福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
9/28
9/28 自由な心で マタイ21:28~32
兄と弟のたとえ話、拒否したけれども考え直した兄と、承諾したけれども実行しなかった弟が対比されています。今日読まれた福音書の出来事の起こった場所は、これまでのガリラヤなどの地方ではなく、エルサレムの、しかも神殿の境内に移っています。イエスはこのたとえ話をわざわざエルサレムで行ったのです。つまり、イエスがこのたとえ話を聞かせたかった相手は、エルサレムにいる人たちであり、特に律法学者やパリサイ派の人たちであったのでしょう。
“最終的にどうしたのか”というのは今日の話の大切な部分です。最終的にぶどう園で働いた兄こそが「父親の望みどおりにした」と言われている通りです。そして、それと同時に大切なのは“考え直した”という部分でしょう。
わたしたちは普段何かをするとき、計画を立てて計画通りにすることもありますが、途中で“やっぱりこうしよう”と考えて、今までと考えを変えることって、ありますよね。例えば旅行に行っている時、予定になかったところから回ってみたり、メニューを考えてから買い物に行ったけれども、買い物をしているうちにメニューを変更してみたり、ということって、あることだと思います。仕事でもありますよね。わたしなんかだと、訪問に行く予定はなかったけど、今日はちょっと通りかかったので○○さんところに寄ってみたとか、思いついて電話をかけてみたなんてことがあります。必ずしも、わたしたちはいつも、事前に決めた通りにはしていないのですね。ただまぁ、もちろん、いつも予定をころころ変えて、ドタキャンしまくる、ってなってしまったら困りますし、わたしたちはそういったことには批判的です。“言うことがコロコロ変わる人は信用できない”と、思う人も多いと思います。わたしもそうです。
それでも様々なことで“考え直す”ことができるというのは、心の余裕があるからできることなのだと、わたしは思っています。自分の決めたことですが、様々に思い巡らすためには、時間と心の余裕が必要です。しかし、忙しい生活の中で、ついついそのことを忘れてしまうことも多いでしょう。また、“考え直す”ということは、“予定が狂う”ことでもありますから、頻繁にそれをするのはよくない、とブレーキをかけているかもしれません。ただし、気をつけなくてはいけないのは“考え直す”ことは、必ずしもいい方向に向かうのではないということです。弟の方もある意味で“考え直して”います。「行く」と言っていたけど「やっぱりやーめた」ということだからです。
“考え直す”ということは、今自分のやっていることも含めて、それが絶対的に正しいという見方を捨てるということです。それはどんな立場であっても同じことです。こういう話をすると、人を責める材料に使う人がいるんですが、それはいけません。人を責める時、責める人は自分を“絶対に正しい”ところに置いているからです。誰もが同じくらい正しくて、同じくらい正しくありません。そこは一つ、大事なところであると思います。絶対に正しいのは神さまだけですが、わたしたちは、その正しさを簡単に理解できるわけではありません。そんな中で“考え直す”ということは、自由な心を手に入れるということです。自分の行動すらも自由に検討することができるということ、そういった余裕を持つことは、わたしたちにとって大切なことです。
これは簡単なことではありません。しかし、わたしたちには神の子イエス・キリストがそばについています。少しだけ、心に余裕を空けておくことができるなら、必ずイエスの声が聞こえるでしょう。その声に耳を澄ましていきたいと思います。
9/21
9/21 理不尽なこと マタイ20:1~16
先ほど読まれた福音書の「ぶどう園と農夫のたとえ」。この話を初めて聞いたとき、どうしても納得がいかなかったことがあります。もし時給制の労働でしたら、この農園の主人のやっていることはとってもおかしなことですよね。長く働いた人と、短く働いた人が同じ報酬を受け取るわけですから。
聖書についてのいくつかの本を読みますと、様々な解説がしてあります。ある本ではこれを「聖なる不公平」だと紹介していました。後から働きに来た人たちはそれぞれの事情があって、多くの恵みを受けたのであって、神さまは大きな目で見てバランスを取っていたのだというような説明です。また、こんな説明もありました。神はそれぞれと1デナリオンの約束をしたのだから、約束を違えたのではなく、文句を言うのは筋違いだ、というのです。さらに、”神は実はわたしたちに平等である。わたしたちが気づかないだけで“という言い方も聞いたことがあります。聖書には様々な説明があり、それぞれの説明はきちんとしたものだと思います。でもやはり、現代の日本の中でこの聖書の箇所を考えた時、何となくですが、筋が通らない話のような気がしてきます。
今月の11日で、東日本大震災から3年半が経過しています。わたしたちの生活は、おそらく震災当時の状態から抜けて、日常生活に戻っているのではないかと思います。それよりも最近におきた出来事の話のほうが気になるものですよね。この間の豪雨なんかそうですよね。しかし、ひとたび東北の方に目を転じてみれば、まだまだ震災の爪痕は大きく残っています。福島ではまだまだ帰宅することができない人々がおり、放射線の線量の高い地域では外に出ることもままなりません。また岩手・宮城・福島の三県には、まだまだ多くの仮設住宅が残っており、復興住宅の建設の目処もたっていないようです。物流などは回復しても、港や鉄道などのインフラも、どうするかすら決まっていない部分もあります。ニュースに取り上げられることも減りましたよね。かといって、他の地域で何も起こっていないわけではありません。広島での豪雨や、先日の大雨は記憶に新しいですが、今、わたしたちが知っているだけでも多くのことがありました。これらの災害や戦争などのニュースを聞いていて、わたしは、本当に神さまは平等なんだろうかと思うのです。とても不公平じゃないかと思うのです。何か災害や戦争の起こった地域の人たちは、神さまの罰を受けなくてはならない罪深い人たちの住んでいるところでしょうか・・・まさかね。
