福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
12/21
12/21 良い知らせ ルカ1:26~38
一足早いですが、クリスマスおめでとうございます。先ほど朗読された聖書は、ルカによる福音書から受胎告知の場面でした。大天使ガブリエルがマリアのところにやってきて、身ごもったことを伝える、クリスマスの一番初めの場面です。
わたしたちの読んでいる聖書の中でイエスの生涯を描いた部分を特に「福音書」と言い、4人の作者による4つの福音書が聖書に含まれているのはみなさんよく知っておられることだと思います。ところで、この「福音」という言葉、どういう意味だか考えてみたことはあるでしょうか。この漢字「音」ですが、普通は「おん」と読みますよね。でもここでは「いん」と読みます。ちょっと珍しい読み方です。この「福音」をもっとわかりやすい日本語に直しますと「良い知らせ」ということです。じゃあその「良い知らせ」とは一体何かと言えば“イエス・キリストのこと”と言うことができるでしょう。少なくとも福音書に書かれている「良い知らせ」というのは“イエス・キリストのこと”であるのに間違いはありません。このルカによる福音書の最初の話はクリスマスのお話から始まります。“イエス・キリスト”という人を語るにはまず、彼が世界に誕生したときのことが語られなくてはなりません。そして、そのクリスマスは、クリスマスのその時に始まったのではなく、今日読んだ出来事、マリアのところに大天使ガブリエルが現れたところから始まったのです。
ガブリエルはマリアに告げた「おめでとう恵まれた方。主があなたと共におられる。」という言葉は、クリスマスの始まりを付ける言葉であると同時に、クリスマスの出来事を通して、今やわたしたち一人一人に向けられた言葉になりました。イエスのことを別名で「インマヌエル」と言います。これは「神は我らと共におられる」という意味であり、それはイエスが、神さまがわたしたち一人一人のところに来ている、来たのだということです。クリスマスの夜に、マリアとヨセフのところにやってきたイエスはまた、その生涯を通して、すべての人の救い主となられました。そしてクリスマスの出来事を通して、わたしたち一人一人の心にイエス・キリストはやってきます。それは信徒であるとか信徒でないとかそういうことではありません。知っているか知らないかに関わらず、イエスはすべての人のところにやってくるのです。
「おめでとう恵まれた方。主があなたと共におられる」という言葉は、わたしたち一人一人のことを神さまは決して見捨てないのだということをも示しています。どんなことがあっても大丈夫だ。何とかなるんだ。という神さまからの力強い言葉です。聖書に出てくる人たちは決していつも倫理的にも行動的にも優れていたわけではありません。しかし、そんな人々をも、神さまは用いてくださっています。「おめでとう」という言葉は、神さまの決意の言葉でもあるのです。これが、福音書の最初に記された「良い知らせ」です。その良い知らせを胸に、クリスマスのその時を迎えていただきたいと思います。クリスマス、おめでとう。
12/14
12/14 証をする ヨハネ1:6~8,19~28
北海道教区の教区報「北海の光」はみなさんよく読んでおられることと思います。牧師による巻頭言や各教会の教会だよりなど、自分に関係する人が多ければ多いほど楽しい紙面だと思っています。特に他の教区からお褒めに与るのが2ページ目に掲載されている色々な教会の信徒の文章です。これを“証”と言います。でも、一般的に「証をする」という言葉はあまり使いません。教会に濁点を付けて「ぎょうかい用語」の一つですが、この「証」というのが、今日読まれた福音書の一つのポイントになっています。
一時期北海の光編集委員にもなっていたことがありますが、その時に苦労したのは、この「証」の依頼です。「わたしには書けません」「立派な文章じゃないですから」などなど、たくさんの断りの言葉が目の前に並び、頼むこちらの心が折れそうな、そんな時を過ごしたことがあります。
「証」という言葉は少し仰々しいのですが、要するに「わたしはこういう人である」という自己紹介のことであり、その中でも自分と神さまとの関係、例えば教会との出会いや人との出会い、聖書との出会いなど、“わたしがどうして今のわたしとしてここにいるのか”ということを語るということです。今でこそ、自己紹介や本人確認というのは免許証やら住民票やら、そういったものを使ってすることができますが、昔はそんなものはありませんから、自分でどう名乗るかがすべてでした。「行動によって身の証を立てる」という表現がありますが、自分がどこの誰であって、信頼できる人間であるということは、自分で行動や言葉によって示すことが大事にされていました。これは、今でも変わるところがそんなにないことだと思います。
