね。自分たちが一生懸命守って、受け継いできたと思っていたことを、ぽっと出の若造にあてこすられた上に、周りの人々はその若造についていくのですから。「わたしたちこそが正しいのに周りはわかっていない」と思っても不思議ではありません。
「事実は小説より奇なり」という慣用句があります。「実際に起こることは、作り話である小説よりも奇妙でおもしろい」というような意味でしょうか。小説は登場人物が限られていますが、実際自分の周りには小説の登場人物より多くの人がいて、それぞれが複雑に絡み合っています。小説なら多少登場人物が多くても何とか理解できても、現実はそうはいきません。ですから現実を説明するのに何かに譬えたり、登場人物を減らして話すことによって、すっきり理解できるというのはよくあることです。イエスのたとえ話もそうですよね。実際には役割に当てはまらない多くの人もいて構成されているのが現実ですが、登場人物を減らして語ることによって、現実がはっきり見えてきます。こうやって話を聞いていると「そんなことがあってはなりません」という反応になるのだと思いますが、自分が直面していたとしても、現実には登場人物が多くて整理できず、わからないことがあります。テレビドラマを見、「あれはないよな」と話していたようなことを、実際自分がしていたという嘘みたいな話もあります。嫁姑のドラマでのやり取りを見て「あれは実際には言わないって」と思っていたことを自分が言っていてぞっとしたという話を聞いたことがあります。実際にその場面に気が付いたとき、どう振舞うかということが大切です。律法学者や祭司長たちは、イエスが何を話しているのか途中で気が付きました。彼らは腹が立ち「手を下そうとしたが民衆を恐れた」とありますが、最終的にうまく人々を、また高官たちを誘導してイエスを十字架にかけることができました。しかし、その死は打ち砕かれ復活へとつながっていきました。彼らのしたことは、神さまの救いを明らかにする道につながっていたのです。だからいいというわけではありませんが。
わたしたちは、もしかしたら気が付かないところで多くの小さなイエスさまを十字架に付けているのかもしれません。それに気が付いたとき、わたしたちはどのように振舞うのでしょうか。突き進みますか、方向転換しますか。振り返ることもまた、大斎節の持つ一つの役割だと思います。
3/6
3/6 そして父になる ルカ15:11~32
本日の福音書は「放蕩息子」のたとえ話。イエスの語ったたとえ話の中でこれほど有名な話はないでしょう。好き勝手して出て行った弟に対して憤る兄と、帰ってきた弟を優しく受け入れる父の姿は、わたしたちに様々な事を教えてくれます。子ども向けの紙芝居などでは、結末が「みんな一緒に仲良く暮らしましたとさ」のようにハッピーエンドで終わっているものも多いのですが、聖書のたとえ話にその結末は描かれていません。兄が不平をもらし、それに対して父が答えた所で終わっています。結末が描かれていないのですね。結末はこのたとえを聞いた人の判断にゆだねられていると言ってもいいかもしれません。
「放蕩息子」のたとえなので、この話の主人公は弟の方だと思ってしまいますが、実はこの話は「兄」に向けられた話であり、実際は「父」についての話である、ということは重要です。このたとえ話の前には二つのたとえがあり、「放蕩息子」の話を含むすべてが「無くしたものが見つかる」という話になっており、これらの三つのたとえ話は「ファリサイ派や律法学者」に向けて語られているのです。その時にファリサイ派の人たちは「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と憤っており、この憤りは兄息子の憤りにつながっています。好き勝手していた人を受け入れるのか。そんな人は罰を受けるのが当然ではないか。ある意味でこれは普通の心理です。持っているのが当たり前だと思います。
教会には様々な人がやって来ます。何十年も教会から遠ざかっていた人もいたり、ずっと通い続けている人もいたり、人生に迷ってきた人がおり、真面目な人もいれば不真面目な人もいます。時に「刑務所から出所してきました」という人もいます。本当に様々な人がいます。ある教会で、実に三五年ぶりに教会に来た人がいて、その若い時を知っていた、教会に真面目に通っている人が漏らしていた「どうしてもわたしは放蕩息子のたとえに納得がいかないんだ」というのは、よくある心境だと思います。あの人の振舞い方はどうしても受け入れられない、という感情を持つことはあります。