もしできることならば、すべての災害にあった人々に、公平に支援をしたいと思います。でも、神ならぬわたしの手と目では、自分の知っている範囲の、ごくごく限られた人にしか支援はできません。これは教会でも、幼稚園でも、船員奉仕会でもそうだと思います。ではどうしましょうか。理想的な状況にならないなら、動きを止めましょうか。それとも不公平でありながらも、自分の手の届く範囲のことに力を貸すほうを選ぶでしょうか。
このように考えるとき、このたとえ話の本質が見えてくるのではないでしょうか。世界というのは残念ながら不公平であり、わたしたちもまた、不公平にしかふるまえません。またどんな制度を作っても、全員に満足いくような世界は創れないでしょう。「しかし、それでもわたしたちには行動することができます。来週はバザーです。それは自分たちのためでもあり、他の誰かのための日でもあります。そんなことを少しずつ意識しながら、準備を進めてまいりましょう。
9/14
9/14 恵みの実感 マタイ18:21~35
今日の福音書は「仲間を赦さない家来のたとえ」です。王から借金を赦してもらった家来が、自分の仲間の借金を赦さなかったというお話。イエスは「天の国」のこととしてこのたとえを語っています。単純にこのたとえの登場人物を当てはめてみますと、王は神さまのこと、家来というのはわたしたちのこと、そして仲間もそうですね。という感じになるでしょうか。つまり、神さまはわたしたちの借金を(罪を)、祈りによって帳消しにしてくださっているけれども、その恵みを受けながらも、わたしたち自身は心が狭くなっていないだろうか、という問いかけになっているのです。
わたしたちは“すでに神さまから多くの恵みを受けている”というのが、この話の前提になっているのですが、わたしたち一人一人は“もうたくさん恵みを受けている”と実感できているでしょうか。自分のことを振り返ってみますと、実はそうでもないんじゃないかな、と最近思うのです。もちろん“恵みを受けている”ということを理論的には納得しているんです。でも、何となく実感が伴わない、そんな気持ち、どこかにありませんか。よく、信仰関係の本を読むと「わたしたちは罪人であり、すでに多くの罪を赦されているのだ」という書き方をしていることがありますが、これに全面的に納得できるかというと、そうではありませんよね。むしろ“わたしはまっとうに生きてきた”という思いの方が強くないでしょうか。
先日、おもしろいアンケートがありました。それは「“むかし悪かった人が今は更生して、社会で働いている”ということが評価されるのっておかしいと思いませんか」というものです。今までずっとまっとうに生きてきた人よりも、場合によっては“根性がある”と評価されるのってどうなんだろう、というものでしたが、しばし考え込んでしまいました。わたしは別に大してまっとうに生きてきたわけでもありませんし、道はたくさん踏み外しております。背負い込んでいる十字架はたくさんあるので、その意味では「すでに多くの罪を赦されている」という実感を持つことはできるのかもしれません。でも、考えてみれば、道を大して踏み外さずに、まっとうに生きてきた人って、それだけですごいと思うのです。
「わたしはすでに多くの恵みを受けている」という実感というのは、人にとって持ちづらいものであるのかもしれません。イエスのたとえ話も多くのものが「わたしたちはすでに恵みを受けている」という話で占められているからです。同じ話を繰り返すのは、それが大事なことだからであり、何回も言わなくてはいけないのは、それがなかなか理解されないからだとわたしは思います。「わたしたちはすでに多くの恵みを受けている」という実感のヒントは、わたしたちの周りに多く転がっています。野の草や花もそうだし、今ここに生きていることもそうでしょう。命が与えられたからこそ感じることができるものが多く存在しています。でも、わたしたちはすぐにそれを忘れてしまって、「わたしは損をしている」とか「あれがほしい」とか、そういう考えになってしまいます。別に物理的なものだけではなくて“もっと健康で”とか“もっとこうなってほしい”というものも含みます。
これは誰にでもあることですから、仕方がありません。ただし、わたしたちには立ち返るところがあります。それは聖書であり、信仰を共にする仲間たちであります。そして、祈りによって多くのことを受け止めてくださる神さまです。今日は三教会の仲間が久しぶりに集う時が与えられました。こうやって何度も“わたしたちは恵みを受けている身である”というところに立ち返りつつ、これからの日々も過ごしていきたいと思うのです。
9/7
9/7 二人または三人が マタイ18:15~20
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」という力強い言葉で、今週の福音書は締めくくられています。“二人”でも“三人”でもなく、“二人または三人”というところがまたいいですよね。絶対に二人じゃなくてはいけないわけでもなくて、さりとて必ずしも三人集まらなくてもよい。そんな少しのあいまいさを残している言葉に力づけられて、わたしたちの教会も立っています。教会委員の人数は3名以上と決められていますが、これは“最低でも教会に二人または三人がいることが必要である”と考えられているところから来ています。
