福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
8/23
8/23 わたしたちは誰のところに行きましょう ヨハネ6:60~69
今日読まれた福音書は、しばらく続いた「イエスは命のパン」というテーマの最終回です。イエスが「わたしは命のパンである」と言い、そこから議論が続き、最終的に「実にひどい話だ。こんな話を聞いていられようか」と言って多くの弟子がイエスを離れ去っていくという、ショッキングな出来事が記されています。
教会というところは、多くの期待を集めるところです。「癒されるのではないか」「自分を肯定してくれるのではないか」というものから「清く正しく生きたい」とか「自分を変えたい」など、教会、いやイエスさまに向ける期待は人それぞれ、多種多様です。当然ですが、その期待が裏切られることも多いもの。多くの人が「実にひどい話だ」と言って、教会を去っていきました。それは今でも多くの場面であります。教会は清い場所になるように、一度は清められたはずです。しかし、その空白の場所を狙った悪魔がやってくる、そんな風に言われることもあります。教会に居るのは“いい人たち”ではなく、普通の人たちであり、むしろ“ちょっと疲れた”“癒されたいと願っている”人たちの集まりでもあります。お互いにこれが気に食わない、とか思い通りにならない、なんてことはざらにあります。牧師だろうが信徒だろうが同じことです。わたしたちは、教会に対して実に違った思いを抱いており、なかなかすり合わせられるものでもなかったりします。
しかし、わたしたちが“教会である”と言うことが出来るのはただ一つ、「主よ、わたしたちは誰の所に行きましょう」と言えるからであると思うのです。多くの弟子たちが理解できずに離れ去っていく中、揉めたり、しんどくなったりして教会を去っていく中、ただ「主よ、わたしたちは誰の所に行きましょう」と、イエスにのみ向かい続けるのならば、教会は教会としてあり続けられるでしょう。神さまはわたしたちを“ただイエスにのみ頼る者”として呼び集められたからです。そしてまた、神さまは“え? こんなやつが?!”と言われるような人だったり、“え? なんで今?!”と思うような時であったり、“え? なんでここで?!”と思うような場所を、その力を現わすために用いられます。ふさわしい場所、ふさわしい人、ふさわしい時間だけではなく、家を造る者の捨てた石が隅の親石となるように、わたしたちが“自分では無理”とか、“あいつには無理だろ”思うような時において、思ってもみなかった仕方で生かされるのです。
聖餐式を受ける前「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいて、だれのところに行きましょう」と唱える式文があります。思った通りにならなかったから、誰かのところに行くのではなく、イエス・キリストただ一人にのみに頼る、その姿勢を強く表現した祈りです。わたしたちも陪餐を受ける時、心の中で「あなたをおいて、誰のところに行きましょう」と祈り、パンを受け、かつて行った、イエスにのみ従う決心を、パンを受けるとともに新たにしていきましょう。
8/16
8/16 あなたにとって、それは何 ヨハネ6:53~59
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」というイエスの言葉は、“聖餐式”を知っているわたしたちからすると、「ああ、これは聖餐のことを言っているな」とピンときて、わかるような気がするものですが、何も知らない人が「肉を食べて血を飲む」と聞くとびっくりしてしまうと思いませんか。事実、教会ができて最初のころは“閉じこもって子どもの肉を食べて、血を飲んでいる集団だ”ということで、怖がられて、迫害されることにもなってしまったようです。説明してできなくはないのでしょうが、こういった誤解を解くというのはなかなか難しそうです。しかも、聖餐式で食べているパン、これって“パン”とは言っていますが、これ、ぱっと見たら何に見えますか? 薄いウエハースですよね。今、かえって何も知らない人が見たら“パン”と言われてもピンとこないかもしれません。しかも、これが“イエスさまの肉と血です”と言われたらどうでしょう。「この人たちは大丈夫だろうか。集団で幻覚を見ているんじゃないだろうか」と思ってしまうかもしれませんね。