ここで、この「放蕩息子」のたとえ話の最後が生きてきます。このたとえ話の結末は語られてはいないのです。そう、このたとえ話を聞いたうえで、あなたはどうしますか、というのがこのたとえ話の問いかけなのです。神さま=父は、好き勝手していた弟も、憤る兄も受け入れてくださる。さて、あなたはその愛にどう応えますか、というのがこのたとえ話の持つ問いです。
そしてもう一つ大切なのは、この息子たちは「ずっと息子ではいない」ということです。ここにいる多くのみなさんが子どもを育てて、そして送り出し、その子が父になりまた母になっているのだと思います。親として、もしかしたら教師としてかもしれません。でも、彼らはいつまでも子どものままではいない。教会の中で父なる神の子として迎え入れられたということは、わたしたち一人一人がいずれ、もちろん神さまには及ばないけれども、教会に来る多くの新しい子ども達(年齢は関係ないですよ)を迎え入れる父になり母になるという道筋の途中にいるということなのです。このたとえの兄も弟も、これらの体験を通して変化していき、多くの人を受け入れる者になっていくのです。それは「霊的な大人」になる道です。「わたしは何もわからないから」という状態でいつまでもいるのではなく、信仰の歩みの行く先を見つめて、父なる神の愛の中でもう一度歩み出しましょう。
2/28
2/28 危機感を取り戻して ルカ13:1~9
2月ももうすぐ終わり、3月に入ります。もう1年の6分の一が過ぎました。時はどんどん進んでいきます。3月というと、あの震災のことを思い出します。もう5年の歳月が経過しようとしています。報道は本当に少なくなりましたが、現場ではまだまだ避難生活を送っている人もいます。祈り続けたいと思います。
今日の福音書は、ピラトがガリラヤ人の血をいけにえに混ぜた、とかシロアムの塔が倒れて18人死んだ、などよくわからない話が出てきます。きっと当時は有名な事件だったのでしょうが、今となってはその沿革すらも伝わっておらず、詳しくする術はありません。ただ、そういった事件があったようだ、ということが聖書に残されているのみです。イエスは言います。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」
この言葉は重く響きます。東日本大震災の時も問われましたが、亡くなられた人たちが特別悪い人だったわけではありません。普通の人たちでした。「だったらなぜ」というのは残されたわたしたちにとっては重い問いです。そして、わたしたちもまた、生きているからと言って、罪深くないわけではない。「わたしは助かったから正しかった」とは言えない。その差はいったいなんだったのか、考えれば考えるほどわからなくなります。
わたしたちは誰かが災難に遭った時、それをその人の行動と結び付けて考えたがります。ついつい考えてしまうといったほうがいいのかもしれません。でも冷静に考えてみればそうでないことはわかります。悔い改めなければ滅びるということは同じだ、それが早いか遅いかだけの違いだよ、とイエスは言うのです。たとえ話のイチジクの木も、一見その場で切られなかったからセーフだと思うかもしれませんが、猶予の期間が過ぎたら切り倒されてしまうことには変わりがありません。「わたしは大丈夫で、あの人は猶予を与えられている」のではなく、「わたしもこの人もあの人も、猶予を与えられている」状態であり、みんなあと1年どうするかの選択を迫られているとも言えます。
しかし、イエスがこの言葉を発してから2000年の時が流れているのも事実です。終末の時がすぐそこに迫っているという危機感は、正直なところわたしたちにはありません。だってわたしたちは今の時点で来年や再来年の計画を立て、時には30年以上のローンを組んで家を建てているし、老後のためと言って貯金をしていたりもします。蔵に蓄える金持ちのたとえではありませんが、「明日のことは明日が思い悩む」どころか、何十年後の心配までしています。ではどうしたらよいのでしょうか。
