福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
11/15
11/15 世界が終わる時 マルコ13:14~23
今日の福音書は、イエスが語った「終末」についての言葉です。世界が終わる時のこと、「かの日」と呼ばれる日の話で、イエスが今までに語ったどんなことよりもおどろおどろしい響きを持ってわたしたちに迫ってきます。
もう10何年も昔のことになりましたが、わたしが高校生から大学生の頃、ノストラダムスの大予言が流行していました。1999年8月に世界が亡びるって、あれですね。他にも例えば色々な宗教団体が、世界の終わりを予言して、多くの人たちが集まったこともあるし、集団自殺の事件もありました。そのころ友達と話す時、「世界が明日終わるとしたら何をするだろう」ということがよく話題になりました。何をする、何を食べる、どこへ行く、など他愛もない事でしたが、結局は好きなことをするってことで、何が好きかなんてことを話していましたっけ。その中に「いや別に、いいじゃん、何かやるのもめんどくさいし、今までとおんなじようにしてるよ」という友人がいて、その落ち着きっぷりに驚いた覚えがあります。その一方で本当に予言を信じて散財していた友人もいたので、今となってはちょっと笑えませんね。でも、それを語る時、自分の大事にしていることはなんだろう、といろいろ考えるわけで、それは自分を見つめるいい時間であったのかなとも思います。
真偽は定かではないのですが、マルチン・ルターの残したとされる言葉の中にこんなものがあります。「どんな時でも人間のなさねばならないことは、たとえ世界の終末が明日であっても、自分は今日リンゴの木を植える」 わたしなりに解釈をするのなら、今、世界の終わりが来るとしても、わたしは今までと同じようにするだろう、とか、備えておきなさいということでしょう。
終末は必ず来るものですが、わたしたちにはいつだか知らされていません。一生懸命知らせてくれようとしている人たちもいますが、「読者は悟れ」ということが聖書に書かれているのだとすれば、多くの人々に明確な形で示されるのではないかと思います。決して聖書を読み解いて勉強しなければわからない、一部の人にしか示されない形ではないでしょう。神さまはすべての人を救いに導くのですから、誰にでもわかるようにそれは起こるはずなのです。
その時に備えて、わたしたちは何をすればいいのか、と言えば「いつも通りにしていなさい」ということでしょう。何か特別なことをするわけではなく、リンゴが好きだったルターがりんごを植え続ける、と言ったように、淡々と為すべきことを為し続けなさいということです。たとえ何が起こったとしても、自分のすべきことをし続ける、それがわたしたちに神さまが与えてくれたものだと思います。ですから、わたしたちもまた、リンゴの木を植え、種を蒔き続けましょう。いつその時が来てもいいように。
11/8
11/8 ささげること マルコ12:38~44
今日の福音書は、やもめの献金の話でした。わたしはこの部分を読んでいて、あまりいい気がしません。この場所は神殿の境内です。ということは、ユダヤ教の祭司たちの目が光っているところ、なわけですよね。当然、その目が光っていることは、やもめも承知だったでしょう。だから承知の上で生活費を全部入れたとも考えられるのです。今と違って生活の糧を得る手段が乏しい中で、生活費がなくなったやもめは、物乞いをするか、死ぬしかありません。
イエスはこれを見ていたわけですが、ここでイエスが出したコメントは一つだけ、「やもめは誰よりもたくさん入れた」という事実だけです。そのことを評価したり、ましてや彼女が「進んで」入れた、ということも言ったりしてはいません。端的に「入れた」という事実を述べただけだということは注目していいと思います。わたしが思うに、入れなくてはならない雰囲気の中で、彼女は生活費を全部入れざるを得なかったのではないかとさえ思えます。前半に「やもめの家を食い物にし」とありますから。
もちろんこれを、神さまを信じてすべてを委ねたと考える事も出来ます。もちろん、聖書の中にその続きが描かれているわけではありません。しかし、もしその結果が「死」へつながっているのだとしたら、やもめのしたことはなんだったのでしょうか。「尊い死」だったのでしょうか。まさかそんなことはありますまい。神さまを信じて天の国に先に行ったからいいのでしょうか。信じて飢えて死んだんだからいい、と言い放てる人がいるのなら、その人はもはや人ではないような気がします。