わたしたちにとって「それがわたしたちにとって何であるのか」というのは、とても大切なことです。傍から見たら迷惑な人であっても、その人にぞっこんという人から見れば“素敵な人”です。どんなに社会的に立派な人であっても、知らない人から見たら“ただのおじさん”だったりします。牧師もそうですよね。先生先生なんて言われていますが、ただのその辺にいるあんちゃんですよね。これは“信仰”“信じる”ということにおいても同じことです。その辺の人から見たらただのウエハースとワインですが、わたしたちにとっては「永遠の命を与えるイエス・キリストの肉と血」です。わたしたちにとって、それは定期的にいただかないと何となく元気が出なかったり、居心地が悪かったりするものですが、そう思っていない人にとってはどうということはありません。わたしたちはその肉と血によって生かされていますが、生かされていない人もまた多いからです。逆に、食べたからといってどうなるものでもありません。それが食べた人にとって何であるのか、それがとても大切なのです。
わたしたちが普段の礼拝において食べているパンとぶどう酒。わたしたち一人一人にとって何であるのか、日々真剣に考えていますか? もちろん、それがイエスさまの体と血であることは教わっています。しかし、それがわたしたちにとってどのように作用するものであるのか、きっと、わたしたちは一人一人、イエスさまの体と血を何度も受ける中で、それぞれに体験を深めていると思います。それを思い出してみましょう。そうすることが、わたしたち一人一人の信仰を深めることに繋がります。今日、これから聖餐を受けます。その時に受けるものが、自分にとって何であるのか、思い巡らしながら受けていただきたいと思います。
8/9
8/9 つぶやかずにとどまる ヨハネ6:37~51
聖書、特にヨハネによる福音書は、読んでいて何となくわかったような気になるのですが、よくよく考えてみるとなんか変、よくわからないところの並ぶ福音書だと思うのですが、皆さんはいかがですか? 今週読まれた福音書は、先週からの続きで「イエスは命のパン」ということについてイエスが語っています。しかし語っている内容はどうもわかるようでわからない。そして、群衆とイエスの会話は微妙にかみ合っていません。人々も何となく腑に落ちなかったのでしょうか、イエスが語ることに対して“つぶやき”始めます。
“つぶやく”というと、聞き取れないような小さな声で何かを言うという感じですが、聖書において“つぶやく”と表現されるのは、“つぶやいた”人々が何か不満があったり、理解できなかったりする時の目印になっています。今日の福音書も、40節までの主語は「群衆」でしたが、41節から「ユダヤ人」に変わっています。イエスに対して不満を抱いたとき、人々は「群衆」から「ユダヤ人」に変わったのです。イエスの話を理解しようとして聴き、ついて行こうとする時、イエスの言葉はわたしたちの所に入ってきます。しかし、理解できないのはともかくとして、理解させてくれない相手に不満を持ち、つぶやくなら、イエスの言葉はわたしたちの所に入ってきません。人々も、イエスの言葉に耳を傾けている時は「群衆」でしたが、理解しようとせず「十字架につけろ」と叫ぶ人々に変わりました。(注 聖書の表現でこうなっているということであって、人種的な含みはありません)
人間が人間を理解できないということは、悲しいかな非常に多いことです。わたしもどう考えても、その行動原理や思考回路がわからない人間はたくさんいます。しかし、後になってよくよく事情を聞いてみると理解できることもあります。人々も、イエスの話を聞こうとしました。しかし「これはヨセフの息子のイエスではないか。わたしたちの良く知っている人ではないか」という理解から離れることが出来ずにつぶやき始め、イエスから離れ去っていきました。
よくある話ですが、何かが「いやだ」「理解できない」と思うと、そこに近づきたくなくなります。「お前の言っていることは正しいかもしれないが、気に食わないから聞きたくない」というのは、よく見られる心理です。「理解できない」「理解させてくれないことへの怒り」「思い通りにならないことへの不満」など、つぶやき始めてしまう原因はたくさんあります。そして一度つぶやき始めてしまうと、それはどんどん加速し、急速に離れていってしまうことになります。
聖書というのは、時にとても分かりにくいものですし、イエスの言葉が承服しがたいものであることも多いです。しかし、その背景をじっくり理解しようとせず、「つぶやく」のなら、わたしたちは簡単にイエスから離れてしまうでしょう。そして、人対人でも、背景をじっくり理解しようとしないのなら、簡単に関係は終わってしまうでしょう。理解というのは時間のかかるものです。もしかして、一生でも足りないかもしれません。しかし、もしじっくり取り組んで、踏みとどまろうとするのなら、聖書はわたしたちに、確かに何かをもたらしてくれるはずです。
8/2
8/2 しるしを見分ける ヨハネ6:24~35
今日の福音書は、先々週からの続きの話、群衆がイエスや弟子たちを探してカファルナウムまで来た時の話です。今回の朗読には含まれていませんが、その前には群衆がイエスや弟子たちを探して“パンが割かれた場所”までやってきた様子が描かれます。