教会において「証をする」ということは、自分がどんな信仰の道をたどって今に至っているのかということを明らかにするということです。もちろん簡単なことではありませんが、でもいつも気にしておいてほしいことだと思うのです。そしてポイントは、それが上手か下手かという基準はどこにもなく、今に至った理由が何であっても問題はないということです。笑う人こそ問題です。洗礼者ヨハネは、周りに何と言われようが自分の「証」をしました。わたしたちもまたヨハネにならい、今一度自分のたどってきた道を見つめ、わたしたち一人一人の「証」を立てていきたいものです。なぜなら、多くの人の証が、教会を、信仰を支えてきたからです。降臨節のろうそくもあと残すところあと1つとなりました。備えつつ、クリスマスを迎えましょう。
12/7
12/7 まっすぐな道を通るもの マルコ1:1~8
わたしは山に登るということが割と好きで、休みがあって思い立つと、ちょっと山へ登ってくるということも少しずつしています。いつもは使わない部分を使うからでしょうか、帰ってきたら筋肉痛だったりもするのですが、体を動かすというのは実に気持ちのいいことです。
山道を歩いていると気が付かないのですが、下からその歩いてきた道のりを見てみると、ものすごく曲がりくねっているのがよくわかります。たまに斜面に対してまっすぐな道があると、とたんに登るのがしんどくなり、ゆらゆらと蛇行しながら曲がっていく道は、多少時間はかかるし距離のロスもあるのですが、ゆっくりとなだらかに登っていくことのできるようになっています。
わたしたちの生きてきた道はよく“山”や“坂”などに例えられます。「人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、まさか。」なんてよくある枕詞ですが、わたしのような若造が思うのですから、みなさんにはもっと実感できることでしょう。わたしたちがどこでイエスに出会ったにせよ、その前に歩んできた道も、その後に歩んだ道も、決してまっすぐとは言えなかったのではないかと思います。その周りの景色はどうだったでしょうか。いい時もあり、悪い時もあったと思います。時に荒れ野の道を通ることもあったのではないでしょうか。
しかし、そんなわたしたちのところに神さまはいつもメッセージを送っています。その道は、たとえわたしたちがどこにいたとしても、わたしたちのところへまっすぐに通じています。イザヤが預言し、洗礼者ヨハネによってまっすぐに整えられ、イエスの誕生によって一度開かれた道は、わたしたちが意識しなくとも、わたしたち一人一人のところから神のところへ向かってまっすぐに通じています。クリスマスの物語を語る時、イエスの降臨だけでなく、その通ってきた道筋、わたしたち一人一人のところへイエスが入ってきた道筋のことも一緒に思い返してほしいのです。イエスがわたしたちのところに宿られたということだけでなく、イエスがわたしたちのところにやってくる時に通ったまっすぐな道のりについてです。
道は、使われなければ苔むし、草が生い茂り、人々の記憶からも消え失せ、見いだせなくなってしまうものです。山の中を歩いていると、あまり使われない登山道は、道があるんだか無いんだかわからないような状態になってしまっていることもあります。道を歩いていたつもりがけもの道、なんてこともあります。今の道路でも、新しいバイパスが整備されると古い道は放置され、誰も通らなくなることもあります。そんな旧道を、山道などで見かけることもありますよね。
わたしたちの心から神さまへ通じる道は、いつも開かれているでしょうか。毎年一度、クリスマスにイエスが通り抜けるまっすぐな道が、すっかり苔むしてしまっていないでしょうか。草が生い茂り、記憶からも消えてしまっていないでしょうか。イエスがクリスマスにやってくるだけでなく、わたしたちの方からも通るものがなければ、そのまっすぐな道もやがてわからなくなってしまうでしょう。その道をわたしたちの方から通るものはなんでしょう。それは祈りです。神さまに向けての真剣な思いが通り抜けることです。ただ単に決められた言葉を唱えることだけではなく、わたしたちの思いを神の方に向けることです。降臨節の短い準備の期間を、祈りの時、道の整備の時とし、クリスマスにイエスをわたしたちの心にまっすぐお迎えしましょう。
11/30
11/30 わたしたちに向けられた マルコ13:33~37
福音書の多くの場所に「目を覚ましていなさい」というイエスの警告が見られるのはみなさんがよくご存じのとおりだと思います。家の主人がいつ帰ってくるかわからないから目を覚ましていなさいという理屈はわかります。ところが、わたしたちは寝ずにいるわけにはいかない生き物として創造されています。個々人の差はありますが、眠らないでいると身体に変調をきたしますよね。一時寝ないで頑張れたとしても、後で必ず反動が返ってくるようにわたしたちの身体は創造されています。イエスだってこのことを知っているはずです。にもかかわらず、わたしたちに「目を覚ましていなさい」と言うのです。