“ささげる”ということは尊い行いです。しかし、それが強制になり、中身まで指定されるようになるなら、それはとても恐ろしいものになります。それは死へつながります。「教会は貧しい人から、最後の 1クァドランスまで取り上げるのか」という批判が該当します。しかし逆に、“ささげる”ことよりも他のことが優先になるなら、そこにも意味がなくなってしまいます。それは信仰の死へつながります。奉献のときわたしたちが「すべてのものは主の賜物。わたしたちは主から受けて主にささげたのです」と唱和する意味を思い出したいと思います。 “献金”も“奉仕”も、“ささげる”ことは、信仰の大切な行いの一つです。しかしそれは、周りを見ながらするものではありませんし、誰かに強制されるものでもありません。しかしながら、自分の受けたものを神さまに感謝しなくていいというものでもありません。その間を見ながら、無理のない範囲で、この教会をみんなで支えていきましょう。
11/1
11/1 天の全会衆と共に マタイ5:1~12
今日は聖ルカ教会で行う初めての逝去者記念礼拝となります。毎週、もしくは毎月、その亡くなられた人のことをおぼえて祈っているじゃないか、と思われる方もおられるのではないかと思います。でも、それは違います。ある意味で、その日は亡くなられた方の家族のための日ですが、今日のこの逝去者記念礼拝は、教会として、教会に連なってきた多くの人たち、またここに今いるわたしたちに連なっている多くの人々をおぼえる日であり、自分の身内であるかないかに関わらず、今この場に繋がっている人のために祈る日だからです。その人たちの誰か一人でも欠けていれば、いまわたしたちはここに立ってはいません。そして、その人たちの誰か一人でも欠ければ、この教会もここに存在することはないのですから。今日の「諸聖徒日」は特に、教会のために生きた多くの聖人たちのために祈る日です。そして、明日の11月2日は諸魂日であり、すべての亡くなられた人のための日です。そのことから、今日は逝去者記念礼拝を始めるのにふさわしい日だと思って、お知らせを出しました。
さて、今日の福音書は、マタイによる福音書から「真福八端」が読まれました。「心の貧しい人は幸いである」から続く、8つの幸いについてのイエスの言葉です。正直この言葉はわたしには必ずしも納得がいくものではありません。悲しむ人々は幸いであると言われても、悲しいものは悲しいし、迫害されたら喜べと言われても、「マゾですか」と思わず言いたくもなります。しかし、この言葉は、わたしたちだけではなく、今までに生きてきた多くの人々にも向けられた言葉であることを思い出したいと思います。かつて泣いていた人々が天の国で泣いているでしょうか。いいえ、笑っているのだと思います。悲しんでいた人々は慰められているでしょう。この「真福八端」は、天の国での様子を現わしているとも言えます。そして、わたしたちがいつかたどり着く先でのことでもあります。
わたしたちが行う聖餐式の聖別のところには2回「天の全会衆と共に」という言葉が使われています。天の全会衆というのは誰かと言えば、わたしたちより先に天に行った多くの人々のことです。今日ここで、わたしたちが記念している人々のことです。わたしたちが聖餐式をする時、彼らも共に参加しています。目には見えないけれども、天の全会衆と共に、わたしたちは食卓を囲んでいるのです。聖餐式は天の国とわたしたちをつなぐ窓口なのです。そしてわたしたちは共に、イエス・キリストの体と血を受け、聖なるものとして歩み出すのです。わたしたちの周りには、かつておられた多くの方たちが、この教会だけでも60年、そして、世界的に見れば2000年の間に歩んできた多くの人たちがいます。そのことをおぼえながら、今日の聖餐式を進めていきましょう。
10/25
10/25 あなたの望みはなんですか マルコ10:46~52
今日読まれた福音書は、盲人バルティマイが癒される場面です。通りかかったイエスに向かって叫びをあげるバルティマイが、イエスに願い、目が見えるようになるお話です。
冒頭では弟子や大勢の群衆と共に歩くイエスの様子が描かれています。ということは、少なくともイエスが活動を始めた初期のころとは違い、イエスが多くの人々を癒していたことは、周りにいた人みんながよく知っていることだったでしょう。当然バルティマイもそのことを知っていてイエスに呼びかけたのは間違いがありません。