聖公会の教会というのは、一人では何もできません。牧師であろうと信徒であろうと同じです。今行っている聖餐式も、牧師一人で行うことができません。必ず途中で終わるようになっています。聖餐式の始まりの言葉は「主イエス・キリストよ、おいでください」です。“二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」というイエスの言葉を考えるなら、司祭一人で行うのではなく、誰かと共に行うことが大切であることが見えてきます。また、教会の中で活動をするときも、一人でやっていたのでは“教会としての働き”にはなりません。教会の中で誰かが勝手にやっていること、になってしまいます。もちろん、一人でやっていることに、だんだん人が加わり、大きな活動になっていくこともあるでしょう。しかし、そうではないこともままあることだと思います。逆に、一人だけの努力で何とかできるものではないというのも、教会に言えることかもしれません。
わたしはよく、説教の時に「わたしたちは」という言葉づかいをします。もちろん「みなさん」と呼びかけることもありますが、わたしの語る言葉は“自分も含めて“呼びかける言葉だと思うので、なるべく「わたしたち」という言葉づかいをするようにしています。この教会では割と長く牧師が定着しています。でも教会によっては牧師がころころ変わるので、牧師も教会の一員であるという実感が持てないこともあるようです。それでもやはり、教会は牧師も含めて教会なのです。
教会の始まりは、どの教会でも“二人または三人”でしたが、それがだんだん大きくなってきました。苫小牧聖ルカ教会は、幼稚園を作り、シーフェアラーズセンターを立ち上げてきました。もちろん、それぞれ別の法人ではあるでしょう。しかし、教会としての考え方からすると、やはりそれらのすべてのものが“苫小牧聖ルカ教会”の中に含まれると、わたしは思います。3つの施設のそれぞれが独立しながらも、“聖ルカ”の名のもとに緩やかにつながっていることが、とても大切なことだと思います。“二つまたは三つの”施設が、ともに心を合わせて求めることができるのならば、わたしたちは神さまの御心のままに働くことができるでしょう。そのためには、わたしたち一人一人が、たとえその活動に必ずしも関わりがなくとも、関心を寄せ続けることが必要だと思います。例えば、幼稚園の職員の名前を全員言えるでしょうか。ボランティアたちの名前はわかりますか。もちろん必ずしも全員わからなくても仕方がないのですが、活動に関心を持つことはできます。少し自身を振り返り、これからの“祈りの課題”としていきたいと思うのです。
8/31
8/31 自分の思いよりも先に マタイ16:21~35
先週は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と言われたペトロですが、今週はいきなりイエスに怒られてしまっています。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と言われてしまいます。
ペトロにとって、イエスがいなくなってしまうのは、あってはならないことでした。自分の大事な先生であり、生ける神の子であり、メシア=救い主=キリストであるイエスが、いなくなってしまう。ペトロたちも普通のユダヤ人ですから、メシア(救い主)と言えば、自分たちの状況を変えてくれる力強い指導者というイメージからは逃れられません。だからこそ、そのイメージと全く違うこと“多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている”という話を聞いたときに、受け入れることができませんでした。自分たちにとっての救い主というイメージ=彼らの持っていた“期待”は、相当大きなものだったのでしょう。
ペトロという弟子は、よく“一番弟子”という言われ方をしますが、何というかよくイエスに怒られています。 “一番弟子”というと、“よくできる”とか“師匠に一番近い”というイメージがありますが、彼は“人間味にあふれている”と言えば聞こえはいいですが、ある意味で“出来が悪い”とも言えますね。しかし、最後の最後までイエスは弟子をやめさせたり、破門したりすることはなく、十字架の時逃げ去った弟子たちのところに、復活してすぐに姿を現しさえしているのです。
「サタン、引き下がれ」というイエスの言葉は、とても重いですよね。しかし、ペトロたち弟子たちが、そのまま破門されたり、別のところで謹慎させられたわけでもなく、次の話にはそのまま登場していることから考えると、この「引き下がれ」という言葉の意味が見えてきます。それは「神のことを思わず、人間のことを思っている」という言葉からもわかるように、“自分の思い、考えだけを優先してはいけない”ということです。神より、イエスより前に立つのではなく、後ろに従うこと。“わたしがこう思うから、みんなは従いなさい”ということではなく、神の御心がどこにあるのかを考える・見る姿勢です。
先週は、自分にとってイエスはどのようにして救い主なのかということを、少し考えてみるといいでしょう、というお話をしました。それはあくまで、自分にとってです。自分にとって“どんな方か”、“どんな方であることを自分は求めているのか”をよく知った上で、それを周りとも比べてみること。あるいは“一旦置いておく”こと。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というイエスの言葉は、そのことをわたしたちに求めているのではないでしょうか。自分の思うようにしたいと思うのなら、ただ“自分の思い”だけを言い募るのではなく、周りも含めて考えてみることが必要です。自分だけがいいのではなく、自分も含めて周りの人たちが元気であること、よくなること、気分が良いこと。その方が多くの人々が生きやすい状態になると、わたしは思います。