もちろん、これが比喩だということはみなさんもご存じのとおりです。主の日はいつ来るかわからないから目を覚ましているように。いつも気を付けているように。準備ができていないということがないようにしていなさいというメッセージです。
しかし、そうはいっても、個人個人のことと考えると難しすぎますよね。絶対寝ますし、注意を払い続けることも難しいでしょう。時に頭の中から抜けてしまうこともあるかもしれません。誰でもうっかりミスをなくすことができないように、厳密に目を覚まし続けていることはとても難しいことです。
しかし、そこで一つ、わたしたちには考えてみるべきことがあります。それは、今日の聖書の言葉は“あなたがた”に向けられているということです。つまり、この言葉は「わたしたち」に向けての言葉であって、一人一人が守るべきことというよりは、「わたしたち」みんなに、つまり“教会”に向けられているのではないでしょうか。わたしたちキリストを信じる人々は世界中に広がっています。今この場所にも10人ほどの方が出席しており、今の時間おそらく日本中の多くの教会で礼拝が行われているでしょう。キリスト者の群れは昔から、お互いに助け合い、支え合って、そして交互に目を覚ましつつ生きてきたのです。そもそも人間は眠らなくてはならない生き物として創造されており、眠っている間は無防備になってしまうということでもあります。でも、そんな中、集団で誰かが見張りをして、常に目を覚ましていました。むしろ、人間が眠らなくてはならないのは、お互いに守り合うためであるということができるのではないでしょうか。
わたしたちの聖ルカ教会もそんな人間の集まりの一つであります。そして、その聖ルカ教会は教会と教会に普段来ている人だけの集まりでしょうか。そうではありませんよね。そこには教会の方々の家族がおり、友人たちがおります。また敷地内にある聖ルカ幼稚園にはたくさんの子どもたちとその保護者達が、そして職員たちがいます。キリスト教船員奉仕会には多くのボランティアたちと、利用している船員たちがおります。そうやって考えていくと、聖ルカ教会の範囲というのは非常に大きなもので、その中で共に目を覚ましあい、支え合い、互いを大切にし合っているのです。いえ、そうでなくてはなりません。また、この教会に関わってきた多くの人たちのことも忘れてはなりません。天の全会衆、ことにこの教会の関係の逝去者たち、わたしたち一人一人の先祖たちもそうです。すべてが交わりの中にあり、今は眠っている人たちのためにも、わたしたちが目を覚ましていると言えるのです。教会の新しい1年にあたり、わたしたちの大きな大きな交わりを今一度思い描きつつ、降臨節の歩みを続けてまいりたいと思います。
11/23
11/23 まず与える マタイ25:31~46
今回のイエスの話では、終末の様子が描かれます。羊飼いが羊と山羊を右と左に分けるように、すべての民を右と左に分けるというのです。右側にいた人々は称賛され、左側にいた人々は罰を受けると宣告されるのですが、彼らの違いは一体何でしょう。「お前たちは、わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」という理由で、ある人々は右に、そうしなかった人々は左に振り分けられるわけですが、これが文字通りのことを指しているのだとしたら大変なことになります。現代の日本ではなかなか飢え死にしそうなほど貧しい人に出会うことはありません。渇水の時はありますが、自治体から給水車が出てなんとかなりますよね。旅をしている人も今は自分で日程を決め、宿を確保しているのが普通です。裸で歩いている人はどちらかというと違う理由の人がほとんどです。身近な人が病気だったら見舞いますが、見ず知らずの人のところにはいかないでしょう。牧師にだって“お忙しそうだから”と入院しているのを知らせない時代です。牢屋にだって、自分の身内じゃなければなかなか行く機会はありません。そもそも簡単に入れるわけじゃないんですよね。こう考えると、わたしたちのできることは限られてしまっており、もしくは高度に専門化されてしまっており、素人の出る幕じゃないなんてことがたくさんあります。また、忙しさもあるでしょう。わたしたちが早く歩けば歩くほど、車で移動すればするほど、出会うことも少なくなると言ってもいいのではないでしょうか。