でも少し思うのです。そんな癒す力を持っている人の前に知っていて出てきたということは、間違いなくその願いは一つでしょう。まさか「お金をください」とか「嫁さんください」とか言うわけはありませんね。誰が見ても、ああ、イエスに癒してほしい、目が見えるようになりたいんだろうな、と思います。というよりも、わたしたちは多くの場合、そのようにその人の望みを先回りして判断しますよね。あれが必要なんじゃないか、これが必要なんじゃないか、こういった場面にはどうするだろうかという風に考えるものです。商売のマーケティングで「ニーズを探る」なんて言いますが、それも同じですよね。
しかしイエスはバルティマイに「何をしてほしいのか」と問いかけます。イエスさまがその望みをわからなかった? まさかそんなことはありますまい。イエスはバルティマイの望みを知っていました。心からそれを願っていることも知っていました。しかしあえて「何をしてほしいのか」と問い、バルティマイが自分の望みを口に出すことを求めたのです。バルティマイも口ごもったりもったいぶったりせず、「目が見えるようになりたいのです」とはっきり口に出し、彼は癒されました。
わたしたちは今、自分の望みを先回りして誰かが叶えてくれることに慣れています。「こういう商品があったらいいな」と思っていたことが実現し、飲食店に行けば少なくなった水を要求する前にコップに水が注がれます。商品は全世界から自宅の玄関まで宅配され、場合によっては時間だって指定できます。どこにいても携帯電話で連絡が取れ取れます。本当に便利な世の中になったものだと思いますが、あまりにこういう現実に慣れてしまうと、自分の「望み」を言わなくても何とかなっちゃうんですよね。そうしているうちに、本来の「望み」を忘れてしまっていることはないだろうかと思ったことがあります。
「教会」はイエスのように、あえて「あなたは何を望みますか」ということを問うところです。先回りして叶えるのではなく、「あなたの望みは何ですか」と問いかけるのです。そしてわたしたちは、その望みを「口に出した」時に、いろいろ考えます。だからこそわたしたちは独りで神さまに祈る時が必要です。祈りとは自分の望みを「神さまに向かって口に出す」時だからです。黙って祈るのではなく、声を出して祈るのです。わたしたちには神さまに向かって自分の望みを言うときが必要なのです。
10/18
10/18 仕える心と虚栄心 マルコ10:35~45
イエスはゼベダイの子たちの願いに対して「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と説きます。ヤコブとヨハネの願いというのは「右と左に座る」こと。要するにイエスが王になるとき、右大臣と左大臣になりたいという願いです。わたしたちはイエスの歩んだ道が十字架に繋がっていることを知っていますから“あ~あ”と思わないではいられません。しかし、ヤコブとヨハネに、いや弟子たちもみんな、その結末は見えていませんから、そう願ってしまうのも無理はないと思います。実際にわたしたちが期待をかけている人がいたとして、そう願わないでいられるでしょうか。「上手くいったらよろしく頼むよ」なんて言ってしまうかもしれませんね。
イエスが「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になさい」とわたしたちに伝えてくれたので、教会では様々な事を“奉仕”によって行っています。様々な場面で、教会は“仕える”ということを大事にしてきました。例えば幼稚園のこともそうですね。地域に仕えることになります。シーフェアラーズセンターもそうですね。弱い立場に置かれがちな船員たちのために仕えることになります。教会は教会で、様々な事のために奉仕を続けてきました。
しかし、残念なこともあります。時に“奉仕”がいつの間にか“強制”になっていることがあるからです。そしてできない、やらないことを責めることがあるからです。教会のために“奉仕”をすることは大切なことです。しかし、それをしている人が“偉く”て“正しい”のならば、様々な事情でそこに参加できない人たちはどうしたらいいでしょう。少し習熟しなくてはいけない作業があって、なかなか覚えられないことを責められるのなら、その人たちは何を手伝ったらよいのでしょう。決められた日に作業があっても、行くことが出来ない人はどうしたらいいのでしょう。
