日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

8/30

8/23

8/16

8/9

8/2

7/26

7/19

7/12

7/5

6/28

6/21

8/30 「自分の十字架」   マタイ16:21~27

 礼拝堂の正面には大きな十字架があります。また、あちこちの教会には壁や屋根に、やはり十字架が多く掲げられています。ネオンで光っているものもありますね。また、様々なところで十字架のアクセサリなどを身に着けている人もいます。おもしろいことに、必ずしもクリスチャンだけじゃないんですよね。十字架にもいろいろな種類があって、例えばこの礼拝堂の十字架はプレーンなものですが、イエスさまの像がついているものもありますね。形だって、わたしの手持ちのものですと、アッシジの十字架はちょっと変わった形をしていますし、正教会の八端十字は一瞬十字架なのか戸惑いますし、アンデレクロスなんかは知らなきゃバッテンです。「十字架」と言っても色々あるわけです。
 「十字架」というと「イエスさまのしるし」「教会のしるし」と思うのですが、本来十字架って「刑具」です。ここに人を張り付けにして処刑するための道具であり、血なまぐさいものです。そして、本来であればイエスが処刑されたのですから、キリスト教にとっては敗北のしるしでもあるはずなんです。しかし、イエスさまは「復活」によって「敗北」や「死」のイメージだった十字架を「勝利」と「栄光」に変えてくださったので、今、わたしたちは十字架を掲げているのです。だからこそ、もともと「敗北」や「死」のイメージであったこと、十字架が「刑具」であったことというのは忘れてはならないのです。
 イエスは今日の聖書の中で「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と弟子たちに言っています。「自分の十字架」というと「わたしはこの十字架が好み」というような話になったりもするのですが、「刑具である」ということを思い出すのならその意味は違ってきます。むしろ「処刑されてしまうような自分」の象徴がこの「十字架」であると言えるでしょう。またほかにも、「わたしのドラ息子がわたしの十字架です」なんて言ったりしますが違います。あくまで「自分の」なんです。息子は他人ですから、そこのところをはき違えてはいけません。
 キリスト教の信仰で大切なことの一つは「自分が」どうするのかということです。イエスの言う「自分の十字架」とは、これまでの自分の思いの、言葉の、行いのことです。自分の過去の様々な結果を、良いことも悪いことも背負いながら、イエスに従っていくことです。そしてイエスに従うということは、イエスの行いに倣うということです。倣うといったとき、完璧にまねをすることなんかできっこないですが、イエスがしたように人に手を貸し、人に寄り添って生きていこうとすることです。その時、自分の「十字架」、つまり「過去」が生きてきます。それをイエスのように勝利のしるしに変えていくのか、それともそのまま敗北のしるしなのか、そこがわたしたちに問われているのです。