そんな群衆に対して、イエスは「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言い放ちます。印象に残った食事やおいしかった食べ物をまた食べたくなるのは当然のことです。イエスに会えればまたその機会が与えられるかもしれないと期待するのも無理はありません。パンの出来事は、人々にとっては“食事”でしたが、イエスにとっては“しるし”であったことがうかがえます。“食事”ではなく“しるし”と言われても、じゃあ“しるし”ってなんでしょうか。
“しるし”は一般的に、時や人を見分ける兆候や行為として考えられていました。「こういう出来事が起こっているから世の終わりは近い」とかイエスがユダを見分けるのに「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」という言い方をしたのがそれに当たります。たまに人々がイエスに「しるしを見せてください」という言い方をしているのですが、それは“イエスが救い主である証拠を示せ”という意味になります。人々の行動だけでなく、天候や異常気象などにも、人間は様々なしるしを読み取ってきました。今の気象学は、それを発展させたものです。
“しるし”というのは、通常一度限りのものです。そして、それは日常の中で起こります。「あれ、ちょっと変だな」とか「いつもと違うかな」という形で起こり、本当に注意深くないと見逃してしまいます。群衆たちも、イエスがパンを配ってくれたことは見ていましたが、それが「五つのパンと二匹の魚」であったことを認識してはいません。目の前に起こったことしか見ていないのです。目の前のことしか見ていなければそれは確かに“多くの人と食べた食事”であり、イエスは“パンを調達してくれる人”でしかありません。しかし、食べたという出来事の背後をよく見るなら、それが“しるし”であることは明らかにわかります。こうやって、多くのことを人々は見逃してしまいます。
では、“しるし”と日常の出来事をどう見分ければよいのでしょうか。そのヒントはわたしたちが普段行っている聖餐式にあります。聖餐式は、イエスの最後の晩餐やこの五千人の給食の出来事が“しるし”であったことを記念する式です。“食事”といういつもの出来事が“しるし”になるということを忘れないためです。それをわたしたちが忘れずにいるのなら、神さまは必ずわたしたちに、それが“しるし”であることを伝えて下さいます。聖餐を受けることによって、わたしたちは神さまの力をいつも受けていることをおぼえます。その力は、必要な時に、わたしたちに“それがしるしだ”と伝えて下さるでしょう。 こうやって、神さまに信頼しつつ歩もうではありませんか。
7/26
7/26 そばを通り過ぎるイエス マルコ6:45~52
本日の福音書の話は、イエスが湖の上を歩く物語であり、今日読んだマルコのほかに、マタイとヨハネの福音書にも5千人の給食の話の直後に載っています。しかし、マルコによる福音書の物語には一つ特徴があります。それは「通り過ぎようとした」というイエスの行動です。マタイにもヨハネにも、近づいてきて話しかけたことは書いてあるのですが「通り過ぎようとした」という表現は見られません。そもそも、助けに来たのにそばを通り過ぎるのは、少々どころではなくおかしなことです。いったいなぜ、イエスは“通り過ぎようと”されたのでしょう。
先日、神戸に行く機会があり、少しだけ時間があったので、神戸の街を少し歩きました。苫小牧では歩いていてもあまり人とすれ違わないのですが、神戸の街では多くの人とすれ違います。彼らはみんな、わたしの前を通り過ぎていくんですね。向こうからアクションがある場合もありますが、話しかけてくるのはお店の客引きばかり。突然話しかけられることもありますが、人とのコミュニケーションってこちらから動かなければ基本的に起こらないものですよね。壁の花になっていても、みんな自分の前を通り過ぎていくだけです。そばを通り過ぎるものにたいして何のアクションも起こさなければ何も起こらないままです。もちろん、弟子たちもイエスだとわかって声をかけたわけではありません。幽霊だと思いおびえて声を上げただけでした。しかし、そんな小さなリアクションでもイエスは“通り過ぎて”行ってしまうのではなく、弟子たちの所にやってきたのです。
そもそも、聖書、特に旧約聖書の中で、神さまは様々な人に話しかけてじっくり話すこともあるのですが、そばを通り過ぎて行ってしまうことも多いのです。アブラハムが神さまと契約をする時、アブラハムが寝てしまってから神は彼の前を通り過ぎ、契約が成立しました。今日の旧約聖書でも、エリシャの前を神は通り過ぎ、師匠のエリヤを天にあげました。そもそも、神さまは神殿などのどこか一か所にとどまっているのではなく、自分の創造したこの世界の中を常に動き回っています。神さまの作られた世界の中に、神さまの足跡が残されていない場所は一つもありません。わたしたちはその跡をたどるだけです。未開の地に神さまを述べ伝えるのではなく、神さまが軽やかに歩かれた跡を見出すために歩くのです。そう、いつも、わたしたちのそばを“通り過ぎて”いかれているのです。わたしたちにとって、それはあまりに自然で、その辺の人とすれ違うように通り過ぎて行ってしまいます。しかし、それに対して何らかのアクションを起こすなら、神さまはわたしたちの方に向かって来て下さいます。