繰り返して言いますが、“奉仕”をすることは尊いのです。しかし、それがいつしか“誇る”ことに変わっているのなら、ヤコブやヨハネと変わりがありません。イエスは“仕えることによって評価する”という決まりを作ったわけではないからです。尊いはずの「仕える心」は、簡単に「虚栄心」に転化してしまいます。わたしたちの間に「だいじょうぶ」と言える人は一人もいないでしょう。だから気をつけていましょう。「仕えよう」「奉仕しよう」と、最初に思った気持ちを思い出してみましょう。「時々の初心忘れるべからず」とも言います。自分が最初にイエスさまに触れた時の気持ちを思い出しながら、多くの人々と共にありたいものだと思います。
10/11
10/11 委ねて、道具として、器として マルコ10:17~27
今日の福音書は、ある人がイエスのところにやってくるところから始まります。話を聞いている限りでは、この人、とっても模範的な人ですよね。どうでしょう、きちんと律法を守っていたというのは、ユダヤ教の状況から考えてみてもすごいですよね。そして、多くの財産があったということは、社会的な成功も得ているわけです。
イエスは彼の話を聞き、「財産も全部ささげなさい」といいます。これを聞いて皆さんどう思いますか。正直無理難題だと思いませんか? 自分の持っているなけなしの貯金も、持ち物も、すべてを売り払って貧しい人たちのために与えてしまう。物理的にできないことはないんでしょうが、精神的にもわたしにはちょっと無理かな、と思います。できる人っているのかな? とも思えるイエスの言葉です。単純にイエスが新たな掟として、そのように振る舞うことを求めたと考えるとすべてがおかしな方向に向いてしまいます。だって、そんなことができる人が何人、この世界にいるのでしょうか。この言葉の背後にあるイエス様の真意を探ってみましょう。
今日の福音書の最後は「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と結ばれています。自分でやろうとしても無理なことも、神さまの助けによって成し遂げることができるのです。わたしたちは、自分で全部をささげることはできません。しかし、神さまは私たちを通して、それ以上の働きを成し遂げることができるのです。そのわたしたちにできることは何かと言えば、神さまの力を信じて、その働きに身をゆだねることだけです。
イエスの言いたかったのは「全部ささげなさい」ということではなく、自分を通してなされている神さまのみわざを感じなさい、自分を通して神さまの力を世界に伝えなさいということだからです。あれもやった、これもやったではなく、「神さま、次は何を望まれるのですか」という祈りのほうが大切です。働きを誇ろうとするのではなく、神さまを誇りましょう。また、誰かがささげることを止めるのではなく、そのささげられたものを通して、神さまのみわざをこの世に表しましょう。
だからこそ、わたしたちは神さまにゆだねなくてはなりません。わたしたちを用いてください。あなたの道具にしてくださいと、常にそのように働けるようにしないといけません。え? じゃあ具体的にどうしたらいいんだって? それは、やはり、神さまとじっくり話すことでしょう。一日少しずつでも祈り、聖書に目を留めてください。そうすれば、わたしたちは、神さまの道具として、使われることができるのです。
10/4
10/4 意味を問い直す マルコ10:2~9
ファリサイ派の人々は「イエスを試そうとして」、離縁のことについてイエスに聞きます。この「律法に適っているでしょうか」という言い方が、ファリサイ派の人々の主な関心がどこにあるのかを示しています。
聖書を読むと“ファリサイ派”と言えば、イエスに敵対する人たちで、律法主義で頭が固い人たちという印象を受けます。そういった一面があることは否定できませんが、実は、今のユダヤ教はこの“ファリサイ派”の流れを汲んでいます。本来、ファリサイ派というのは、一部の人しか難しくて理解できなかった律法が、多くの人々に伝わるように、という意図を持っていたようです。「多くの人々のため」というのはイエスと変わるところがありませんが、「律法」「掟」を重視するかどうかがイエスとは違っていました。ファリサイ派の人々にとって「律法」「掟」は絶対的なもので、変えるのではなく、様々な附則や解釈によって運用しやすくするものであり、イエスにとって「律法」や「掟」は、定められた本来の意図を汲んで用いられるべきものでした。ハタから見ていると小さな違いですが、実際にはとても大きな違いでした。