ペトロも、自分の思い、自分の持っている救い主観を明らかにしましたが、それを飲み込んで、あるいは抱いたまま、イエスに従いました。自分の思いよりも先に、神さまの御心を行い、それを伝えることを優先するようになっていったのです。もちろん、ペトロだって、簡単にできたわけではありません。行きつ戻りつしながら、大ポカもしながら、神さまの御心を行おうと努めたのです。“一番弟子”ですらそうなのですから、わたしたちが簡単にできるものではないでしょう。しかしそれでも、自分の思いよりも先に神さまの御心を考えよう、周りの人のことも考えようとする姿勢を、求め続けていきたいと思うのです。
8/24
8/24 わたしにとって マタイ16:13~21
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」というイエスの問いに、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。イエス・キリストという呼び名が、そのことを表しているのは皆さんご存知ですよね。メシアとはヘブライ語で「救い主」のこと。それをギリシャ語で言うと「キリスト」になります。たまにイエスが名前でキリストが苗字だと思ってる人もいるんですが、イエス・キリストというのは、称号であり「救い主イエス」と言っていることになります。礼拝の中でもイエス・キリストと呼ぶところがありますが、そう呼ぶだけで、イエスが救い主であると口に出していることになるんですね。
今日の福音書の箇所を改めて考えてみましょう。イエスが救い主であることは、今ここにいるわたしたちにとっては、疑う余地のないことでしょう。では、「救い主」「キリスト」「メシア」の中身について、みなさんはどんなイメージを持っているでしょうか。
イエスが「メシア」「キリスト」であると聞かされた時、当時のユダヤの人たちが明確に抱いたであろうイメージははっきりしています。それは、「メシア」はユダヤの民を虐げられているところから救ってくれる存在であり、ローマ帝国という異邦人に支配されている状況から解放してくれる(独立させてくれる)存在であり、公正に裁きを行う存在でありました。ローマ帝国の支配下から独立し、自分たちの状況を変えてくれる、そんな強い「救い主」を求めていたのです。
ところが、その期待は裏切られました。イエスは逮捕され、裁判にかけられ、十字架につけられます。イエスに期待し、歓呼の声をもって迎えた人々は、「十字架につけろ」と叫んだのです。しかし、十字架によって、イエスはすべての人の救いの道を開き、「イエス・キリスト」になったのです。
それでは、わたしたち一人ひとりにとっての「イエス・キリスト」は、どんな方なのでしょうか。「救い主」に対して、どんなイメージがあるでしょうか。じっくり考えてみたことがありますか。
自分の普段の悩み事を聞いてくれる方でしょうか。それとも「自分で頑張りなさい」と励ましてくれる方でしょうか。それとも上手くいかない状況を劇的に変えてくれる方でしょうか。自分の行いを正してくれる方でしょうか。他にもみなさん一人一人が、それぞれのイエスの姿をイメージしていることと思います。
実はこの問いに正解はありません。また、そのイメージは固定したものではなくて、月日と共に、また置かれた状況によって変わっていくものです。じゃあ、じっくり考えても無駄かというと、そうでもありません。なぜならわたしたちがイエスについて静かに思い巡らす時、聖霊の働きがそこにあるからです。答えたペトロに対してイエスが返した言葉「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」がそのヒントです。わたしたちがイエスのことを思いめぐらす時、わたしたちのところに神さまは聖霊を遣わして、わたしたちが思い巡らす時の助けとしてくださいます。自分の力だけでなく、神の助けによって、わたしたちはイエスについて語ることができます。ですから、思いついた時で結構です。イエスというのはわたしにとってどういう方なのか。わたしにとってメシアとは何なのか。しばし静かに考える時間を持ってください。そのことが、わたしたちの信仰を深めるきっかけになるとわたしは思います。静かに思い巡らす時を大切にしたいと思います。
8/17
8/17 これはわたしの仕事じゃない マタイ15:21~28
イエスは“優しい”人である、というのは、わたしたちの多くが思っていることです。例えば幼稚園で子どもにお話しするときも、優しい優しいイエスさまについて多くお話しています。しかし、今日の福音書を読んでみると、慈愛に満ちた、心の広いイエスさまとは裏腹に、狭量で、自分の身内のことしか考えていないイエスさまの姿が浮かび上がってきます。自分はイスラエルの家の失われた羊=イスラエルの人々のところにしか遣わされていない、だからあなたを助けることはしない、と言うのです。イエスさまは、誰が話しけても優しく答えてくださるイメージでしたが、これはびっくりしてしまいます。
わたしたちは普段、仕事や家事など、様々なことをしているわけですが、たまに“なんで自分がここまでやらなきゃいけないんだろう”という気持ちにとらわれることって、ありませんか。自分のことならいざ知らず、他の人のためにしているとき、そしてそれが上手くいかなかったりする時、「別にこれは、わたしがしなくてもいいんじゃないか」と、考えるときがあります。そう考えながらも、結局やることになったり、はたまた「これはわたしの仕事じゃありません」と言って断ってみたりと、わたしたちは様々に対処して、またそれに対する応答もあって、わたしたちは学び、そして成長していきます。