でも、わたしたちが終末に備えて、こういった大変な人々をわざわざ探しに行くのもなんか変な話です。でも、このたとえ話に出てくる様々なサポートというのは、イエスの時代にとっては日常のことでした。周りで飢えや渇きで苦しむ人がいる、旅をするのは命がけ、追剥にあって着物を取られてしまうこともある。わたしたちの今の生活から見ると信じがたい事態です。もちろん、こういった事態に対して手助けした人たちも同じように貧しく、ちょっとだけましだということに過ぎなかったはずです。十分に有り余るものから与えたというわけではありません。それでもなお、彼らは“助け合った”、“互いに愛し合った”、“互いに大切にし合った”ということなのだと、わたしは思います。そして、彼らの特徴はそれを意識していないところです。王の言葉に「いつしましたっけ」という答えを返すということは、見返りを要求するどころか、日常過ぎて忘れてしまっているということです。
では、わたしたちの日常に置き換えてみるとどうでしょうか。ここまで悲惨な状況ではなくとも、例えば近所で最近見かけない人に声をかけるだとか、教会で最近見てない人にはがきを書いてみるとか、訪ねてみるとか、色々なことが考えられます。幼稚園の働きも、本来的には子どもと親を助けるためです。また、船員奉仕会の働きなんかまさにその通りで、あまり来客の無い船に訪ねて行くというのは、大切な働きです。これらはもちろん一例にすぎません。教会も本来はそうやって来たのだと思います。なまじ建物があるので、ここに来ることが中心になっていますが、各家に訪ねて行き、そこで礼拝を持つ、自分から出向いていくなんてことが多かったはずです。もちろん自分から出て行くのは大変だったりもするのですが“まず与える”、そして“リターンは考えない”ということが、教会が教会であるための第一歩のような気がしています。
11/16
11/16 持ち出しになる マタイ25:14~15,19~29
今日読まれた聖書の箇所は、本当に本当に超有名な箇所“タラントンのたとえ”です。先週のたとえもそうなのですが、今回も最後の僕の扱いに理不尽さを感じます。別になくしてしまったわけじゃないし、一円たりとも損をしているわけではありませんから、ほめられずとも叱られるいわれはありません。でもこの“主人”は僕を叱り、そのタラントンを取り上げるのです。
必ずしもそういう人ばかりではありませんが、わたしたちは基本的にリスクを避けようとします。教会なんかもそうですが、知らない人に来てほしいと言いながらも、そういう人が来るとなかなか自分から交わることができないなんてことは、色々な団体にもあることですよね。これは別に団体に限らず、新しいことに何かチャレンジするよりは、今までやってきたことを繰り返していった方がいいと考えることは、誰にでもあることだと思います。商売なんかでもそうですよね。できるだけ自らが損をしないように、そんな風に考えることってあるのではないでしょうか。
当たり前のことですが、人はみなそれぞれ違います。みんながウサイン・ボルトのように速く走れませんし、羽生善治さんのように将棋ができるわけでもありません。青色発光ダイオードの中村さんのようなこともできません。持っている能力は一人一人違います。そして、大事なのは“誰にどの能力があるかはやってみなくちゃわからない”ということなのです。
よく青年たちに話をするのですが、“人間には無数の可能性がある”ということです。やってみなくちゃわからないことはたくさんあります。自分のことに置き換えてみてもそうですね。わたしはホントに英語が嫌いで嫌いで、成績も悪かったですし、外国語を勉強する気にはなりませんでした。ところが、いざ神学校に行ってみるとわたしに一番合ったのは“ギリシャ語”だったのですね。本当にやってみるまで分からないことはたくさんあります。でももちろん賞味期限もありまして、例えばわたしに仮にプロ野球選手になるほどの能力が眠っていたとしても、今からじゃさすがにもう遅い。ただし、多くの能力、とくに日常的なものはやってみるまでわからない、たとえ失敗したとしても踏み出してみないとわからないことが多いのです。
今回のたとえ話で僕が叱られたのは「使わなかったこと」です。他の僕たちは預かったものを「使って」それ以上の聖歌を出したわけですが、使ったということは「一時的にでも」減ったということです。自分から持ち出しになったとしても、それを用いたということなのです。当然リスクはありますよね。でも、彼らはそうしたのです。
わたしたちには無数の能力が眠っています。多分一生知ることのない能力もあるのでしょう。でも一つ言えることは、それが見いだされるためには、使ってみるしかないということです。たとえ一時的には自分の持ち出しになったとしても、やってみるしかないということです。個人のこともそうですが、これは教会にも当てはまります。教会でもやってみるまで分からないことはたくさんあります。完璧な教会というものはありませんし、こうしなくてはならないということはありません。メンバーによっても時期によっても変わります。教会は主が来られるその時まで未完成であり続けるのです。そして教会は時代によって、場所によって変化し続けてきました。だからこそ、わたしは教会に様々なものを見出つつ、教会に眠るタラントンを用いつつ、たとえ一時的には自分の持ち出しであったとしてもみなさんと共に手をとりあって進んでいきたいと思うのです。