本日の旧約聖書にはこうあります。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と神が言い、女を創造しています。かつての口語訳では「彼にふさわしい助け手を造ろう」と言われていました。どちらかというと女に対して男の「補助」としての意味が強く出ているように思います。しかし、「彼に合う」と言った時に「補助的」な意味合いは薄れ、「対等な」パートナーとしての意味が強くなります。「後ろに一歩下がって支える」のではなく、「目の前にあって共に手をとりあう」のです。だからこそ「二人は一体となる」と表現されています。
しかし、今日の聖書の箇所を読んで、わたしたちがここで「イエスは離婚してはならない」という新しい掟を作ったのだと考えてしまうと、ファリサイ派の人々と同じになってしまいます。そうではなく「結婚」ということの意味を問い直しているのです。未婚のわたしが言うのもなんですが、一人一人の「結婚生活」が「一体となる」ものになっているでしょうか。「家ではほとんど口をききません」とか「お互いに外に相手がいます」なんて状態になっているとして、果たしてそれが神さまの意図したことに適うでしょうか。かえって、婚姻関係を解消し、自分を見つめてやり直す道を選んだ人の方が潔いのかもしれません。少なくとも、自分が一度破れたということを知っているわけですから。
イエスの言い残した通り、律法主義に陥るのではなく、本来の意図を見つめつつ、これからの歩みを続けていきましょう。
9/27
9/27 これらの小さな者一人 マルコ9:38~43,45,47~48
今日の聖書の言葉、単純に受け止めて想像すると、ずいぶん凄惨な光景が広がります。真面目に考えるなら、手足が何本あっても、目がいくつあっても足りませんね。今日読まれた福音書は大きく2つの部分に分けられると考えられがちですし、後半の強いイエスの言い方に引きずられてしまいますが、じつは話は切れておらず、一つの話と考える方が自然です。33節で場面がカファルナウムに転換し、38節でヨハネが発言しはじめます。そして10章に入ると場面がユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に変わりますが、その間には場面の転換を現わす言葉はありません。ですから、42節で「わたしを信じるこれらの小さな者」と呼ばれているのは、38節でヨハネが言っていた「お名前を使って悪霊を追い出している者」になります。つまり、後半はイエスに直接従っているわけではないけれども、イエスの名前を唱えている人たちをつまずかせてはならないという意味になります。
この考え方は色々示唆に富んでいます。弟子たちに対して、自分たちの中だけで固まって、周りにいる人たちを排除しようとするのなら、海の中に放り込まれる方がましだと言っているからです。教会にとって、この考え方は重要です。なぜならば、教会は教会だけで立っているのではなく、教会に関係する・関係しないにかかわらず、多くの人々の中にあるからです。
教会にとって信徒は大切です。それはもちろんです。ですが、たとえ洗礼は受けなくとも、教会に対して理解を示して支えてくれる人というのは実はたくさんいます。色々なケースが考えられますが、例えば亡くなられた教会員の家族の方が、何かと支えて下さったりすることもあります。また、近所の人たちがいます。幼稚園で関係した人がいます。実に多くの人々に教会は支えられているのです。だからこそ、その人々も大切であり、わたしたちはその人々をつまずかせるわけにはいかないのです。
教会というのは残念ながら内輪で固まりがちな集団です。そこにはキリスト教であるかそうでないかの壁があり、自分の教派かそうでないかの壁があり、自分の教区かそうでないかの壁があり、自分の教会か教会でないかの壁があり、時に教会の中でもいくつもに分かれていることがあります。実に、教会は「わたしたちは一つ」と歌いながらも、多くの教会に分かれ続けてきました。もちろん、その原因は多くあって、単純にどれが悪いと決めつけられるものでもありません。しかし、わたしたちが分かれてしまい、それがつまずきの一つの原因になっていることは確かです。だからこそわたしたちは、自分たちの周りにいる、理解を示してくれる人々をこそ、大切にしていかなくてはいけません。連携をしていかないといけません。