先ほど読まれたイエスさまの対応を見ていると、もしかして、イエスさまもわたしたちと同じだったかもしれないと思います。なぜなら、イエス・キリストは神の子として完成されていると同時に、人間として育ち、成長してきました。最初はもしかしたら、本当に限られた人たちのことを考えていたのかもしれません。それでも、様々な人と出会い、成長していく過程で、対象がどんどん広がっていき、やがてはすべての人を救うことになったのではないかと、わたしは思います。その意味で、この物語と、そしてイエスの出会った“カナンの女性”は、かなり大きな転換点だったのだろうと思います。
教会に限らず、家庭でもそうですが、どうしてもきっちり“誰の仕事”かわからないけどやらなきゃいけない仕事というのがあるものです。例えばその辺に落ちているごみを拾うことや、汚れが目についたものをさっと取り替えること、期限の切れた掲示物に気が付いたら片付けておくことなど、わたしたちの生活の中の“ノイズ”を消すような、自分がやらなくてもいい仕事なんだけど、誰かがやらなきゃいけないようなことです。みんなが「これはわたしの仕事じゃない」と言っていると、最終的には動かなくなってしまう、そんな仕事です。自分も反省するところですが、目についたとき、一瞬“あ”と思っても、すぐに“まぁいいか、誰かがやるだろう”と思い、見過ごしてしまうことがよくあります。多くの人が、何となく気になった時にすぐに対処すれば大丈夫なことも、後々になれば大事になっちゃうことって、ありませんか。もちろん、あれもこれもと引き受けて、結局できなければ意味がないですが、そういうことが言いたいのではありません。問題ないように見えるけど“なんか気になる”と感じるとき、もしかしたらそれが大きな転換点になるかもしれません。わたしたちはイエスさまのように、カナンの女性に触発されて、イスラエルだけのことから、全人類を背負うようなことはできません。やろうとしてもつぶれてしまうでしょう。しかし、「これはわたしの仕事じゃない」と思っていることの、ちょっとずつでも一人一人が受け入れていくならば、ほんのちょっとずつだけ、みんなが優しい世界になるのではないかと思います。ごみを拾いましょう。なんか気になったら声をかけましょう。自分でできなさそうなら、できそうな誰かにパスしましょう。ほんの些細なことですが、それがわたしたちの信仰を支えていくのではないかと思います。
8/10
8/10 助けを求める声 マタイ14:22~33
強風の中、湖の上に取り残され、進むも引くもできずに恐れる弟子たち。そこにイエスがやってくる。最初は恐怖したものの、イエスだとわかればこれほど心強いことはありません。さらに、今日読まれたマタイによる福音書の物語では、ペトロが湖の上に歩みだします。この物語は、他にマルコとヨハネの福音書にありますが、ペトロが湖の上を歩こうとするのは、今日読まれた場所だけです。マタイは、ペトロが湖の上に歩みだした話で、何を伝えたかったのでしょうか。
日常でもそうですが、新しいことを始めようとするには、それなりのエネルギーがいります。そして、自分一人ですることならいいのですが、誰かと一緒に何かを始める、例えば仕事等でのプロジェクトの場合は、もっと大変ですよね。誰か一人の号令だけでやっていければいいのですが、たいていの場合は失速してしまいます。会社に入社して、最初に仕事を任されたとき、決断に迷いますよね。でも、選ばなくてはいけなくなるので、選び、とりあえず進んでみます。もちろん失敗することもあります。それでもそういったことを繰り返してきて、わたしたちは今ここに座っているわけです。これは別に会社なんかに限らず、誰と話すのかとか、受験でどこを受けるとか、子どもに対してであればどこに行かせるとか、もっと大きな節目で言えば結婚するとか、そういった多くの選択、そして新しいことを始めることを繰り返しているのが、今までわたしたちが歩んできた道です。
わたしたちにとって生きるということは、弟子たちが湖の上で困っている時に似ています。湖の上、どちらに進んでもいいのだけれども、どちらに向かっていいのか風に身を任せるのか、それとも逆らうのか、様々な選択があるでしょう。でもそうやって、何とか漕いで、わたしたちは湖の上を渡っていきます。そして、そこにイエスがやってきます。最初はなかなか受け入れがたいところもあったでしょう。しかし、イエスを受け入れた時、風は静まり、安心がそこに訪れるのです。
そこでペトロです。ペトロが湖の上に歩みだしたとき、実はイエスはまだ船にたどり着いてはいません。船の手前から、わたしたちに話しかけているのです。ペトロはイエスを見て、イエスの方に向かって歩みだします。しかし、船の中から荒れる湖の上を渡るのは容易ではありません。簡単に沈みそうになってしまいます。わたしたちは、イエスを見て、様々なことをしようとします。最初はいいのです。でも、上手くいかなくて、沈みそうになってしまうこともままあります。いつもいつも上手くいくことはありません。“今までの人生、百戦百勝、順風満帆でした”という人はどのくらいいるでしょうか。多分そんなにはいないでしょう。歩き出した瞬間落とし穴にはまった、ということはよくあることですから。ペトロのように、歩みだしてすぐ“もうだめだ”と思うかもしれません。しかし、そこでペトロがしたことは、主に叫ぶことでした。「助けてください」という叫びを発することでした。するとそこに、手が差し伸べられ、ペトロはイエスと共に船に戻ったのです。そして二人が戻ると海は静まり、船には安心がもたらされました。
わたしたちが不安にかられる時、それはイエスに向かって歩みだしたつもりが、見失い、沈みそうになっている時です。しかし、その時「助けてください」とはっきり神に伝えているでしょうか。誰かに伝えているでしょうか。誰かが察してくれると思っていないでしょうか。ペトロは「主よ、助けてください」と叫び、叱られながらも助けを得ました。わたしたちも、真に助けを願うなら、主に向かって遠慮なくしっかり叫びましょう。周りの人に向かって叫びましょう。みんな自分のことでいっぱいいっぱいですから、なかなか気づいてくれません。誰かが気づくのを待つのではなく、口に出す。そんなことも大切だと思うのです。
