福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
8/30
8/30 「自分の十字架」 マタイ16:21~27
礼拝堂の正面には大きな十字架があります。また、あちこちの教会には壁や屋根に、やはり十字架が多く掲げられています。ネオンで光っているものもありますね。また、様々なところで十字架のアクセサリなどを身に着けている人もいます。おもしろいことに、必ずしもクリスチャンだけじゃないんですよね。十字架にもいろいろな種類があって、例えばこの礼拝堂の十字架はプレーンなものですが、イエスさまの像がついているものもありますね。形だって、わたしの手持ちのものですと、アッシジの十字架はちょっと変わった形をしていますし、正教会の八端十字は一瞬十字架なのか戸惑いますし、アンデレクロスなんかは知らなきゃバッテンです。「十字架」と言っても色々あるわけです。
「十字架」というと「イエスさまのしるし」「教会のしるし」と思うのですが、本来十字架って「刑具」です。ここに人を張り付けにして処刑するための道具であり、血なまぐさいものです。そして、本来であればイエスが処刑されたのですから、キリスト教にとっては敗北のしるしでもあるはずなんです。しかし、イエスさまは「復活」によって「敗北」や「死」のイメージだった十字架を「勝利」と「栄光」に変えてくださったので、今、わたしたちは十字架を掲げているのです。だからこそ、もともと「敗北」や「死」のイメージであったこと、十字架が「刑具」であったことというのは忘れてはならないのです。
イエスは今日の聖書の中で「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と弟子たちに言っています。「自分の十字架」というと「わたしはこの十字架が好み」というような話になったりもするのですが、「刑具である」ということを思い出すのならその意味は違ってきます。むしろ「処刑されてしまうような自分」の象徴がこの「十字架」であると言えるでしょう。またほかにも、「わたしのドラ息子がわたしの十字架です」なんて言ったりしますが違います。あくまで「自分の」なんです。息子は他人ですから、そこのところをはき違えてはいけません。
キリスト教の信仰で大切なことの一つは「自分が」どうするのかということです。イエスの言う「自分の十字架」とは、これまでの自分の思いの、言葉の、行いのことです。自分の過去の様々な結果を、良いことも悪いことも背負いながら、イエスに従っていくことです。そしてイエスに従うということは、イエスの行いに倣うということです。倣うといったとき、完璧にまねをすることなんかできっこないですが、イエスがしたように人に手を貸し、人に寄り添って生きていこうとすることです。その時、自分の「十字架」、つまり「過去」が生きてきます。それをイエスのように勝利のしるしに変えていくのか、それともそのまま敗北のしるしなのか、そこがわたしたちに問われているのです。
8/23
8/23 「周囲の目を気にせずに」 マタイ16:13~20
今日の福音書はイエスが弟子たちと話しているときの様子。「わたしは人にどう言われているのか」というイエスの問いかけに対して弟子たちが様々な答えをし、最後にペトロが「あなたはメシアだ」と言い表します。
「周りからどう見えるか」というのは、わたしたちにとって結構気になるものです。「人からの評価」というのは思いのほか、わたしたちの心を振り回します。考えてみれば、わたしたちは評価をし、評価をされることに慣れています。子どもの頃の「学校の成績」というのは先生という他人がつけたものですし、会社での仕事の査定というのは人事部なんかがするんですかね。もっと一般的に言うと、例えばインターネットで買い物をする時、その商品に付随する評判を見たりしないでしょうか。星がいくつついてるか、とか変な口コミがないか調べたりしませんか。また、初めての土地で飲食店を探す時、インターネット上の評判などを気にして調べたりしませんか。もちろんこういったことが非常に有益な場合は結構あります。評判のお店に行ってみたらとてもおいしかった、とか、みんながほめている商品を買ってみたらとてもよかった、ということがありますから。でも一方で自分は「いいな」と思っていたものが、周りの評判が悪いと何となく敬遠してしまったりしたことってないでしょうか。これは、多分人に対しても同じですね。
