福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
6/14
6/14 「権能を受け継ぐ、そして与える」 マタイ9:35~10:8
今日の福音書はマタイから、イエスが群衆に対して「飼い主のいない羊のような様を憐れに思い、12人の使徒たちを選んで遣わした」場面です。そして使徒たちにはこう命じます。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」
「ただで受けたのだからただで与えなさい」という言葉はかなり厳しい言葉に聞こえます。でも、本当にそうでしょうか。イエスが「ただで受けた」というのは「権能」の話です。病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を受けている人を清くし、悪霊を追い払いなさい、ということに関してです。自分が受けた権能を、惜しまず与えなさいということです。なぜならそれは「ただで受けた」ものだから、人々のために使うのです。今日の朗読に含まれてはいませんが、そのあとに「働く者が食べ物を受けるのは当然である」と続いていて、イエスも「なにももらわずに働き続けよ」と言っているわけではないのです。これは大事なことです。だからこそ使徒たちは、様々な街を巡りながら癒しを行い、また多くの人の世話になってきました。そうでなければこれほど多くの地にイエスの話が伝わったわけはありませんから。そしてその流れは今のわたしたちのところにまで伝わっています。
「これは使徒たちの話だからわたしには関係ない」と思われるかもしれません。「自分ではなく、牧師たちの話だ」とも思うかもしれません。でも、それは違います。なぜなら、わたしたち一人一人にも、イエスの与えた権能の一部は受け継がれているからです。堅信式の時、手を置かれたときに、わたしたちに注がれた聖霊がそれです。なによりわたしたちは「神さまの恵み」をいつも受けています。しかもただで。わたしたちは、自分に与えられたものを「独占」しているわけにはいきません。誰かに与えなくてはならないのです。「わたしは今、恵みを受けている」と感じられますか。その恵みを感じてこそ、恵みを周囲に与えることもできます。それが宣教の第一歩です。
6/7
6/7 「三位一体の真理」 マタイ28:16~20
今日は三位一体主日。聖霊の降臨によって三位一体の神の位格がすべて揃ったお祝いの日です。旧約聖書からは天地の創り主である父なる神について、使徒書はコリントの信徒への手紙から、パウロが残した三位一体のあいさつ。そして福音書はマタイの最後からイエスによる大宣教命令と呼ばれる部分です。これも、三位一体の神の信仰が基本になっています。
「三位一体」、三つの位格がそれぞれ等しく、また一つであるということは、正直とても分かりにくい話です。ましてやそれを誰かに伝えようと思うとかなり難しいですよね。わたしも洗礼の準備の際にお話をするんですが、なかなかうまく伝えることができないという思いがあります。なんというか、いくつかのたとえ話でお話しするのですが、どうにもこうにもしっくりこないのです。なかなかわかりやすい表現にすることができない、ということでいつももどかしく感じています。特に宣教を考えると、やはり教会の様々なことを「わかりやすく」人に伝えることが大事だと思っていますからなおさらです。もちろん、神さまのことというのは学んでも学びつくせないくらい奥が深いものですから、最初の入り口はできるだけわかりやすく、そして自ら興味を持って神さまの神秘に分け入っていく過程で、難しいことにも取り組んでいくのだと思うのです。
しかし一方で、神さまのことを「全部わかりやすくしてしまうことはない」とも思います。特に三位一体は「神秘」であり「真理」です。三位一体という言葉はよく使われるし、よく目に触れる表現です。しかしながら、実は一番簡単だと思うこと、よく目にするもの、最初の学ぶこと、シンプルにすることこそが難しいというのはよくあることです。「三位一体」という言葉は、別にクリスチャンじゃなくても使うものです。しかも、教会的な使い方とは微妙にずれていることがあるからこそ分かりにくいのかもしれません。バラバラなものをただ3つ集めて「三位一体」というのはちょっと違いますから。
「三位一体」は難しいものです。すぐにわかるわけではありません。しかし、まったく意識せずにいるわけにもいきません。だからこそわたしたちはクリスチャンとして「三位一体的な表現」に慣れることが大切です。パウロのあいさつのように「主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」という言葉を使うこと。祈るときに「父と子と聖霊によって」という表現を取り入れること。特にお祈りの言葉は三位一体的な表現が、形を変えながら随所に使われています。それを探して意識してみること。何より、「わたしたちに三位一体の真理を教えてください」と神さまに祈ることです。そして、イエスがわたしたちに命じたように、誰かに「三位一体の神」を伝えようとすること。自分の持っている中で言葉を尽くすこと。こうやってわたしたちは「真理」に分け入っていくのです。