8/3
8/3 日々の糧に参与する マタイ14:13~21
今日読まれた福音書の五千人の給食の話は、有名すぎるほど有名な物語です。イエスについてきた群衆五千人は、五つのパンと二匹の魚を食べて満腹するのです。
食事というのは、わたしたちが生きるうえで欠かせないものです。ダイエットなどで食事を抜くとかの極端な対応をしていない限り、大概の人は一日三食を何らかの形で採っていると思います。教会でもそのうちの1食を担うことがありますよね。食事を採ることによって、わたしたちは活力を得て様々な働きをなします。食事を採らずに働き続けたら倒れてしまいますよね。今日来ているみなさんの中で、三食食べるにも困ってるんだけど・・・という方は恐らくそんなにはいらっしゃらないのではないでしょうか。何とかだけれども、三食食べることができるというのはとてもありがたいことですよね。ニュース等でも見ますけれども、世界中を見渡すと、毎日の食事も満足にできない人たちというのはたくさんいるからです。
わたしたちが祈る「主の祈り」には、こんな祈りがあります。「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」 今ここにいるわたしたちにとって、この祈りはあまり切迫感を持って聞こえてはきません。しかしもし、日々の食事も満足に採れない状況にあるのなら、この祈りの大事さは良く感じられると思うのです。パンと魚というのは、この時代の農夫たちの一般的な食事のメニューでした。決して豪華ではありませんが、日々の必要を満たすいつもの食事です。イエスに従ってきた群衆にとって、まさに「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りが現実になった瞬間だったのです。豪華な晩餐ではなく、精神的な食事でもなく、日々の必要を満たす食事です。それはまた、荒れ野で四十年さまよったイスラエルの民が、天からの糧である“マナ”を与えられたのと同じように、人々の必要を満たしました。今日の話は、わたしたちが「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈る時、神さまは必ず応えてくれるというメッセージです。
そしてまた、「群衆を解散させてください」と懇願する弟子たちに対してイエスが言った「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」というメッセージも大切です。弟子たちもまた、群衆と同じく「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りをささげる者です。しかし、それを唱える人は、弟子たちがイエスに「あなたがたが与えなさい」と言われたように「日ごとの糧を多くの人々に与える」という神さまの働きに参加することが求められます。そして、たとえ五つのパンと二匹の魚のようにごく小さなものであったとしても、神さまは必ずその働きを用いられるということです。“わたしは何も持っていません。だからまず、わたしに何かください”ではなく、“わたしは少しのものしか持っていないけれども、それをあなたと分かち合いましょう”ということ。そして、“わたしには少ししかできないから”と自分を小さくせず、“どんな小さな働きでも神さまは必ず用いられる”と信じることです。
聖ルカ教会も様々な働きをしています。幼稚園や船員奉仕会もその働きの一つです。またみなさんはそれぞれ、いろいろな仕方で人々の必要に応える働きをしています。そしてまた、今日ここに集ってくださっています。そのなかで神さまに励まされて、また日々の働きの中に戻っていかれます。どうぞ、みなさん一人一人の働きが祝されますように。そして、今日はこの後墓地での礼拝も行われます。かつておられた方々の、神さまに用いられた働きに感謝と祈りをささげてまいりましょう。
7/27
7/27 天の国のたとえ マタイ13:31~33,44~49a
今週読まれた福音書には、イエスの話した、たくさんの「天の国」についてのたとえ話がありました。聖書の様々な場所で、イエスは「天の国」や「神の国」について語っていますが、時折、なぜ一言ではっきりとわかりやすく語ってくれなかったのだろうかと思うことがあります。
わたしたちは「教会」がどんなところであり、「幼稚園」がどんなところであり、「シーフェアラーズセンター」がどんなところであるかは知っていますよね。でも、それを全く知らない人に対して説明しようとしたら、ちょっと困りませんか。例えば「教会」でしたら、“共通の信仰によって形成される集団・団体や社会のことである。現在は主にキリスト教のものをさすことが多いが、他の宗教にも用いられる。また、宗教活動の拠点となる建物・施設を言うこともある”という辞書的な説明をいきなりするでしょうか。あるいは幼稚園のことを知らない子どもに対して、“幼稚園は学校教育で定められた・・・“という説明をするでしょうか。しませんよね。教会だったら、例えば“神さまを信じる人が集まっているところ”と言ったり、いくつかたとえ話をしたりするかもしれません。幼稚園やシーフェアラーズセンターでもそうですよね。その人がまだ見たこともないものを説明しようとする時に効果的なのが、このたとえ話なのですが、どうしても完全には説明しきれないので、様々なたとえ話が使われます。イエスも、わたしたちがいまだに見たことのない「天の国」「神の国」を説明するのに、非常に心を砕いたことがわかります。