11/9
11/9 忘れ物 マタイ25:1~13
今日の十人のおとめのたとえ話を読んでいると、いつも少しの理不尽さを感じます。ともし火を持った十人のおとめたちですが、どちらも眠り込んでしまっているのに、予備の油を持っているかいなかったかでその運命は分かれます。「分けてください」という求めに応じなかったおとめたちは、“賢い”けれども“やさしくない”ようにも感じられ、どうなのだろうと思ってしまいます。
子どもの頃、わたしはよく忘れ物をしていました。教科書やノート、体操服、上履き、筆記用具・・・etc. 様々なものを忘れ、先生や親に怒られたり、恥をかいたりしていました。これは大人になってからもそんなに大して変わっているようには感じません。札幌で仕事があるのに肝心のUSBメモリを忘れて行ったり、手渡そうと思っていたものを玄関に置いて行ったり、動き出したら何をしようとしたか忘れたり、今でも忘れ物をよくしています。でも、子どものころとは決定的に違うことがあります。それは、動揺しなくなったことです。なぜなら、たいていのことは少しくらい何かを忘れても取り返しがつくからです。また、忘れても何とかなるように色々なところに予備のものを置いておいたり、予定などでしたら手帳に書いた上に手にも書いたり、メモを張ったり、アラームをセットしたり、わたしたちは忘れないように、もしくは忘れても何とかなるように色々な備えをしているはずです。多分、みんなそうだとわたしは思います。
十人のおとめたちは、油を用意しているか用意していないかに関わらず眠り込んでしまいます。つまり、忘れたり、油断したりすることは“誰にでも起こりうる”ということであるということです。誰もが日常的に何かを忘れている、しなくてはならない日常のことを忘れて過ぎてしまっているとも言えるのです。でも、そのことに気が付いているのかどうか、たとえ付け焼刃だとしても何とかしようとしているのかどうかというのは、一つの大きな違いだと思います。あくまで一つの例ですが、わたしも言ったことがあるとは思いますが、“毎日祈ること”“毎日聖書を読むこと”は、よく勧められることですよね。でも忘れてしまって、なかなか毎日の習慣にはならないのではないでしょうか。それを思い出した時“時間が違うからやめよう”と思うのか“とりあえずやってみるか”と思うのかは違います。心に備えがあるのなら、そこからでも取り返すことができるとわたしは思います。十人のおとめたちの用意していたともし火は日常の生活のなかの一つ一つのこと。そして予備の油は、それに対する心構え、取り返しがつくという思いです。神さまはわたしたちに無茶なことをさせようと思っているとは思いません。特別な修行がいるとは思いません。だからこそ日常の中で、聖なる言葉と祈りに触れながら、生きていきたいと思うのです。たとえそれが忘れがちになってしまうとしてもです。わたしたちも日々、自分たちの予備の油を点検しつつ、歩み続けたいものだと思うのです。
11/2
11/2 仕えるものになる マタイ23:1-12
今日の聖書の箇所を読むと大変ですね。学校の先生やら、医者やら弁護士やら政治家やら、日本の偉い人たちはあっという間にダメだしされてしまいます。牧師もそうでしょうね。正直自分はまだ「先生」と呼ばれることに何となく慣れない部分があります。卒業して最初のころは「先生」って呼ぶのやめてくださいよ、なんて言っていたこともありますが、考えてみればいつのころからかいちいち言うのをやめちゃいました。もう好きなように呼んでくれ、と思っていたりします。まぁさすがに「おい、お前」というのはあまりいい気分はしませんが。
「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」とイエスは今日の話を結んでいます。でも“仕える”ってどういうことでしょう。もちろん、昔の奴隷制度などでしたら、「仕える」と言えば主人の言うことを何でも聞くことになるわけですが、さすがにそれはちょっと違いますよね。
辞書で「仕える」をひいてみますと、「目上の人のそばにいて、その人に奉仕する」とあります。「仕える」相手というのは、自分より上の人だということなんですね。でも、聖書における「仕える」「奉仕する」という言葉は、「貧しい人々に仕える」などの使い方からわかるように、どちらかというと自分よりも下の人(というと語弊がありますが)、自分より困っている人たちに対して使うことが多いのです。日本語の「仕える」という言葉の使い方からすると、ちょっとイレギュラーなんです。矛盾があると言ってもいいでしょう。イエス・キリストは神の子です。だからこそ「イエスに仕える」という言い方が成り立つわけです。でもそのイエスは地上でどうしていたのかを考えると、聖書における「仕える」という言葉の矛盾もわかってきます。