それが“ちゃんとした形”が整った呼びかけである必要はありません。幽霊と間違えておびえたような声に対しても、イエスが方向を変えて来てくれたように、神さまはわたしたちの所に来て下さるのです。神さまへのアクションを起こしつつ、神さまを求めつつ、この暑い日々を過ごしていきたいと思います。
7/19
7/19 わたしたちがするのですか マルコ6:30~44
今日の福音書は、いわゆる“五千人の給食”の物語。誰もが知っている有名なお話です。自分たちだけで休もうとしたイエス一行ですが、人々がついてきた結果、休むことができなくなってしまいます。その上、夕方になって食べるものがないので、イエスがパンを裂いて人々に与え、多くの人々が満腹したのですが、今日読まれた話のポイントは、その前の弟子たちとイエスとのやりとりにあります。
ついてきた群衆に対して自分で食べるものを調達してくるよう言えばいいと考えて、イエスに進言する弟子たちですが、イエスに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われてしまいます。なぜ、イエスはそう言ったのでしょうか。もちろん奇跡を起こすためだと言えばそれまでかもしれません。しかし、わたしにはそうでないように映るのです。
弟子たちはイエスに頼り切っています。何があってもイエスが何とかしてくれるという信頼、ということもできますが、イエス任せで何もしないということにもなります。また、イエスのことを見失っているとも言えます。なぜなら、神さまの力がイエスを通して働かれているのであり、イエス自身が何かしているわけではないからです。
聖書を通して、神さまは多くの場面で働かれています。しかし、それはほとんど“誰かを通して”なされています。アブラハムしかり、モーセしかり、エリヤしかり、また多くの預言者たちもそうですね。神さまは“誰かを通して”もしくは“何かを通して”世界に働きかけているのです。そしてそれは、イエスの時だけで終わるものではありません。どんな人を通しても、いつでもどこでも神さまが働かれる可能性はあります。それはやはり“誰かを通して”なのです。わたしたち一人一人が動いてみたことを何倍にもしてくれるのが神さまの働きです。それは“自分以外の誰か”を通してということではなく、“自分を含めた誰か”です。
弟子たちも、“まず自分たちでパンを探す”ということをした結果、イエスを通して働かれた神さまの力を受けて、多くの人が満腹になりました。わたしたちも“神に信頼している”“神さまに願っている”と言いながら、何もしないでいるということはないでしょうか。時に驚くような結果になる時は、わたしたちが動いてみたことの結果を通して、さらに神さまが働かれてさらに大きな結果につながるのです。弟子たちが最初に「わたしたちがそれをするのですか」と問い返したようなことは、わたしたちの周りにたくさんあります。しかし、「なんでわたしたちがそれをしなければならないんですか」という理由を探すことにあまり意味はないと思います。なぜならば、神さまはわたしたちの一人一人がやってみたことを通して、世界に働きかけるからです。「○○が与えられればいいのに」と言って動かないというのは、神さまが世界で働くチャンスを奪っていることになります。「わたしたちがするのですか」と理由を問うのではなく、動いて生きましょう。そこに神さまが働く場所が生まれるのです。
7/12
7/12 何でも受けよ マルコ6:7~13
12人の弟子たちの派遣の時、イエスは弟子たちに、杖一本と靴のほかは、パンも袋もお金も持たずに行くように伝えます。それ以外にも「下着は二枚着てはならない」とも伝えています。ということは、着のみ着のままで旅をすることを意味しています。
現代の日本であれば、コンビニですぐに調達できますから、とりあえず何とかなるものですが、そんな便利なわけじゃない時代に、強盗が出るかもしれない場所を手ぶらで歩くというのは正気の沙汰ではないでしょう。今、わたしたちが例えば1~2日出張に行くことを考えても、下着は日数分持ちますし、TPOに合わせた服を用意したり、本を持ったりと、何かと荷物が多くなってしまうのはよくあることです。しかもお金を持たないわけですから、お金で何とかすることもできません。ある意味で、完全に誰かの助けを、恵みを期待していないと、こういう動き方はできないわけです。しかも滞在するのは宿屋でなく誰かの家です。しかもある一定以上の日数居座るわけですよね。しかも目的が“福音を伝えること”ですから、一泊の恩義に働くわけでもない。街に行って神について語り続けるだけです。今そんな人がいたら「非常識だ!」と言われてしまうに決まってます。