今日はバザーです。わたしたちが自分たちの周りにある多くの人々と連携を深める、理解をし合う良い機会です。多くの人々と手をとりあい、大きく迎え入れながら、今日一日を過ごしてまいりたいと思います。
9/20
9/20 子どもを受け入れるということ マルコ8:27~38
今日読まれた福音書で、イエスは「子どもを受け入れること」について弟子たちに話しています。「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」というイエスの言葉は有名ですね。どの福音書でも「弟子たちの中で最も偉いのは誰か」という問いに対してイエスがこう答えていることに注目しましょう。
ところでみなさん“子ども”と聞くとどんなイメージを持ちますか。「元気」「天真爛漫」「素直」「感受性が高い」という振る舞いに関したイメージのほかに「未来」とか「希望」といった将来的なものもそのイメージの一つでしょうか。ただ、現実として実際に子どもたちに接していると、それだけではないことに気が付きます。変な言い方ですが、子どもたちもやっぱり「人間」なんですよね。例えば嘘をつくこともあるし、ズルをすることもある。強情を張ってみる子もいる。虫の居所が悪くて当り散らす子もいる。喧嘩っ早くてすぐおともだちを叩く子もいれば、先生の話を全く聞いていない子もいる。幼稚園の先生たちを見ていると本当に頭が下がります。決していいイメージだけで語ることはできないのが「子ども」です。小学校ともなれば学級崩壊のニュースもありますし、中学生、高校生ともなれば、大人顔負けの事件を起こしたりもします。最近のニュースで、本当に悲しい出来事もよく聞きますね。
こう考えていくと、イエスの言葉「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」が、重くのしかかってきます。もちろん、この言葉を「イエスが手招きしたのは模範的な子だったのだから、そういう悪い子は関係ない」と解釈する事もできます。でも、イエスさまの普段の言動を考えていると、そうではないだろうと思います。むしろここに立たせたのは、所謂「手のかかる子」だった可能性の方が高いのではないかとも思えます。「子どもを受け入れる」というのは実は大変なことです。だって、毎日お尻叩かれて、噛みつかれて、乗っかられて、下腹部にキックが、場合によってはブロックで全力で顔を叩かれて流血したりとか、とんでもないことだってたくさんあります。子どもの力だからと侮っていると本当に怪我します。それでも時には笑い、受け止め、そして本当に悪い事なら叱ることもします。「受け入れる」と言った時、「なんでもかんでもOK」と考えがちですがそうではありません。本当に受け止めるのなら、時に叱ることも必要になってきます。叱ったり、止めたりするのは「受け入れていない」わけじゃないですよね。イエスだって、弟子たちのことを受け入れているからこそ時に叱ったりするのです。「受け入れる」という言葉は非常に深いと思います。そして子どもを「受け入れる」ということは、イエスを受け入れることにつながっていきます。一筋縄ではいかない子どもたちをも受け入れるように、イエスの言葉を盲信するのではなく、例えば疑問を持ちつつも「受け入れていく」という姿勢は、わたしたちの信仰を確かに強くしてくれます。
9/13
9/13 サタン マルコ3:20~35
自分が頼りにしている人に、ずっとそばにいてほしい、どこにもいかないでほしいというのはごくごく当たり前の心理です。今日読まれた福音書には、イエスが「人の子が多くの苦しみを受けて殺され、三日後に復活する」と教え出したために、心配したペトロがイエスをいさめる場面があります。「あなたはメシアです」とまで自分の信頼を預けた人が死ぬなんて考えられない、とペトロは思ったことでしょう。ところがペトロはイエスに「退けサタン!」とまで言われてしまいます。まさかペトロも叱られるとは思っていなかったでしょうね。自分の師を思って言ったことが「神のことを思わず、人間のことを思っている」とまで言われてしまうとは。