ペトロがはっきりと「周りの人がどういっていようが、わたしにとってあなたはメシアです。」と言い表した時、イエスはペトロに対して「幸いだ」と言いました。そう、本来わたしたちは「自分にとってどうか」ということを基準にするのがよいのです。なぜなら、人の評判だけを気にしていると、どうしていいかわからなくなってしまうことも多いですし、何より自分の好みと他人の好みがぴったり合致することってなかなかないんです。おそらく一緒に住んでいる家族でもまったく一緒ということはほぼあり得ません。イエスさまのことについてもそれは同じです。「イエスはわたしにとっての救い主、メシア」と言った時、その中身は人ごとにかなり違うはずです。そりゃそうです。経験が違う、出会いが違うのですから。だから、牧師の話が「わからん」と思っても当然です。わたしは「わたしにとってのイエス」を話しているだけですから。それが「合っている」のか「間違っている」のかなんてどうでもいいことです。「その人にとってはそう」というだけのことです。もちろん、教会に通っている人たちの中で「イエスが救い主である」ということは共通していてほしいと思います。でも、その中身はそれぞれ違っていても何の問題もありません。問題なのは、周りに振り回されず「わたしにとってのイエスさまはこう」ということをはっきり言えるかどうかです。周囲の目を気にして言えないとか、合っているか間違っているかと気にするものではありません。それが「幸い」と言われたペトロが示した姿勢なのです。
8/16
8/16 「はっきりと口に出す」 マタイ15:21~28
今日の福音書はカナン人の女性がイエスに対して信仰を示す話。ちょっぴり排他的で意地悪なイエスさまが見られる貴重なお話でもあります。「わたしはイスラエルの家の失われた羊のために遣わされている」というのは要するに「ユダヤ人のためにしか働くつもりがない」ということです。「外国人お断り」なんて言ったら、今の世の中だと大炎上ですね。しかしこれに対してカナンの女性は一度、二度、と断られても食い下がります。食い下がった結果、彼女の娘は癒され、彼女は「あなたの信仰は立派だ」とイエスから言われることになります。
わたしたちは「物わかりのいいこと」をよしとする傾向にあるように思います。例えば何かしてほしいことがあったとして、それを何度も要求するのがなんとなく「はしたない」ような気がしてしまうことってあるのではないでしょうか。このカナンの女性のように何度も食い下がって要求するのが、まるでものすごい強欲のような見方をしてしまいがちです。「自分は本当はこうして欲しいのに」と思いながらも結局口に出せなかったことって、ありませんか。口に出すことで関係が壊れるのではないか、おかしくなるのではないかと思うあまり、口に出すことができないことってあるのではないでしょうか。そして出せないまま心の中で悶々として、気まずくなって遠ざけてしまったものや人の一つや二つはあるのではないかと思います。
要求をはっきりと口に出すというのは大事なことです。イエスさまも様々な場面で要求を口に出すことが大事だとわたしたちに伝えてくれています。そして、このカナンの女性は「はっきりと要求を口に出したこと」しかも何度も言葉を尽くして伝えようとしたことで、イエスの「癒しの力」を引き出しています。日本の文化的には「察する」ことが出来ないといけないのかもしれませんが、「察する」のってかなり高等な技能です。それを「正確に」察してくれというのは、人に対して厳しい要求です。もちろん、口に出したってそれが通るとは限りませんが、言わなければ可能性はゼロですからね。