人に何かを説明しようと思う時“一発でみんながわかるような説明があったらいいなぁ”と思ったことはありませんか。大人でも子どもでも、みんながわかる言葉。そんな言葉で神さまのことがお話しできたらどんなにいいでしょう。先日札幌で行われた施設職員研修会の分科会の中で、子どもに聖話をお話しすることについて分かち合いの時を持ちました。どの幼稚園でも、様々な制約や考え方の中で、どうやって子どもたちに神さまのことをお話しするのか心を砕いていました。やり方もそれぞれ違います。きっと同じ話をしていても、表現が違うでしょう。そして、やり方もかなり大胆に違うのだということがはっきりわかってきました。しかし、それでも同じ神さまのことを子どもたちに伝えているのです。それぞれのやり方や話し方には、それぞれの良さがあり、また悪さがあります。しかし結果的にきちんと伝えられているのなら、それでよいのです。
みなさんは、自分にとって、「天の国」「神の国」とは「このようなものである」という自分なりのたとえ話や説明を持っているでしょうか。聖書の中のたとえ話ではどれが好みでしょうか。その説明も、別に聖書に関連付けなくても、例えば何か小説やドラマの中から見出してもいいかもしれません。わたしたちが一人ではイエスが様々なたとえを駆使したように考え付かなくても、わたしたちが何か一つ、自分なりの「天の国」「神の国」の説明を見つけることができるならば、それはわたしたちの信仰を、より豊かにしてくれるでしょう。それに正解はありません。そしていつか、それぞれの「天の国」「神の国」の話を、分かち合う時を持てたらいいですね。
7/20
7/20 収穫の主にゆだねて マタイ13:24~30,36~43
イエスはガリラヤのナザレの村に育ったということもあるのでしょうが、彼のたとえ話の中には農業や牧畜などの話が多くあります。今日のたとえ話もその一つ。毒麦のたとえ話です。先週に引き続き、解説の部分まで読まれるのですが、少しその解説とは別の読み方をしてみたいと思います。
毒麦という雑草は、イネ科の植物で、特に若いうちは小麦と判別しづらいと言います。さらに問題なのは、小麦と毒麦は根が絡み合って生えていることで、たとえ判別できたとしても、一緒に小麦が抜けてしまう危険があります。だからこそ、成長するまで待った方がいいという、今日のたとえの言葉は理解できます。
しかし、先週もいいましたが、人間の中には様々な側面があるものです。いい面もあれば悪い面もあり、面白いところもあればつまらないところもあります。また、見る人によっても違ってくることでしょう。しかも、良い部分だけを持っている人というのにあったことがありません。逆にいい人すぎると、かえって人間味がないような気もしてしまいますね。ある人を称して“毒麦”であり、“小麦”であるというのは、神ならぬわたしたちの目にはわかりません。というよりも、人の中には小麦も毒麦も混じって生えているのが普通ではないかと思います。人の中には様々な面がありますから。そして、その人の中の良いところと悪いところというのは、小麦と毒麦の根が絡み合って生えているように、分かちがたく絡み合っています。悪いところを良くしようとすると、かえって良いところまで消えてしまうというのはよくある話です。わたしたちの心の中の根っこも、毒麦の根っこと分かちがたく結びついている部分があるのではないでしょうか。
例えば、誰か、苦しんでいる人に寄り添おうとする時、その中の一部に「誰かがこれを見て評価してくれるだろう」という、他人を利用して自己実現しようとする心の動きと絡み合っているのです。また、子育てで言えば、子どもに対して「この子のためだから」と叱る時、「わたしの思った通りに動いてくれなくては困る」という自己中心的な気持ちと絡み合っていることはあるのではないでしょうか。そして、誰もがそれを完全に否定することなどできないでしょう。さらに言えば、こうやって批判されるかもしれないし“偽善ぽい”から何もしない、ということもあるかもしれませんね。
ではどうしましょう。良い部分だけにしようとして、努力しますか? こういった気持ちが入り込まないように心全体を正しくしましょうか?いいえ、そうではありません。というよりも、それはやってできることではありません。もちろん、少なからず注意することはできるのですが、完全にシャットアウトすることはできません。そして、イエスはそれを知っておられたのだと、この毒麦のたとえ話を聞くと思います。収穫の主であるイエスは、わたしたちの内にある毒麦の根と、わたしたちの様々な思いは分かちがたく結びついていて、毒麦を抜こうとすると、良い部分までも抜け落ちてしまうかもしれないということをよくわかっていて、収穫の時に、わたしたち一人一人の心の内の毒麦を選り分け、天の国に迎えてくださるのです。だから恐れることはありません。イエスの慈しみ深さに感謝し、心の中の毒麦の働きに少しずつ注意しながら、共に歩み続けたいと思います。
7/13
7/13 あなたの良い土地 マタイ13:1~9,18~23
今週読まれた福音書は、もう本当に有名なイエスのたとえ話。説明もついており、これ以上の説明は不要でしょう。種と、それが落ちた土地についての話です。畑をやっていて思うのですが、そんなに大きな畑じゃなくても、同じ時期に種を撒いたはずなのに、何となく生育状況が違うことがあります。肥料もなるべく均一になるようにやりますが、きれいに育つわけでもありません。例えば園庭の花壇の一部を畑にして、例年のきゅうりやトマトのほかに、今年はジャガイモと枝豆も植えてあります。じゃがいもはとても大きく育っていますが、枝豆の方はどうもいまいちのようです。びっくりするくらい小さいんですね。一つの畑の中にもよく育つ部分と、少し育ちが悪い部分があるようです。逆に“どうしようもない”と思われるような荒れ地でも、少し大丈夫な部分があったりもするものです。また、一部分はどうしても石が多くて大変だとか、北見にいた時に借りていた畑はそんな感じでした。一つの畑の中でも、多くの顔を持っているものです。