しかし、イエスもペトロのことを「サタン」と、かなり強い言葉で言っているように感じます。“サタン”と聞くと、たいそう恐ろしい悪魔のように思えますが、調べてみますと“邪魔をするやつ”とか“誘惑してくるやつ”というようなニュアンスがあるようです。自分の行く道に立ちふさがる邪魔者 or 自分の行く道を逸れるように誘惑してくる者という感じです。
イエスの進もうとしている道は、この時点でははっきりと見えていませんが、十字架へ続く道です。イエス自身でさえ「この杯を取り除けてください」(この道からそらしてください)と神に祈るくらいの覚悟で歩まないとならない道です。「神のことを思わず、人間のことを思っている」、イエスの歩む道は神の示した道です。だからイエスは歩み続ける。しかしペトロにとってはそんなことよりも何よりも、自分の敬愛する人がいなくなる、命まで預けた人がいなくなるというのは耐え難いことでした。なんとイエスをいさめたのかは残っていませんが、きっと「他にも道があるかもしれないじゃないですか。今そんなこと言わないで下さいよ」くらいのことは言ったのではないでしょうか。しかし“神の道”がはっきりしているイエスにとっては、それは自分の道に立ちふさがることであり、“人間のことを思う”ことになってしまいました。
わたしたちが信仰の道を歩むとき、様々な動機によって、その道を歩み始めます。ペトロも最初は良くわかっていなかったのかもしれません。しかし、信仰の道を歩む際に起こったさまざまな出来事によって、ペトロ自身も自分の十字架を意識し、最後は逆さ十字にかかって殉教したと伝えられています。わたしたちは時に、邪魔するものに出会ったり、自分自身が邪魔するものになったりもします。あまつさえ「邪魔をするな」(退け、サタン)と叱られてしまうかもしれません。それでもなおその道を歩むのか、それとも邪魔(サタン)につられて逸れてしまうのかが問われています。と聞くと厳しく感じるかもしれません。でも大丈夫。わたしたちが邪魔に負けたとしても、それを上手く避けて戻ってくる道を、神さまは必ず備えてくださいます。
9/6
9/6 できないことをできるように マルコ7:31~37
人間にはできることとできないことがある。と聞くとみなさんどう思うでしょうか。わたしにはもちろん、できないことがあります。どんなにがんばってもウサイン・ボルトのように100メートル走で金メダルを取ることはできませんし、サッカー日本代表の選手のようにサッカーができるわけでもない。一流の料理人のような料理はできませんし、プロの音楽家のような演奏はできません。アインシュタインのように考えられるわけでもなく、外科の名医のような手術ができるわけでもありません。かつてここにおられた牧師のようにふるまう事もできません。
今日の福音書ではイエスの癒しの奇跡が語られます。生まれつき耳が聞こえず、しゃべれない人が、「エッファタ」(開け)という言葉によって癒される場面です。それを見た人々は「この方のなさったことはすべてすばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口のきけない人を話せるようにする」と、驚きの言葉を漏らしています。
先にあげた、わたし(多分わたしたちの)できない数多くのこと、もちろんある程度のことは努力で何とかなるのでしょうが、どうしてもできない部分というのがありますよね。“才能”という言い方をすると問題かもしれませんが、“体格”や“持って生まれた気質”など、どうしようもできない部分というのは必ずあります。“環境”だって、なかなか選べるものでもありません。持って生まれたものを持ちながら、それぞれに努力をして、今、一人一人がここに座っているのではないかと思うんです。
“耳が聞こえない”“しゃべれない”というのは、本人の努力ではどうする事も出来ない問題ですよね。これを“努力”で何とかしようとすることは、本人にとっても周りにとっても不幸なことです。今週読まれたイエスの奇跡のできごとは、この“どうしようもできないこと”を劇的に変化させます。だからこそ人々は、驚きをもってイエスを迎え、そのできごとを語り継ぎました。
本来、「できないことをできるようにする」というのは非常な痛みを伴うことです。何回も繰り返してどうしてもできないことを習得するために何度も痛みを繰り返す、それでもできないかもしれない、という時に何度でも挑むことができるのは、それだけで一つの才能でしょう。「チェンジ!」なんて明るく元気よく言えるのは、アメリカ大統領だけです。「変化する」というのはそれだけ大変なことです。だからこそイエスが起こした「できないことをできるようにした」大きな変化は、驚かれたのです。