イエス・キリストの地上での生涯は、周りの人に仕えることに始まり、仕えることに終わっています。イエスも時々「先生」と呼ばれていますが、例えば王や上流階級の人たちのところではなく、自分の育ったガリラヤ周辺の貧しい人々のところや、困っている人のところへ行っています。そしてそこで人々を癒し、励まし、また語りかけていました。大都会エルサレムに出たのは生涯の終わりのほんの短い期間だけ。福音書に記されているイエスの姿は、仕え続けた姿でした。最後はすべての人々の罪のため十字架にかかるという、ある意味で究極の奉仕を成し遂げられたのです。イエスは神の子ですから、それらを奇跡的な仕方で回避することは恐らくできたでしょう。しかし「仕える」ということが、人々にとって大切であることを示すためにも、その力をお使いにならなかったのではないでしょうか。
では、わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。イエスのように行き着くところまで行くことはできなさそうです。しかし、その一部分だけでも担うことは、真似してみることはできるはずです。聖書における「仕える」という言葉の意味は、自分から見て助けが必要な人々に手を差し伸べるということです。そういう人をわざわざ探すことはありません。なぜなら、わたしたちの仕えるべき人は、実は身近にたくさんいるからです。その人は自分の家族であり、自分の近所の人であり、教会の人であり、会社の人であり、わたしたちが日常で会う人々だからです。みんなで仕える者でありたいと思うのです。
10/26
10/26 自分を愛していますか マタイ22:34~46
「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とイエスが語った『心を筑尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい』と『隣人を自分のように愛しなさい』の二つの掟。二つまとめると“愛神愛隣”となるでしょうか。でもこの掟、簡単なように聞こえますが、難しい、とても難しいことなのではないかと思っています。
“自己愛”なんて言葉もあるように、“自分を愛すること”というのは簡単で、“他人を愛すること(隣人を愛すること)”というのは難しいと、思われる方も多いと思います。でも、本当にそうでしょうか。教会の、キリスト教の言う”愛する”というのは、”大切にする”“敬意を払う”ということと通じています。こう聞くとますます簡単に聞こえるかもしれません。「現代は“利己的”な人が増えて、他人のことを考えない」と言われていたりもするのですが、自分のことだけを考えるというのが本当に“利己的”であり、“自分を愛している”ことなのかと考えると疑問に思うのです。
当たり前のことですが、みなさん自分の気分がいいというのはいいことだと思いますよね。自分が気分よく一日を終えられたらいいと思いますよね。微妙な言い方になりますが、旦那がぶつぶつ言わなきゃいいなぁとか、かみさんが小言いわなきゃいいなぁとか思ったりしたことはありませんか。これは例えば仕事場でしたら、上司が機嫌よければいいなぁとか、不機嫌な客に当たらなきゃいいなぁとか、幼稚園でしたら子どもがケンカしなきゃいいなぁとか先生たちが仲良ければいいんだけどとか、そんな感じになるでしょうか。実に、わたしたちが一日を気分よく終えるためには、自分に関わる周りの人たちの気分もよくないと上手くいかないのです。しかも、周りの人たちみんなが上機嫌だったとしても、突然事故にあったり、渋滞に巻き込まれたりと、何の落ち度もなく降りかかってくるトラブルだってあります。誰かの振る舞いを見ていやな気分になることもあるでしょう。もし仮に“わたしが今日一日楽しく過ごす”ことができるようになりたいと思えば、どうしてもその意識というのは自分以外の人に向かわざるを得ないわけですね。だって、自分が終始不機嫌な顔をしていたら、周りの人の気分が悪くなってしまいますから、いつまでも不機嫌でいるわけにはいかないからです。“自分のことしか考えない”というのは、ちっとも“利己的”じゃないんです。というより、本来の“利己的”というのは、自分も含めた周りの人の目を向けることなんです。自分で自分のことを大切にするためには、周りの人を大切にしないとできない。自分を愛するためには他の人を大切にしないとできないのです。“隣人”の範囲についてはイエスが残した「よきサマリア人」のたとえ話をひけば十分でしょう。