「人」相手だと難しいこともあるかもしれませんが、わたしたちの相手は神さまだということを忘れてはいけません。神さまにはばんばん要求しましょう。祈るときも、心の中でだけではなく、はっきりと口に出してみましょう。カナンの女性だって、かなり勇気を振り絞って伝えたことでしょう。でも、そのひとかけらの勇気が聖書を通してずっと残されている。この勇気が、「はっきりと口に出す」力こそ、わたしたちの信仰にとって大切なのです。
8/9
8/9 「助けにおびえない」 マタイ14:22~33
今日の福音書は湖の上を歩くイエスの話。湖の真ん中で立ち往生してしまった弟子たちのところにイエスが行きますが、弟子たちは幽霊と勘違いをしておびえる様子が描かれます。
自分がものすごくしんどい状況にあるときに、誰かが「助けますよ」と申し出てくれることがあります。とてもありがたいと思うのですが、時々「いや、大丈夫ですよ」とかたくななまでに援助を断ってしまうことがあります。「自分一人で何とかしなきゃ」と思うからか、それとも「助けてもらうなんて悪い」と思うからか、様々な理由はあろうかと思いますが、こういうことってないでしょうか。もしかしたら、あまり手助けされた経験がなく「怖い」と感じることもあるのかもしれません。
湖の真ん中に漕ぎ出し、風が吹いて岸に戻れなくなってしまった弟子たちは、イエスが近寄ってきたときに恐怖の叫びをあげました。「イエスさまが助けに来てくれる」なんて、ものすごくうれしいことのはずなのに恐怖におびえてしまう。助けを求めているのに、その助けを拒否してしまう結果になってしまいます。幼稚園に通っている小さい子ども、特に0歳、1歳の子どもたちが親と引き離されるとき、恐怖に泣き叫びます。幼稚園の先生たちが何か危害を加えるわけではありませんし、むしろ上手に自分のことを世話してくれるはずですが、「怖い」ということが先に立っているわけです。そしてそれから接していくうちに慣れてきて、自分を世話してもらうようになるのですが、それまで泣く子はものすごく大変です。援助しようとしても、ある一定の関係がないと援助することすらできない。そういうことって多くあります。
神さまが与えてくれる助けは、時に予期しない形で、予期しない時に訪れます。え?今ですか?と思ってしまうようなこともあります。自分の望むときに、望む形で助けが来ることはほとんどありません。なぜなら「神さまは、その人に一番いい形で」助けを与えてくださる方だからです。その助けは、直接訪れるかもしれません。誰かを通してかもしれません。出来事を通してかもしれません。しかし、わたしたちが立ち往生しているときにこそ、そこに来てくださるのがイエスさまです。神さまの助けが怖いと思うのなら、神さまときちんと関係を作りましょう。祈りを通して神さまとお話して、神さまを信頼しましょう。「信じる」というのはそういうことだと思います。
8/2
8/2 「自己責任を越えて」 マタイ14:13~21
今日の福音書は「五千人の給食」。聖餐式の概念の一部もここからきている、超、超有名な箇所であり、みなさんもなんども目にしたことのある部分でしょう。古くからいろいろな人が語ってきた箇所で、牧師として何を語ったらいいのかと思ってしまう箇所でもあります。
最近、「自己責任」という概念をよく目にします。コロナウイルスに感染した人に対して「そういう場所に行くからだ」とか、精神的に疲れてしまっている人に「お前がそれを選んだからだ」とか、確かに本人の責任のあることから、まったく本人の責任には問えないことまで十把一絡げに本人の責任にするような突き放した言い方がまかり通っているような気がします。コロナウイルスの患者を受け入れている病院で働いていて、気を付けてはいても感染した人に自己責任を問うのと、マスクもしないで出かけて感染した人に自己責任を問うのは違ってきます。「人のために働く仕事を選んだのだから文句言わないで無給無休で働け」「感染するなんてとんでもない」という主張を目にし、卒倒しそうになりました。明らかにその人の責任ではなくても、周りの状況で「誰も手を差し伸べない」ということが起こりえます。