今日の福音書は、み言葉を与えられた人々についての話ですが、わたしには、もう一つ読み方があるような気がするのです。それは、わたしたち一人ひとりの心の畑についてです。そもそも、人というのは、完全に一本筋が通っている、すべてがそれで判断できるような性格をしていません。ある角度からとらえればとてもまじめですが、別の角度から見ればまじめすぎて面白みがないとも言えます。また、人と会う時、いつもぶっきらぼうだなぁと思っていたら、その辺で猫を見かけた時に「にゃ~」と話しかけていたり、孫にはめちゃめちゃ甘かったり、そもそもぶっきらぼうなのは特定の人に対してだったりと、人というのは、本当に様々な面を持っているものです。その時の気分や体調によっても変わってきますよね。
わたしたちは、日々、み言葉に接しています。でも、その時の状況によって、そのみ言葉がわたしたちの心のどの部分に落ちるかはわかりません。とても耕された栄養たっぷりの部分にばかり、み言葉の種が落ちればいいのですが、石ころだらけだったり、肥料があまりなかったり、時には茨が生えていたりするかもしれません。いや、おそらく、そうやってわたしたちの心の中に撒かれた種の中で、落ちる場所によっていまだ眠っているものや、生えかけたけどちょっと元気がなくなっているものもあると思うのです。
土地というのは、なんだかんだ言っても手入れをすれば少しずつですが生まれ変わっていくものです。まめに雑草を取り、石を取り除き、有機肥料を与え、ph調整をし・・・と、様々な方法をすることができます。では、わたしたちの心の土地をよくしていくためにはどうしたらいいのでしょうか。わたしにとって、それは日々の祈りと黙想であり、体を休めることでもあると思っています。聖書を読む=み言葉の種を撒くだけではなく、日々起こったことについて思いを巡らすこと、信仰の先輩たちの物語を紐解くことなど、できることはたくさんあります。わたしはたまに、昔の自分の説教を読み返してみたりしています。わたしたちにできることは色々あります。そうやって心の土地を耕していくことで、わたしたちの土地に撒かれたみ言葉の種が、思わぬ成長をすることもあるでしょう。心の土地の手入れをしつつ、日々を進んでまいりましょう。
7/6
7/6 二頭立て マタイ11:25~30
“軛”は、今はあまり見ることのない農機具ですが、実際にご覧になったことはあるでしょうか。“軛”は、牛や馬などの大型の家畜を鋤や馬車・牛車などにつなぐときに用いられる器具です。“軛”によって、鋤や馬車などの道具に、家畜の力を伝えることができます。日本語ですと、荷車や人力車の前にある引くための棒も、軛と言うことがあるようです。軛によって馬や牛が自由に動かないようにし、人の役に立つようにしむける道具なので、自由が奪われる状況のことを“軛”と言うことも多いようです。“軛”によって、楽に力を伝えることができる反面、やはり拘束されるものなので、“軛”から解放されると、馬や牛は自由に草をはみ、その疲れを癒します。
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とイエスはいいます。イエスはわたしたちを“軛”から解放してくれる、とここだけ読むと思ってしまいます。しかしイエスは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」と続けるのです。わたしたちの首にある“軛”がなくなるわけではなく、軽くなるだけなのです。
では、わたしたちを拘束している“軛”とは、一体何なのでしょうか。イエスも負っている、イエスでも解放できないものです。それは、神さまがわたしたちに与えたもののことです。律法や聖書にある掟など、様々なことですね。本当はこれらのものは、“軛”が、家畜の力を鋤や馬車などの道具に力を伝えるための器具であるように、神さまから与えられた掟などは、人を生かすためのものでした。しかし、その“軛”は、人を拘束するためのものともなってしまうのです。律法に限ってみてもそのことがよくわかります。あの様々な律法の原点は“人を生かす”ためであったのは明白です。安息日の律法でも、「人が休まないと死んでしまう」から、神さまが与えてくれたものです。しかし、「休むこと」に熱心になりすぎるあまり、「休み方」を決めてしまうと滑稽になってしまいます。イエスはそのことをよく知っていました。神さまのことに疲れてしまった人々のことを。そして、神さまが与えてくれた“軛”の持っている、多くの恵みを明らかにしてくれたのです。
“軛”は普通、二頭立てで用いられます。二頭をしっかりと結び合わせ、二頭が力を合わせて、その荷を引くわけですから、結果的に負担は軽くなります。また、少し疲れてきた牛や馬に、元気な牛や馬を結び合わせると、疲れているもう一頭を助けて、力を分け与えることができるのだそうです。
わたしたちの“軛”は、残念ながら取り去ることはできません。取り去られるのは人生の最後においてだけです。しかし、わたしたちの負う“軛”の横には、イエスがいます。そして共に軛を引いているのです。そして、神さまが、わたしたちとイエスをしっかりと結び合わせて、律法に限らず、人生の様々な重荷を負い、道のりを踏破する力を発揮させてくださるのです。最初は少し窮屈に感じられるかもしれません。しかし、その“軛”の本来の意味は、わたしたちが力を発揮するためのものです。そしてまた、わたしたちが“重荷を負う”人に出会う時、自分だけで支えるのではなく、イエスを間に挟んで“三頭立て”にして歩むこともできます。わたしの重荷を共に引いてくれるイエスと共に、これからも道を歩み続けたいと思います。