自分を愛するというのは実に難しいことだと思います。でも大丈夫。わたしたちには、そのことをいつも気づかせてくれるイエスが共にいてくれるからです。そして、周りの人を大切にすることこそが、自分を愛することに繋がっているからなのです。
10/19
10/19 YesでもNoでもなく マタイ22:15~22
先ほど読まれた皇帝への税金への話は、信徒でなくても聞いたことがあるくらい有名なお話でしょう。皇帝への税金についての問答を仕掛けたファリサイ派の人々は、「Yesと答えてもNoと答えてもイエスを責めることのできる質問」を用いてイエスを罠にはめようとします。しかし、イエスはそんな彼らの思惑を飛び越えた回答をして難を逃れる、そんなお話です。
「Yesと答えてもNoと答えても困る質問」というのは、わたしたちの周りにあふれています。教会でもあることですね。「牧師は誰にでも分け隔てなく接しなければならない」という質問にも、「牧師は困っている人に対して深く関わらなくてはならない」という質問にも、単純に考えればYesと答えることでしょう。しかし、人への関わり方を問われた時、どちらかの質問への答えを満たせなくなることはわかりきっています。結局正しい答えは沈黙しかありません。イエスのように、それを飛び越える答えを見いだせればいいのですが、なかなかそこまで知恵が回らないものです。今、教会の例を挙げたわけですけれども、他にもたくさんありますね。「仕事とわたしとどっちが大事なの」から、幼稚園での「子ども一人としっかり向き合うこと」と「全体に平等に接すること」との兼ね合いまで、わたしたちはどちらに転んでも不正解になるような質問と出会ってきたのではないでしょうか。
今日のたとえ話の中で大切なのは、”ファリサイ派の人々は、イエスの言葉じりをとらえて罠にかけようと思っていた”ということです。つまり「どちらに転んでも間違いになる、もしくは責められる可能性のある質問」を発してくる相手というのは、その当人が意識しているか、していないかに関わらず、自分に対して“悪意がある”ということです。
どちらに転んでも間違いである質問に向かいあった時、イエスのように意図を察して飛び越えられなければ、沈黙するしかありません。質問をした相手は、こちらが沈黙することを狙ってその質問をしているからです。しかし、心配することはありません。どちらに転んでも間違いである質問の答えというのは、どちらかを選ぶことにあるわけではないからです。答えはその質問の間に、YesでもNoでもないところにあります。というよりも、質問それ自体には大した意味はありません。イエスが答えたように、そのどちらでもない答えを見出すことが必要です。その問いが、自分自身に向けられるような状況においては、どちらかにはっきり決めずにやることこそが、その人が誠実な人間であることを担保します。なぜなら、その時々によって状況は様々に変化し、全く同じ状況に陥ることはほとんどないからです。むしろ、真剣にその状況について考えて行動することこそが大事になります。イエスは悪意を飛び越えました。わたしたちには、そのイエスがいつもついています。悪意に飲み込まれず、飛び越えて行けるような答えを、わたしたちが真剣に状況に向き合うのならば、イエスはわたしたちの前に示してくださる、そう信じて日々の様々なことと向き合っていきたいと思います。
10/12
10/12 心の礼服 マタイ22:1~14
今日読まれた「婚宴のたとえ話」は、わたしたちの感覚からすると少し不思議な話です。招かれていた人々が、様々な理由をつけて来ず、誰でも彼でも見かけた人を連れてきて婚宴を行った、というところまではいいのですが、なぜ礼服を着てない人が外に放り出されてしまうのか、ちょっと理解に苦しみます。わたしたちだって、結婚式に招かれたらきちんと準備をして行くものですが、もし通りを歩いていて集めて来られたのなら“礼服”の準備なんて普通持ち歩いていませんよね。着ているその服を纏って行くしかありません。単純にこれが“服装”の問題なら、おそらく多くの人がクリアできない問題でしょう。でも放り出されたのは一人でした。ということは、単純に“服装”の問題だけではなさそうです。
普段の生活の中でも、わたしたちはあまり気になっていないだけで、服装を気にしなくてはいけない場面が多いのではないでしょうか。遊びに行くときならともかく、会社には大体スーツなどの格好で行きますし、部屋着で外をうろうろする人はあまりいません。ある程度、自分が身を置く場所にふさわしい服装をしようと、わたしたちは注意を払っています。どんな服装でもいいですよ、とは言っても、礼拝に露出度の高い恰好で来られるとちょっと引きます。時に“心があればいいんだ”ということもありますが、ものには限度ってものがあるだろうと言いたくなることもありますよね。ある意味でその場における“服装”というのは、その場に対してどういう心構えでいるかということをわかりやすく示す指標になっているのだと思います。服装に関しては、初めて礼拝に来られる方によく質問されます。基本的には常識的な格好であれば大丈夫ですよ、と答えることにしていますけれども、場所に対する心構えと考えればわかりやすいのだと思います。