まずはせめて、この大斎節の期間に、終末について思いめぐらしてみることです。そして、その時にどうするのか、備えができているのかについて、自分の信仰を、生活を、じっくり検討してみることです。心の底に“いつでもイエスさまは来る”という思いを持つことです。そして、誰かが正しくて誰かが間違っているのではなく、自分も含めて、すべての人は、切り倒される審査のプロセス上にあると考えることです。程よい危機感を信仰の中に取り戻し、歩むこともまた、わたしたちのために必要なのではないでしょうか。
2/21
2/21 進み続ける ルカ13:31~35
大斎節に入って1週間が過ぎました。今日の福音書はルカによる福音書の一場面。ファリサイ派の人々がイエスのところに忠告に来る場面から始まります。聖書の中で、ファリサイ派の人々はイエスと意見が対立したり、イエスを殺そうとしたりと、“イエスに敵対する人々”として描かれます。少なくともイエスと意見が合わないので、こんな形で忠告するというのは何か裏があるんじゃないかと思ってしまいますね。イエスもやはりそう思ったのでしょう。「行って、あの狐に伝えなさい」と返しています。
ヘロデにとっても、ファリサイ派の人々にとってもイエスの存在というのは目障りでした。しかし、人気もあるので直接手を下すわけにはいかない。とりあえずは自分の領土内からいなくなればいい、というわけでファリサイ派の人々に逃げることを勧めさせたわけです。聖書にはこの手の話がいくつかあって、旧約聖書の預言者アモスは、宮廷の預言者に「ここで預言するな」「別のところへ行きなさい」と言われています。またエレミヤも似たような経験をしています。一見親切に見える忠告が、実は裏があったなんていうのは、今でもよくあることです。もちろんそれが全体的にいい方向に向かうのならいいのです。しかしそうでないこともよくあります。見極めってなかなか難しいものです。
わたしたちはこういった忠告を受ける者になることも、逆に忠告をする者になることもよくあります。「今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と言って進んだところがどん詰まりだったというのもよくあります。どこかの首相は大丈夫でしょうかね。じゃあ、動かないで何もしないでいればいいかと言えばそうもいきません。でも、時間が解決してくれることもある。考えれば考えるほどわけがわからなくなってきます。もしかしたらイエスはこの忠告に従い、別の場所で活動を行っていれば死ななくて済んだのかもしれません。しかし、おそらくそうだったとしたら多分十字架もなく、キリスト教もなかったでしょう。わたしたちがここに座っていることも、わたしがここで語っていることもなかったでしょう。イエス自身にとってみてもいい結果ではなかったかもしれない。でも、この世界にとってみればとても大きな選択だったのではないでしょうか。自分の信じるところを全うし、そして愛に満ちた両腕を広げて、恨み言一つ言わずに十字架にかけられたイエスの道には、逃げ出そうと思えばそれる道はたくさんありました。しかしイエスは進み続けたのです。現代の教会に生きるわたしたちにとっても、進まなくてはならない道があり、それがわたしたち一人一人にとっての十字架に至る道だったとしても、歩み続けなくてはならないことがあります。それは“宣教”という道であり、“預言者としての働き”という道であり、“信仰”の道であります。そしてその道を進もうとするとき、きっと様々な「忠告」を受けるでしょう。いいものもあるでしょう、もしかしたら今の道を「逸らそう」とする裏があるものかもしれません。しかし、進んだ先にあるものが見えているのなら、「今日も明日も、その次の日も」進んでいきましょう。間違っていたら、と不安になるかもしれません。でもその心配はいりません。なぜならば、イエスが、神さまが常にわたしたちに先立って歩まれるからです。そして、逸れそうなときは助けてくださるからです。イエスを信じて、教会として歩みを続けたいと思います。
2/14
2/14 聖霊に満ちて、荒れ野へ ルカ4:1~13
今日は大斎節に入って最初の日曜日。祭色も紫に変わり、身の引き締まる思いがします。福音書はルカによる福音書から荒れ野の誘惑の場面。毎年おなじみですが、イエスと悪魔とのやり取りが描かれます。