しかし、ある意味で、イエスが12人に言い渡したことは、牧師のみならず、キリスト者全般に対する心得の一つであるかもしれないと思うようになりました。“何も持たずに、所有せずに生きろ”ということではありません。それは「受ける」ということを大切にしなさいということだと思うのです。彼らは何も持たずに出かけました。もちろん歩くのに支障はありませんが、それこそ替えの服から食べ物まで持っていませんし、お金もないから自分で何とかすることもできません。そんなわけで、何かを手に入れるためには、誰かから「受ける」よりほかに方法がないのです。何でも受けなければ早晩倒れてしまうでしょう。そうなると神を伝えることもできなくなってしまいます。それが何であれ、気に食おうが食うまいが「受ける」ということをしないなら、神の働きがとん挫してしまうのです。
わたしたちは、実に多くのものを所有しています。それは決して悪いことではありません。ですが、わたしたちは持っていれば「それは気に食わないからいらない」ということができてしまいます。わたしたちは与えることができるほど持っているけれども、「受ける」ことを忘れるのなら、神さまの働きはそこで止まってしまいます。「与えること」だけでなく、むしろ「受けること」を通して神さまは働かれるからです。そしてこれは牧師だけの働きではありません。誰もがまた自分の生活の中へ遣わされているからです。一人一人を通して、神さまはわたしたちの生活の中で働かれています。わたしたちもその恵みを「受けて」いることを今一度かみしめながら、日々を過ごしてまいりたいと思います。
7/5
7/5 信じるということ マルコ6:1~6
今日の福音書はイエスが自分の生まれた地、ナザレへやって来た時のことが描かれます。あちこちで奇跡を行い、教えを説いてきたイエスでしたが、故郷ではすっかり形無しです。こういったことは誰にでも起こり得ることで、「子どものころはああだったのに立派になったねぇ」なんて言われているところではどうにもこうにもなりません。これは何も“子ども時代のことを知っている”ということに限らないのではないかと思います。例えば会社で最初の上司には頭が上がらないだとか、いろいろなケースが考えられるのですが、どれも“普段自分が行動している場所でできることができない”という点では共通しています。イエスもいつもと違い、少しの人しか癒すことができませんでした。
この物語の故郷の人たちの反応を追っていくと、少し面白いことに気が付きます。人々はイエスが教えることに“驚いた”んですね。当たり前ですが、その人がどんな人であれ、誰であれ、何か特別なことをやったり言ったりすれば、当然誰もが驚くわけです。これは普通のことですよね。驚くこと自体は悪いことではありません。でもその後「人々はイエスにつまずいた」と聖書にはあります。純粋に驚いていたはずが驚かなくなってしまう。人々の心が“驚き”から“つまずき”へ変わったタイミング、それは「この人は大工ではないか」という言葉にあります。なまじ知っているがゆえの落とし穴というやつでしょうか。イエスを見て驚いたとしても、簡単な答えに、よく知っている答えに逃げてしまったのです。イエスを自分の知っているところに引き摺り下ろしたとも言えます。なんせよく知っていますからね。しかし、イエスの幼少期を知らない人たちは、簡単な答えに逃げ込むことなく、「この人は何者だろう」という驚きとともに歩むことができました。もちろん、簡単に答えを出すことが必ずしも悪いわけではありません。なぜなら、彼らにとって自分たちの間にいたイエスもイエスであり、確かにその一部分だったからです。ただし、それが“暫定”であり、一時的であることを知っているのなら。そして、その答えを変えていくことができるならです。
わたしたちは、様々な場面で人を評価しますし、その人についての話を聞きます。しかし大事なのは、その評価が「その人がその時そう思ったこと」なのであって、固定されたものではないことを知ることです。時に「この人は大工ではないか」という、人を引き摺り下ろすような答えに出会うこともありますが、それも一時的であるということを忘れてはなりません。「あの人は昔こうだった」ということにこだわり続けるなら、わたしたちが生活の中で神さまに出会うことは困難になります。神さまは“誰かを通して”、時に“思いもしなかった誰かを通して”わたしたちに自分を示されるからです。「この人は大工ではないか」ではなく「この人は一体何者だろう」という驚きを保ちながら、日々、生活の中で自分を現わされる神さまと向き合っていきたいものです。