“服装”という形だけにとらわれれば、“場に対する心構え”が見失われてしまうこともあります。その逆に“場に対する心構え”だけがあればいいのだ、と考えれば“服装”という形はどこかに行ってしまうでしょう。このたとえ話の婚宴のことで言うならば、それなりの格好をしていて、婚宴を祝おうという気持ち、つまり「心の礼服」を身にまとっていたのかどうか、ということが、今日のたとえ話の大事な部分であると、わたしは思います。
わたしたちの今ここにいる教会であっても同じことでしょう。なるほど、礼拝や様々な習慣など、大切に守らなくてはいけないものとそのやり方があることでしょう。しかし、それだけに囚われるのなら、その場に対する心の在り方=心の礼服の持ち方を見失ってしまうのです。今、教会はどうでしょうか。様々な見方があるでしょう。しかし、わたしたちはいつも、目では見えない“心の礼服”を纏うことを大切にしていきたいと思うのです。
10/5
10/5 隅の親石、路傍の石 マタイ21:33~45
今日のたとえ話はまたぶどう畑の話。農夫たちが主人の送った僕たちを殺し続け、ついには息子まで殺してしまうという、何となく後味の悪いお話です。このたとえ話がユダヤの祭司長たちやファリサイ派の人々に向けられているのははっきりしています。でも、それでは話が終わってしまいますので、少し詳しく見ていくと見えてくるものもあります。
畑でもそうですが、収穫をするのは野菜でも果物でも“実った”後ですよね。“収穫の時”が来てから刈り取り、実をもぎ取ります。ところがこの主人は“収穫の時が近づいた”時にもう来てしまっているのです。実は少し早いのですね。
現代の農業では例えば収穫後も追熟が可能なものを早めに収穫し、流通に乗せるということが普通に行われています。トマトなんかはその典型でしょう。まだ赤みが少なく、少し青い状態で収穫し、出荷されます。そうすると流通の途中で熟してきて、店頭に並ぶ頃には赤くなっているというわけです。ただもちろん、赤くなるまで収穫を待ったトマトに味は敵いません。赤い状態で出荷すると日持ちがせず、店頭に並ぶ頃には柔らかくなってしまうがための知恵でもあるのですが、少々考えてしまいます。でも、イエスの時代にまさかそんなことがあったわけはありませんから、この主人の振る舞いは奇妙に映ります。
農夫たちの望みは“自分たちのために働きたい”“働いたもの(ぶどうの収穫)を自分たちのものにしたい”ということだったのでしょう。自分たちの働いた結晶が取り上げられてしまう。他に用いられてしまうということを、農夫たちはよしとはしませんでした。永続的にぶどう園の収穫を自分たちのものにしようとしたのです。自分たちで働いた対価を自分たちで手に入れようとしたのです。しかし、自分の働く場所がなければその収穫も得られなかったことを、彼らは忘れてしまっています。
確かに、自分が様々な点で苦労してきた仕事や労力に対して見合う対価を得たいというのは、誰もが持っている望みだと思います。自分が働いた分だけ、苦労した分だけきちんと評価されたい。しかし現実はどうでしょう。今まで、100%自分の望む対価や評価を得られ続けていた人っているでしょうか。わたしはいないと思います。必ずどこかで“やって損したなぁ”と思ったり、“なんでこんなに頑張ってるんだろう”と思ったりしたときがあるのではないでしょうか。残念ながら誰もが正当な評価をいつも、すぐに得られることは決してないというのが、この短い人生の中でのわたしの思いです。なぜなら、誰もがこのたとえの農夫たちであり、誰もが放り出される息子や僕であるからです。そして、用いられる隅の親石でもあるからです。
ぶどう園の農夫たちにとって、主人の息子は上前を撥ねに来る者であり、外に放り出されるべきものでありました。しかし、彼らにとっては捨てるべきものであった息子が、僕が別の場面では評価され、隅の親石となる。ある場所では働けなくとも別の場所で用いられる、重要な役割を果たすということができることはあります。その用いられ方はその大工の仕事しだいですが、さらにダメでもまた別の場所で用いられる可能性というのは捨てされられることはありません。なぜなら、捨てられた石が用いられなかった場所を作ったのも、用いられる場所を作ったのもまた神さまだからです。そして、神さまは、試行錯誤しながらも、名もなき路傍の石であるわたしたちを、様々な場所での隅の親石として用いようとしておられるはずだからです。わたしたち一人一人が、様々な思いもかけない場所で用いられることがあることを忘れず、日々の歩みを続けたいと思います。