福音書を最初から読んでいくと、イエスが洗礼を受けてすぐに荒れ野に行った様子が描かれます。記憶も新しいと思いますが、1月にイエスの洗礼の記念の日がありましたよね。それからすぐにイエスは聖霊に満ちて荒れ野へ向かいます。・・・が、その“霊”に荒れ野中を引き回されることになります。まさか途中で“霊”が変わるわけもありませんから、これは聖霊のことなのでしょう。しかし荒れ野の中を40日間、大変なことです。しかし、霊に満ちていたはずなのに、なぜそんなことになったのでしょう。
“聖霊”と聞くと、どんなイメージでしょうか。わたしの中では、風や空気のようなもの、または息のようなもの、わたしたちの周りに満ちていて、いつも見守っているもの、時に力を与えてくれるもの、といったようなイメージです。イエスが天に帰る前に、わたしたちのために「別の弁護者を遣わす」と言ってくださったとおり、わたしたちを守ってくれるものでもあります。そう、守ってくれる、そう感じるのですが、その“霊”が荒れ野中、イエスをひきまわしたのです。さらに悪魔からの誘惑も待っていて、正直なところ踏んだり蹴ったりのような気がしてきます。いったいどういうことなのでしょうか。聖霊はわたしたちを守ってくれるものじゃなかったのでしょうか。
“聖霊”はわたしたちを確かに守ってくれています。ただ“守る”と言っても色々な形があります。めんどりがヒナを羽の下に守るように、外にも出さないでしっかり守ることもありますし、ある程度大きくなった子どもでしたら今度はやらせてみて見守ってみたりもします。障害物を取り除くようにすることもありますし、ぶつかることがわかっていて放っておき、それでいてそれを乗り越えられるようにサポートするというやり方もあります。現にイエスも実は“霊”によって引き回されながらも、“霊”によって守られていました。悪魔の誘惑の時も“霊”が共にあり、イエスの口の言葉に力を与え、また言葉を与えてもいたのです。14節に「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」とあることから、“霊”はいつも共にいたのでしょう。しかし、さながら青年を見守る大人のように、イエスと共にあったのです。
“荒れ野”は、時にわたしたちの目の前にも広がっていることがあります。そして、様々な試練が襲ってくることもあります。それらが無いにこしたことがないのは確かですが、しかし現実問題としてやってきています。しかし、イエスさまが教えて下さったように、わたしたちを守るために聖霊が遣わされていることを感じましょう。大斎節は、そんな聖霊の力を感じるのにふさわしい時期です。聖霊の働きを、助けを感じながら、この大斎節の時期、この荒れ野で過ごしていきましょう。
2/7
2/7 眠気を越えて ルカ9:28~35
今日、大斎前主日に読まれる聖書の箇所は、福音書の違いはあれどいつもこの山の上でイエスの姿が変わる場面です。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人と祈るために登ったイエスが、モーセ、エリヤと語らい、栄光に包まれます。今回は、ルカによる福音書のお話ですが、少しマタイやマルコとは違うところがあります。それは、ペトロと仲間たちは「ひどく眠かった」と記されているところです。いったいこの違いはなんでしょう、そして、この言葉を残すことで、ルカは何を言いたかったのでしょうか。
人間も動物もそうですが、基本的に眠らなくては死んでしまう生き物です。疲れてくると眠くなりますし、暗くなると眠くなります。また、退屈な時や理解できなかった時にも眠くなったりしますよね。中学生、高校生くらいの時は授業中に眠くなって、よく寝ていたものです。数学の授業なんか、全然わかんなくて、最初から寝てしまっていた覚えがあります。礼拝の説教の時も、わからないと眠くなったりした覚えがあります。今、ここで話す立場になってわかりましたが、寝てるってのはよく見えるもんなんだなってことです。でも、誰かが寝てしまっている、眠気を醸し出しているということは、自分の話が訳が分からないか退屈なのだと思って、反省しきりです。