今日の福音書でも弟子たちは群衆に対して「群衆を解散せてください。そうすれば自分で食べ物を買いに行くでしょう」という態度をとります。もちろん自分たちに分ける食べ物がない、という理由もありますけれども「とても面倒を見ていられない」とか「自分たちで自分たちのことは何とかしなさい」という主張も含まれています。もしかしたら「わたしたちだって腹減ってるのに」と思ったかもしれません。しかし、それに対してイエスは「あなたたちが彼らに食べるものを与えなさい」と言います。そして、奇跡を起こし、彼らの腹を満たします。弟子たちの腹も同時に満たされます。
もちろん、これは聖書の中のお話です。しかし、主の弟子であるわたしたちは、「わたしが満たされる」より先に「周りの人が満たされる」という行動を時に採用することがあってもよいのだと思います。「自己責任」を越えて、人に憐れみを向けることを、このコロナウイルスが広まる世界で、時に大切にできる、そんな世界でありたいと願っています。
7/26
7/26 「わたしにとっての天の国」 マタイ13:31~33,44~49a
今日の福音書は「天の国」についてのイエスのたとえが5つ読まれました。最初の二つは「小さいけれど大きくなる」ということ、続いての二つは「その人にとって何よりも価値のあるもの」、そして最後に「自分の意志では入れず、選別がある」ということ。この五つのたとえはそれぞれ別の角度から「天の国」を見ています。どれもが「天の国」の話ですが、それぞれのたとえを単独で聞くと、かなり違う印象を受けるのではないでしょうか。しかし、そのどの要素も確かに「天の国」を表しています。
ありとあらゆるものはいくつもの側面を持っています。見る角度が違えば印象も変わります。人間も、出来事も、風景も、すべてのものがそうです。そうですね、例えばわたしであれば「男性」です。女性から見れば異性ですし、男性から見れば同性です。「42歳」です。今の幼稚園の子どもたちの多くのお父さんお母さんが年下になりました。「牧師」です。「幼稚園の先生」です。「MtSの篤志チャプレン」です。時々「バスの運転手」です。「北海道教区の所属」であり「内地の出身」です。「独身」です。と、ざっと思いつく事象をあげてもこの通り、多面的です。しかもそのそれぞれに対して、違う人が見れば違う印象を受けるはずです。まったく同じ印象であることはないでしょう。わたしにとっては「こう」でも、他の人にとっては「こう」である、ということが起こりえます。この「苫小牧」という土地もそうです。わたしにとっては涼しいのですが、夏がちょっと物足りない印象です。でも、ここに長く生きる人にとってはまた違う印象があるでしょう。そのどれもが正解です。
あなたにとっての「天の国」はどんなものでしょうか。今日のイエスのたとえ話は腑に落ちるでしょうか。それはからし種のように、小さいけれど大きくなるものでしょうか。自分の全財産を投げ出してもかまわないほど大事なものでしょうか。入るのに自分では抗うことのできない選別が待っているものでしょうか。聖書には今日読まれた「天の国」のたとえのほかに、驚くほど多くの「天の国」ないし「神の国」にたいするたとえ話があります。「天の国」はそれだけ多面性があるということです。聖書の時代ですらこれだけあるのですから、きっと今のわたしたち一人ひとりにも腑に落ちる「天の国」のたとえが見つかることでしょう。あなたにとって、「天の国」はどんなものですか。聖書を読み、祈りの中で神さまに聞き、黙想を通して自分の心を見つめてみましょう。その中で、自分にとっての「天の国」のたとえを見出した時、わたしたちの信仰はまた一つ成長するのです。
7/19
7/19 「主が備えられる」 マタイ13:24~30,36~43