「できないことができるようになる」、聖書の中にはこのできごとがいくつも入っています。神さまによって、イエスによって、人々が劇的に、あるいは緩やかに変えられていったことが、聖書の中には多く記されています。その変化というのは、今日の人のように劇的なものもあれば、イエスの弟子たちのように長い期間をかけて変わっていった人々もいます。神さまと出会い、祈り、神さまのために働こうとする時、ちょっとした変化の種が蒔かれます。「神さまのために」ということが、キーワードだとわたしは思います。種はすでにわたしたちの中に撒かれています。そのことを信じ、神さまのため働いてまいりましょう。必要な変化は必要な時に神さまが与えてくれます。気が付いてみたら、できなかったことができるようになっているかもしれません。
8/30
8/30 基準点 マルコ:7 : 1~8,14~15,21~23
久しぶりにマルコによる福音書に帰ってきて、今日読まれたのは「手を洗う」という言い伝えについてのイエスとファリサイ派の人々との問答が描かれます。イエスの弟子たちの中に“手を洗わない”で食事をする者がいることをファリサイ派の人々が咎めるわけですね。しかし、単純に考えて“せめて手ぐらい洗えや”と思いませんか。だって汚いですよねぇ。幼稚園でもそうですが、ごはんの前には手を洗う、トイレに行ったら手を洗う、外から帰ってきたら手を洗う、下手したら消毒までする、というのは、現代に生きるわたしたちにとって至極当然のように感じられます。“手を洗わなくたっていい”と言っているイエスさまが信じられなくなっちゃったりしませんか。
わたしたちは聖書を読むとき、当たり前ですが今の自分の状況に置き換えて読んでいることが多いと思います。でも、忘れてはならないのが、この聖書にしるされている時は、はるか2000年前のことだということです。聖書を読むときにこの辺の“基準”をどこに置くのかよく考えないと、読み間違えてしまうことにもなりかねません。この時代に衛生学という概念はありません。手を洗うのは、あくまで、外界が汚れている(けがれている)から(異邦人がたくさんいるから)、外から中に入る時に手や足を清めるために洗っているのであって、衛生に気を使ってのことではないのです。汚れ(よごれ)ではなく汚れ(けがれ)の話をしていることに気が付けば、この話がもっとはっきりと見えてきます。
イエスは手を洗うのか洗わないのかという一つの事例を通して、汚れ(けがれ)という考え方に対して問いかけています。この話の基準は、それに意味があるかないかということではなく、“手を洗う”という決まり(人間の言い伝え)は“何を守ろうとしたのか”ということにあります。かつて、これらの食べることや浄不浄の決まりというのは、自分たちとほかの民族とを区別するためのものでした。それも、バビロン捕囚という特殊な状況において、民族のアイデンティティーを失わないために必要なものでした。しかし、イエスの時代よりはるか500年以上も前の話です。イエスにとっても、それを今(イエスにとっての今)、人を責めるために使うことに大きな疑問があったのでしょう。もともとは大事なものであったかもしれないが、今は人間の言い伝えにすぎなくなってしまっているものを、どうして後生大事にして他人を責めるのか、そこをついているのです。
わたしたちの中にも、今、このようになってしまっているものはないでしょうか。昔こうだったから、それをそのまましているけれども、本来の意味を問い直してみた方がいいものって、あるのではないでしょうか。先週礼拝後に「堅信前の陪餐」について少しお話しましたが、“パンを受ける”ということの意味を問い直したことの結果、今の流れに繋がっているのだと思います。昔のことをただそのままやるのではなく、本来の意味を問い直して、やり方を大胆に変えていくこともできるはずです。「昔はよかった」というのはわかりますし、伝わっているものが決して悪いわけではありません。そして、それが上手く動いている間はいいのです。しかし、時に立ち止まって、本来の意味を問い直してみることもまた必要です。「何がそのことの本質なのか」ということに判断の“基準点”を置くことで、聖書も、また教会も、新たな目で読み解いていけるのではないでしょうか。