多分弟子たちも、「エルサレムで遂げようとしている最期について」の話はよくわからなかったのでしょう。眠くなってしまいます。「眠い」ということは「理解できていない」ということにもつながります。イエスは色々な場面で「目を覚ましていなさい」と弟子たちに告げますが、結局ゲッセマネの園の時も祈りながら寝てしまった弟子たちは、その時が来るまで、イエスの十字架のことを理解することはできませんでした。もちろん、わたしたちだって眠くならない、寝ないということは物理的に不可能です。多分理解できない時はどうしても眠くなってしまうでしょう。ではどうすればいいのでしょうか。
それは、今日の福音書の最後にあります。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という言葉。そしてそこに残っていたのはイエスだけだったということ。つまり、わたしたちは、理解できないこともあるかもしれないけれども、イエスに聞き、イエスに学ぶしかないのだということです。そして、理解しようと努めることです。できるかどうかは問題ではありません。ペトロを始めとした弟子たちも、あまり理解できない部分はありましたが、イエスが天に帰った後もイエスに従い続けました。そしてその時、彼らはもう「理解できない」状態ではありませんでした。必要なことはそのとき与えられ、彼らはイエスのことを語り続けたのです。その時はもう、彼らの中で「理解できずに」眠くなる者はいませんでした。
わたしたちもまた、イエスだけを見て歩み続けたいと思います。今週から大斎節が始まります。たとえ理解できない部分があっても、疑問を持つ部分があっても、イエスだけを見て歩み続けるのなら、それが理解できるときは必ず来ます。「眠気を乗り越えて」、この大斎節の期間を歩み続けていきたいと思います。
1/31
1/31 昔からよく知っている ルカ4:21~32
今日読まれた福音書は先週の続き、イエスがイザヤの預言を朗読し、語った後のナザレの人々の反応です。「この人はヨセフの子ではないか」と驚いた人々に対してイエスが「預言者は故郷では歓迎されない」と応じ、人々が怒ってイエスを追い出す、という何となく後味の悪い話になっています。人々の反応は良くあるものだと思います。
わたしたちは既に多くの物事を経験しています。年齢を重ねれば重ねるほど、既知のものは増えます。色々なものを「良く知っている」と考えることは多いでしょう。今の職場に長くいればその職場のことを、業種が同じなら業種のことを。何十年来の友人ならその人のことを良く知っていますし、ずっと趣味にしていることならよく知っているものです。場所もそうですよね。良くいく店のことは知っているものですし、常連になりますよね。教会だって、子どものころからそこの教会に居れば、昔からよく知っている。ですから、ナザレの村人がイエスのことを「良く知って」いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言ってしまうのも無理からぬことです。きっと子どもの頃イエスがしたいたずらも、ヨセフやマリヤのお手伝いをしていたことも知っているのですから、その印象が強い、というのはわかります。わたしたちだってそうするでしょう。ある意味で普通の反応と言えるのではないでしょうか。ではなぜ、その「ヨセフの子ではないか」ということに対してイエスは「預言者は故郷で歓迎されない」と応じたのでしょうか。
預言者というのは“神さまの言葉を預けられた人”そして“それを語る人”のことです。何の変哲もないその辺の人が、ある日突然神さまの言葉を預かって預言しはじめるのです。昔から尊敬されていた人ではなく、自分でもそれがふさわしいと思っていたわけではなく、本当に突然呼び出される感じなのです。だからこそ、故郷の人々がその変化についていけない、というのはよくわかります。でも、ここでわかるのは、わたしたちの間でも、突然神さまの言葉を預けられる人がいるかもしれない、ということなのです。今日の旧約聖書朗読で読まれましたが、エレミヤも「わたしは若者にすぎませんから」と断りますが、神さまは「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける」と言い、預言者として遣わしています。