今日の福音書は「毒麦」のたとえ。麦の間にまかれた「毒麦」をどうやって取り除こうか心配するしもべたちに、主人が「借り入れの時までそのままにしておきなさい」という場面です。世の中に様々な不正が満ちているけれども、最後の審判の時に識別されるので、その時まで放っておきなさい、とイエスは弟子たちに解説します。刈り取りの時までということはきっと麦と毒麦は穂が出るまでは見分けにくいのだろうと想像がつきますね。考えてみれば庭の雑草を抜いていてもどれが抜いていいものか区別がつかないのはよくあることですし、人の行う物事も、結果が出るまで分からないこともたくさんあります。明らかに不正のように見えるけれどもそうではなく、人々のためになったこともあります。もちろんその逆もあるわけで、わたしたちには区別がつかないこともたくさんあります。角度を変えてみるとまた違った一面が見えることもたくさんあります。教会の中で「麦」なのか「毒麦」なのか、神や天使ではないわたしたちには区別がつかないのは当たり前です。だからこそ、様々なものを長い目で見ていかなくてはなりません。
この世は麦と毒麦が混在する場所です。では、教会はどうでしょう。そう、教会もこの世であり、麦と毒麦が混在する場所なのです。ところが、世間的なイメージも、もしかしたら教会の中にいるわたしたちのイメージも「教会は信仰的に純粋な場所」とどこかでインプットされています。教会の中にもこういったことはあるし、「あの人が気に食わない」「この人の言い方が嫌だ」「この人は教会にふさわしくない」というような思いが沸き起こってくることもあります。争いも起こるし、何より様々な教派に分かれていることもそれを示しています。しかし、これに対する答えは一つです。「それはわたしたちが思い悩むことではなくて、神さまにお任せすること」だということです。わたしたちが毒麦を抜こうとすると、一緒に麦を抜いてしまうからです。
「思い悩むな」と言ったところで、思い悩んでしまうのはどうしようもないのかもしれません。しかし、それでは神さまに信頼していることにはならないのだと思います。「人の目にはすべなしと見ゆるときも主は必ず良き道をば備えたもう」という聖歌がありますが、イエスさまの言葉を信頼し、変化の時を待ち望みましょう。
7/12
7/12 「発芽率」 マタイ13:1~9,18~23
売られている「種」を買うと、袋の下のほうに「発芽率」が書かれています。野菜の種で高いものだと90%以上のものもありますが、低いものだと50%のものもあります。さらに気温だとか日当たりだとか、さまざまな要因があり、必ずしも書かれている「発芽率」通りに芽吹くわけではないですが、一応の参考にはなります。
イエスは今日の福音書で、「み言葉」を「種」にたとえ、多くの実を結ぶ者がいればそうでない者もいる、と語ります。このイエスさまの言葉から、教会は宣教的な活動のことを伝統的に「種まき」にたとえています。いつ芽吹くかわからないけれども、わたしたちは宣教として、み言葉の種をまき続けるのです。「み言葉」の「種」というのは不思議なもので、すぐ芽吹くこともあれば、何十年もたってから芽吹くこともあり、思いがけない喜びを多くの時にもたらしてくれます。しかしながら、み言葉の種の「発芽率」は必ずしもいいとは言えないような気がします。なぜなら、宣教を続けていてもなかなか芽が出ず、徒労感ばかり増していく状況もあるからです。
「発芽率」というのはある程度理想的な環境で測定されたものです。そりゃそうです、種をわざわざ過酷な条件にまいてから測定する人はいません。発芽率の高い種だって、時期を誤れば発芽しないことも多いのです。ところが、イエスのたとえ話にもあるように、「み言葉の種」は、必ずしも理想的な環境にまかれるわけではありません。むしろ、理想的でない環境にまかれることのほうが多いのです。わたしたちの心という土地が理想的な状況にある人は少ないからです。むしろ、その土地を整えたくて教会に足を運ぶ人も多いのではないでしょうか。こう考えていくと、わたしたち、少なくともある程度芽が出た人のすることって、その芽が育つように、少しずつ土地を整える、ということなのだろうと思います。
7/5
7/5 「負いやすくても軛は軛」 マタイ11:25~30
「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というイエスの優しい言葉に導かれて、わたしたちは安らぎを得ます。しかし、聖書を学ぶにつれて、この一連のイエスの言葉は決してやさしいだけではないのではないかと思うようになりました。なぜなら、イエスは決して「軛をなくしてあげよう」と言っているわけではないからです。