6/28
6/28 誰にも知らせないように マルコ5:22~24,35~43
今日読まれた福音書の一つのテーマが“奇跡”であるということに誰も異存はないでしょう。死んでいた少女がイエスの呼びかけ「タリタ・クム」で起き上がる。これを奇跡と呼ばないで何を奇跡と呼ぶのか、ということです。そばで見ていた人々も、驚きのあまり我を忘れていました。非常にセンセーショナルな出来事ですし、広告という観点から考えれば、これは大いに言い広められるべきことです。「実際に奇跡という証拠を見れば、多くの人が信じるだろう」と考えるのは当然です。教会によってはこういった奇跡的なことを大々的に宣伝し、大きなイベントを行うこともありますね。個人的にはあまり賛成しないのですが。
驚く群衆とは対照的に、イエスは「このことを誰にも知らせないように」と命じます。人々がイエスに従うのに有利な点であるはずなのに、それを放棄するようにと命じるのです。正直、現代の感覚からいうと腑に落ちません。もちろん、今の時代に即して考えれば、むしろ胡散臭く人々に映ってしまう懸念があるとも言えます。ある意味で、聖書はその命令に逆らっていると言えなくはありません。聖書には多くの奇跡が書き残されていますから。でも、それと同じくらい「それを秘密にせよ」というイエスの命令も書き残されているのです。なぜイエスはそんなことを弟子たちに言い残したのでしょうか、そして弟子たちは本当に秘密にするより、そのやり取りも含めて聖書に残すことを選んだのでしょうか。
それを読み解くヒントは、やはりイエスの言葉にあります。娘が死んだという知らせを受けた時、イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と言います。しかし「何を信じるか」ということについて一言も触れてはいないのです。単純に考えれば“これから奇跡を行うわたし(イエス自身)を信じなさい”ということになるでしょう。しかし、そのニュアンスは少し違います。なぜなら、“奇跡”は、イエス自身が行うのではないからです。イエスはそのことを良く知っていました。自分を通して神の力が出ることが“奇跡”につながるのであり、イエス自身の力ではないということを。そして、イエスの活動の目的は、自分を伝えることではなく、自分の背後にある神さまを伝えるということにありました。“奇跡”をセンセーショナルに宣べ伝えることによって、神さまではなく“自分”が伝わってしまうことを、自分自身に厳しく戒められたのです。
牧師も、「自分を伝えるのではなく神を伝えよ」と言われます。そしてその真価が問われるのは「自分が去った後」であるとも言われます。もし、「あの先生でなければダメ」という人ばかりが教会に居るのなら、それは「神を伝えず自分を伝えた」ということになるのであり、「牧師が誰か、どんな人か」ということに関わらず、信仰生活を送る人々が多いのなら、それこそが「自分を伝えず神を伝えた」ということになるのです。人間的には非常に難しいことです。誰だって好かれたいに決まっていますから。それでも、神を伝えていくことを続けていきたいと思うです。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。
6/21
6/21 イエスは眠る マルコ4:35~41
小舟の中で風に翻弄され、おびえる弟子たち。波も高く舟は水浸し。しかしそれとは対照的にイエスは同じ舟の中で眠っています。思わずペトロがイエスを起こしてしまうのもうなずけます。どう考えても大ピンチであり、イエスを起こして何とかしてもらわなくては乗り越えられない、そうペトロは思ったことでしょう。むしろ「こんな時に寝てる場合じゃないです!」と怒りたかったかもしれませんね。
様々な事で、自分が「大変だ大変だ!」と思って大慌てな時に、横で誰かが落ち着いてのんびりしていたらイライラするものです。これだけ大変なのになんでこいつはわかってくれないんだ! と思わず毒づいてしまいたくもなります。人に対してもそうですから、神さまに対してはもっとでしょう。なんでわたしをこんなピンチに追い込むんだろう。神さまは本当に見ておられるのだろうかと思ってしまうこともあります。わたしがおかしいと思うようなことがどうしてそのままなんだろう。神さまは何とかしてくれるはずじゃないのかなんて考えてしまいますよね。確かに、自分の周りを見渡してみても、自分だけではどうすることもできない、でも何とかしなきゃいけないんだけどどうにもできないようなことがたくさんあります。これをただ黙ってみている神さまは本当にいるんだろうか、なんて考えてしまうこともあります。
しかし、イエスは眠っています。自分も波に揺られて濡れてしまっているけれども眠っているのです。それは、神の力を持っているから怖くないとかそういうことではありません。イエスはそれがいつか収まるものであることを知っており、濡れたとしても必ず乾くということを知っていたからです。そして、その時も神さまが下さるということだからです。