エレミヤを良く知っている人にとっては大きな変化で戸惑ったこともあったのではないでしょうか。イエスが言いたかったのは「男児三日会わざれば括目して見よ」という諺もある通り、人は変わる、場所も変わる、時代も変わる。物事は常に変化している。変化しているものを簡単に「良く知っている」と考えてはならない、ということなのではないでしょうか。何かを「良く知っている」と考えることは、それがさらに変化しようとすることを妨げます。そうではなく、物事を常に「新しいもの」として、「今までこうしてきたから」ではなく、「変化してもいいんだ」「突然でもいいのだ」と考えることを始めてみませんか。そうすることで、教会のことも、また人のことも「新たに知る」ことができるのではないでしょうか。教会もそういった姿であり続けたいと思うのです。
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1/24 このことは起こり得る ルカ4:14~21
本日読まれたのはルカによる福音書から、イエスが様々なところで教え始めたころ、ナザレに来た時のことが読まれました。イエスはイザヤ書の預言を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言います。でも、この預言の言葉、イエスのこの後の活動を見れば納得できますが、この時点では実現していないことばかりです。また、今のわたしたちに当てはめてみても、「主の恵みの年」と言われても、困ってしまう状況です。戦争は絶えませんし、イザヤの宣言が“実現した”とはどうしても思えません。イエスはいったいどんな意図で「実現した」と言ったのでしょうか。
イザヤに限らず、聖書の言葉は「希望」に満ち溢れています。「幼子と蛇が戯れる」とか「ユダヤ人もギリシャ人もない」とか、多くの希望が語られています。多くの人々にとっての理想に満ち溢れた言葉も語られます。イザヤの預言を読みながら“ああ、本当にそうなったらいいな”と思います。一方で“無理だろ”と思ってしまったりすることもありますけれども。
キング牧師は、公民権運動の中でイザヤの預言を引用しながら「I have A Dream」(わたしには夢がある)と説教で述べます。全文を紹介するのには時間が足りませんが、希望に満ちた言葉で黒人の解放を告げます。現在、多くの場面で制度的な差別はなくなりましたが、実際の状況は必ずしも改善されているとは言えません。でも、彼の説教を聞き、また読むと、本当に力強く感じます。魂が揺さぶられる気がします。日本語で「夢」と聞くと実現不可能な理想のように感じますが、彼はそれが実現すると本当に信じているんだろうな、と思うパワーが彼の説教にはあります。
時にキリスト教は「自分の願ったことが何でも必ず実現する」と信じる宗教である、と思われています。しかし、そうでないことはみなさんも経験的に知っていますよね。それを「わたしの信仰が足りなかったから」と納得するおめでたい人達、なんて言われることもあります。でも、本来はそうじゃないんです。正確には「自分の願ったことは実際に起こり得る」と信じる信仰なんです。「必ず起こる」と「起こり得る」の間にはだいぶ距離があります。「どうせ無理だろうけど」と思って願うことと、「これは起こり得る、いや現実にしていかなくてはならない」と思って願うことのどちらに力があるでしょうか。理想だから力があるのではなく「それは起こり得る」とわたしたち一人一人が願うことに大きな力があるのです。イエスの読んだイザヤの預言ももちろん人間にはいつ起こることかは分からないけれども、たしかにそれは起こり得ることなのです。だからこそイエスも力強く、「今日実現した」と言い切り、「起こり得る、いや現実にしていかなくてはいけない」とわたしたちにも伝えたのではないでしょうか。
イエスはイザヤの言葉をひいて、わたしたちにも希望に満ちた「主の恵みの年」を告げました。わたしたちもまた、多くのところで希望に満ちた言葉を語ることができます。それはそのことが「起こり得る」と知っているからです。今日は信徒総会です。教会の未来についての悲観的な分析はさておき、希望に満ちた「起こり得る」未来を、大いに語る時としたいと思います。