新型コロナウイルスの感染により、教会は「新しい信仰様式」を考えなくてはいけなくなりました。一朝一夕にできることではなく、考えなくてはいけないというのは少なからぬ「重荷」であると言えます。完全にゼロリスクにすることは難しく、ゼロリスクを求めるなら礼拝自体ができなくなってしまいます。「教会の将来」という大それたことを考えるなんて・・・・、としり込みしてしまう気持ちもわかります。そして、これは「牧師」や「主教」や「教会委員」だけが考えることではありません。教会に属している信徒一人一人が考えることでもあります。なぜならみなさんは誰かが「こういう信仰の仕方にしてください」「行動にしてください」と言って「はい、その通りです」と全部素直に従いますか。そんなことはないと思います。「いや、それは違うんじゃないか」「ぼくはこうしたい」「わたしはこうしたい」ということが沢山出てくるからです。立場に差はあれ、わたしたちは「新しい信仰様式」を考えることから逃げることはできません。「軛」というのは、牛や馬など農耕動物を鋤や荷車などの道具につなぐための器具です。とても重いものです。しかし、軽いと言っても「軛」は「軛」であり、どんなに最新式でも「まったく重くない」「負担ではない」ものではありません。
イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言っているのです。「軛」や「重荷」は完全になくなるわけではないのです。そうではなく、わたしたちの身に刺さったとげのように、いつまでもわたしたちに付きまとうようについてくるものなのです。「負いやすい」かもしれませんが「軛がなくなる」わけではないのです。そして「わたしに学びなさい」と言っているということは、「学ぶ」ということから逃れることはできないということです。むしろ信仰生活というのは一生勉強なのです。そして、何らかの重荷を背負って一生歩み続けるものなのです。もちろん休んだっていいのです。でも、「軛」を誰かに押し付けて逃げることはできません。あなたの「新しい信仰様式」はどのようなものですか。少しずつ考えていきましょう。
6/28
6/28 「教会は殺伐としている」 マタイ10:34~42
教会にあまり触れたことのない人のイメージはどうだろうか。「教会は善男善女で気性の穏やかな人々の集うところ」というイメージがあるのではないだろうか。それとも「聖書原理主義で科学を否定する人の集団」だろうか。「一神教の信者独特の融通の利かなさがつまったところである」のだろうか。それらのすべてがあっているようで間違っていると思う。
教会というのは普通の人々の集団だ。教会にいる人々は老いも若きも「神さまを信じている」という共通点でしかつながっていない。いや、もしかしたらそれすらも危ういけれども、確かにそうなのだ。子どもがいる。年寄りがいる。若い人がいる。いろいろな仕事をしている人がいる。公務員もいる。会社員もいる。シングルマザーもいる。ずっと独身の人もいる。障がいのある人がいる。病気の人がいる。健康な人がいる。やくざもいるし、ついこの間まで塀の中に入っていた人もいる。「教会」というのは、「クリスチャン」というのは社会そのものなのである。クリスチャンは別に特別の資質を持っているわけでもないし、何かに劣っているということもない。神さまを信じているという以外に何らかの取り柄があるわけでない普通の人々の集まりなのだ。
「わたしは地上に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た」という今日のイエスの言葉は、わたしたちを力づけてくれる。少し怖いけれども。確かにイエスの言葉によって、わたしたちの間には争いが起こっている。かつて起こったし、今も時折起こる。「一神教は不寛容で、多神教は寛容」「日本に一神教は合わない」こんな言説が世間をにぎわせる。でも、本当にそうだろうか。どんな宗教も寛容と不寛容の間で揺らぎながら運営しているものだからだ。