わたしたちは神さまに、わたしたちの平和を、幸福を祈ります。もちろん、神さまが楽しい事、いいことだけをくださるのだったらどんなにいいでしょう。しかし、「主が与え、主が取りたもう」というヨブの言葉にもあるとおり、神さまはわたしたちに楽しいことだけでなく、苦しいこともまた与えられるのです。嵐の中で立ち向かわなくてはならないようなこともあるでしょう。眠っているイエスは、わたしたちに「そんな時でも、神さまが与えてくださったと信じ、落ち着きなさい」と伝えています。なかなか納得のいくことではないかもしれません。しかし、状況に抗うよりは、身をゆだねた方が時にいいことを、わたしたちは経験的に知っているはずです。眠っているイエスへの信頼を持ちつつ、日々の嵐の中へ漕ぎ出してまいりましょう。
6/7
6/7 兄姉と言う呼び方 マルコ3:20~35
今はさほど見かけなくなりましたが、教会の中で、信徒がお互いのことを「○○兄」「○○姉」と呼び合う習慣がありました。「神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」というイエスの言葉に影響されてのことでしょうか。また教会を一つの家族としてとらえるという一つのモデルの結果でもあると思います。でも、わたしこの呼び方にどうしてもなじめませんで・・・。なぜならですね、正直に言って、教会は“家族”というには、その中でのもめ事がたくさんあるところで、中には「あいつとは口も利きたくない」とお互いに思っている人までいるところだということに気付いたからです。割と大きな教会ならさほど目立ちませんが、小さい教会だからって仲がいいかというとそんなことはなくて、「家が内輪で争えば、その家は成り立たない」と言われてしまえるくらい成り立たなくなっているところもあります。もちろん、本当に多くの人が家族のように集う教会がある一方で、ドライになり、お互いにお互いのことを全く知らずに距離を取るような場所もあり、本当にいろいろあるなと思わされます。まぁもちろん、「○○兄」とか「姉」という言葉が一般的に耳慣れないというのもあるんですけどね。
みなさんは“家族”という言葉にどんなイメージを持ちますか? 夫婦に子どもといういわゆる“核家族”でしょうか。それとも祖父母や曽祖父母なども含む“大家族”でしょうか。もっと大きく伯叔父母や従兄弟姉妹なども含む“一族”でしょうか。それとも母子家庭や父子家庭などの“小さな家族”でしょうか。家族と言ってもそれだけイメージに違いがありますよね。さらに、その関係はどうでしょうか。仲が良く、いつも笑顔がある家族もあれば、お互いに干渉しあわず部屋に閉じこもって、そもそも会話がない家族もあります。本当にその相は様々です。教会をもし“家族”ととらえるのならば、これらのイメージがある程度近くないと、そもそもの話が成り立ちませんよね。では、わたしたちの聖ルカ教会はどのようにしたらいいのでしょうか。やはり世相に合わせるべきでしょうか。
そのことを考えるヒントはやはりイエスの言葉にあるというべきでしょう。今日の福音書にあった「神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」という言葉が響きます。では“神のみ心”とは何でしょうか。それはやはりイエスの残した「互いに愛し合いなさい」という言葉に帰結するのだと思います。それはお互い干渉しあわないということではなく、お互いに与え合うような関係であるのだと思います。家族の中に例え合わない人がいたとしても、それでも与える、受けるということはかなりしんどいことです。無理を城とは言いませんが、それでも与える、受けるということができる時、教会は一つの家族となったと言うことができると思います。逆に“親しき仲にも礼儀あり”とも言います。お互いを知りつつ、節度のある交わりを持っていくことです。これらは自分一人で成し遂げるのではなく、神さまの助けをもって、何とか成し遂げられるものでもあります。わたしたちの教会はそこに立っているだけで一つの証をしています。その証が、願わくば“神の愛”を示す証であるよう、一つの家族としてありたいと思います。
5/31
5/31 三位一体の力を受けて ヨハネ3:1~16
聖霊降臨後の最初の日は三位一体主日。先週の聖霊降臨日で3つの位格が揃ったとみなされるのでしょうか。聖霊降臨日の次の週が三位一体主日になっています。聖書の朗読も「父なる神について」の旧約聖書、「聖霊の働きについて」述べた使徒パウロの手紙、「子なる神イエスの証」を記した福音書と、三つの位格について読まれます。
三位一体ほど、教会の教えの中でややこしいものはないと思っています。「父なる神」について、「子なる神イエスについて」「聖霊について」はそれぞれ学ぶことができます。しかし、その関係である「三位一体」については学べば学ぶほどわけがわからなくなっていってしまいます。
今日の三位一体主日では、ニケヤ信経に代えて「アタナシオ信経」を読んでもよいことになっています。このアタナシオ信経が、三位一体について知るためのものなのですが、正直なところ読んでもますます疑問が増えてしまいます。それだけ説明するのが難しいことなのです。祈祷書の巻末に付録としてつけることになっていますので、一度目を通してみてください。
三位一体を知るということは、三つの位格である「父なる神」「イエス・キリスト」「聖霊」の三つの位格について知るということです。「知る」ということは「勉強する」ということとは違います。もちろんそれも含まれますが、わたしたちにとっては「感じる」ことの方が多いからです。知らず知らずのうちに、わたしたちに働きかけているのが「三位一体」だからです。三つの位格のそれぞれが、わたしたち人間に働きかけます。今日の旧約聖書はモーセが神に出会う場面です。モーセが近づくと「ここは聖なる場所だから履物を脱ぎなさい」という声が聞こえます。モーセはその言葉に従い、神と会うことを恐れて顔を隠します。礼拝堂に入ると、何となく心が洗われるように、わたしたちは「聖なるもの」(神)に対する畏敬の念を持っています。そしてわたしたちは、パウロが言うように、霊によって強められ、神の子としてキリストと共同の相続人となり、イエスの言う通り新たに生まれ変わった者となったのです。わたしたちが今、ここにこうしているということは、それがたとえどんな状況であったとしても、三位一体の神の力を受けていることの結果なのです。もしかしたら、わたしたちが望んだことではないかもしれません。しかし、わたしたちは受けてしまっているのです。
イエスの言う「新たに生まれる」というのはリセットされることとは違います。それは今までのことを引き継ぎながらも、今までとは違う方向にも向かっていくことのできる力を得た、ということです。三位一体の力を豊かに感じながら、その力を身に受けて、この世界を歩んでまいりましょう。父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。
5/24
5/24 霊に導かれて ヨハネ20:19~23
本日は聖霊降臨日。一年にたった2回、祭色が赤になる日のうちの一日です。聖霊降臨日は、今日の使徒言行録にあるとおり、弟子たちの上に聖霊が降った、教会にとっての、いわば“誕生日”であります。まるで酔っぱらっているかのようにも思われた弟子たちの体から出ている力と勢いはものすごいものであったのでしょう。
聖霊には、たくさんのイメージがあります。炎、それから舌、そして今日の福音書では“息”というイメージが用いられていますね。また思い出していただきたいのですが、イエスが洗礼を受けた時、“鳩”のような姿で降ったとありますね。また“風”というイメージも用いられています。これらのイメージを総合して考えますと、聖霊はわたしたちの身近にあり、自由にどこへでも飛んでいくような感じでしょうか。わたしたちの中から出てくるものであり、そのあたりに遍在するものであり、わたしたちの意志とは関係なく自由にふるまうものであり、そしてわたしたちを常に見守り、支えてくれる存在であります。聖霊はまた、わたしたちを燃え立たせるものであります。わたしたちは堅信を受けた時、聖霊の特別の恵みを受け、聖霊によって強められています。聖霊は弟子たちを燃えたたせ、福音宣教の道に導きました。またそれからも多くの人々の心を燃え立たせ、遠く中東から始まった信仰は地球の裏側のわたしたちのところにまで伝わっています。
しかし、身近にあるものほど、当たり前にあるものほどわたしたちが忘れやすいものはありません。また炎や鳩はともかく、息や風は目には見えませんから、否定するのもまた簡単です。だからこそわたしたちは何度も何度も聖霊の降臨を祝い、礼拝の中で確かめるのです。また、一つお勧めいたしますが、日々の祈りの中で、自分の呼吸、つまり“息”に集中して、しばらく沈黙する時を持っていただきたいと思います。人の身体は、聖霊の力を感じるように創造されています。わたしたちがその力に集中する時、聖霊はかならずその“炎”を少しずつわたしたちに分け与えてくれます。また、日曜日の聖餐式においても、今から聖別するパンとぶどう酒の上には聖霊が送られ、わたしたちの力として分け与えられます。
教会、特に礼拝堂は本来、そういった豊かな聖霊の働きを感じさせてくれる場所なのです。聖霊が感じられなくなった時、助けが必要な時に霊の力を感じる場所でもあります。日々の生活の中ではなかなか感じにくいものであるかもしれませんが、日々聖霊の力を感じ、また身に受けつつ、教会の誕生日から始まる新しい一年へ歩み出してまいりましょう。