そう、教会は殺伐としている。「最近来始めたやつらは何もわかってない」という長老がいて、「あいつは老害だ」という若者がいて、「まぁまぁ」となだめる層がいて、「信仰のおかげで人生変わった」という人がいて、「信仰に縛られるのはしんどい」という人がいて、この間教会に来始めた人がいて、もう何十年も教会に来ている人がいて、聖書を全部読んだことのある人がいて、断片的にしか読んだことがない人がいて。学びたい人がいて、それよりも感じたい人がいる。そんな中で統一されている価値観は「神さまを信じる」ということしかないのにもかかわらず、その様々なことで色々分裂しているのが教会なのだ。イエスは確かに教会の中に剣をもたらしている。そんな混沌の中で「わたし」はどのようにふるまうのか。どんな選択をするのかも信仰の在り方の一つだ。でも、願わくば教会があり続けることのできる形をとりたいと思う。教会が、今後もあり続けることのできる信仰の形を持っていたいと思うのだ。
6/21
6/21 「イエスにある新しい教会生活」 マタイ10:24~33
「教会に通っている」ということは、あなたにとってどうでしょうか。オウム真理教の事件以来、教会は「怪しい宗教」と見られることも多く、教会に通っていることを隠す、という人も結構いるように思います。また、最近新型コロナウイルス関連で、国内ではないですが「教会で感染が広まった」というニュースが流れ、がっくり来たのも記憶に新しいでしょう。しかも、よくよく調べてみると、伝統的な教会も、キリスト教系の新興宗教も一緒くたに報道されていて、「ああ、この理解のなさは何とかならないか」と思うこともあります。特に幼稚園のあるこの教会で感染が広まったらどうするのか、あの教会に通ってるなんて・・・、と後ろ指をさされないのか、もしかしたら自分が感染を広めてしまうのではないかという恐れを抱いている方も多いのではないでしょうか。正直なところわたしも、教会で礼拝を行うことにいくばくかの後ろめたさを感じてしまっています。もちろん一人だけでも礼拝を守ることは大切だと思っていますが、今、「礼拝にどうぞおいでください」と明るく言うことができない、何となく今までとは違う雰囲気を感じています。それに対して、今日の福音書のイエスの言葉は厳しいけれどもわたしたちに現実を突きつけてくれます。「人々を恐れるな。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」 確かに、きちんと対策を施したうえで行う礼拝は問題ないはずですし、考えていくことによって新しい形の集会も持つことが出来るはずです。
確かに、わたしたちは自らの考え方を切り替える必要があるのかもしれません。今までわたしたちは「何も考えずに集まる」ことが出来ていました。しかし、これからはどうやら様々な場面で、「それなりの衛生的な対策を施した」形の集会しか行うことが出来なくなっていくでしょう。もしワクチンがあったとしても、インフルエンザのことを思えば完全に予防できるわけではありません。ですから、一定の警戒をしている状況が当たり前になってくのだと思います。もう、わたしたちは「コロナ以前」の世界に戻ることはできないのです。考えてみれば、わたしたちはいくつもそういうポイントを過ぎてきています。今、携帯電話を持たずに生活する人はほとんどいません。今の幼稚園の若い職員たちは携帯電話がない世界を知らない世代です。それ以前の世界が想像できないのです。「新しい生活様式」という言葉が巷で、ややもすると揶揄的に語られていますが、「コロナ以後」の新しい礼拝や信仰の在り方を、今、教会の中にいるわたしたちが考えて、実践し、そして広めていくことを忘れてはいけません。そしてそれは、全員が考えることです。そして、明らかにすることです。イエスさまと共にある、コロナ以後の新しい教会生活に、多くの人々を導くためにも、わたしたちは考え、そして歩み続けなくてはなりません。間違えることもあるでしょう。でも、恐れることはありません。イエスさまが共にいることを信じ、周囲に「新しい教会」を示していくことが今こそ必要なのです。