5/31
5/31 「聖霊という栄養」 ヨハネ20:19~23
今日は聖霊降臨日。イエスさまの約束してくださった聖霊がわたしたちのところに降ってきた日です。使徒言行録にある「炎のような舌」の色に合わせて、今日の祭色は「赤」です。福音書は復活したイエスが弟子たちに「聖霊を受けなさい」という場面から読まれています。
「霊」というとわたしたちはどんな印象を受けるでしょうか。聖書でも「霊」と「肉」を対比する表現もあるように、「実体のない」とか「精神的な」という、なんというか「見えないもの」という印象があるのではないかと思います。「霊」という漢字は「みたま」とも読むようです。また、「生霊」とか「亡霊」という使い方からすると「人間の中にあるもの」もしくは「あったもの」とも考えられるのかもしれませんね。人間の中にあるものですが、人間から離れると怖い存在になるようです。
イエスは弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言って聖霊を与えています。そして、神さまも洗礼を受けたイエスのところにハトのような姿の聖霊を送り、多くの人々の上に炎の舌の形をとった聖霊を送っています。「霊」というのは、わたしたちのうちにあるのですが、さらに外から与えられるものでもあるようです。
人間というのは「肉」と「霊」によって動いているものです。体というのは様々なトレーニングで鍛えることが可能ですし、様々な場面で鍛えることが推奨されています。様々なトレーニングのための本が世の中にはあふれていますし、オリンピックのような競技会があちこちで行われ、勝者が表彰されるのは普通の光景です。しかし一方でそういった「肉体的に強い」とみなされる人たちが、精神的に動揺し失敗を繰り返してやがて消えていくというのもよくある話です。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とイエスは悪魔に抵抗して言いました。わたしたちは「肉体」だけではなく「霊」も大切にしなくてはなりません。「肉」を維持するだけでなく、「霊」にも栄養を与えなくては、わたしたちは生きていけないのです。実際、肉体の疲れは目に見えますが、霊の疲れはなかなか目に見えません。わたしたちはお腹が減ればパンを食べることは簡単です。しかし「霊」にはなかなか栄養を与えていなかったりします。その「霊」に与える大事な栄養が「聖霊」の力です。「霊」が力を受けると、わたしたちは満たされます。だからこそ、わたしたちは「聖霊」の力を求めなくてはなりません。
「聖霊」はわたしたちに力を与えてくれます。そして今日は、その「聖霊」が弟子たちに与えられた日です。また、「聖霊」はわたしたちにも与えられています。洗礼を受けた時、わたしたちのところに聖霊はやってきました。それ以来「聖霊」はわたしたちのところにずっといます。みなさんはその「聖霊」を感じているでしょうか。「聖霊」を自分のところにいるものとして感じられているでしょうか。「聖霊」を感じましょう。「聖霊」がもたらしてくれるのは神さまの力であり、わたしたちの「霊」にとっての栄養です。栄養を与える第一歩は、聖霊を感じるところからです。「聖霊」を受けて、歩みだしましょう。
5/24
5/24 「み名によって守られる」 17:1~11
今日の福音書は「イエスの祈り」。逮捕される直前、イエスが神さまに祈りを捧げます。イエスは父なる神に「聖なる父よ、わたしに与えてくださったみ名によって彼らを守ってください」と呼びかけます。先週の木曜日が「昇天日」で、イエスさまは天に帰られています。そして、聖霊降臨日は来週ですから、聖霊もまだ下ってきていない。少し心細い感じのする時期でもあります。だからこそこの「神さまどうか人々を守ってください」というイエスの祈りが聖書朗読の個所として選ばれているのでしょう。また、昇天日から聖霊降臨日までの11日間に、2016年からTHY KINGDOM COME(み国が来ますように)というお祈りのキャンペーンが行われています。イエスとともに「み国が来ますように」と祈ってみましょう。
イエスの言う「わたしに与えてくださったみ名」とは「イエス」という名前のことです。日本語ではイエスと表記することが多いですが、英語だとジーザス、ポルトガル語だとジェズスが近いでしょうか。ちなみに、旧約聖書に出てくるヨシュアはヘブライ語読みです。ヨシュアとイエス、実は同じ名前なんですよね。そして「イエス」の名前の意味は「神さまは救い」です。「神さま」、天の父なる神こそがわたしたちの「救い」である。わたしたちを守ってくれる。そんな意味が込められた名前です。だからわたしたちは神さまにお祈りするとき「イエスさまの名前によって」祈ります。イエスの名前を呼ぶということは、「神さまこそがわたしを助けてくれる」という思いを表明することになります。イエスさまの名前を呼ぶことは、最も短い祈りたりえます。
イエスの言う通り、イエスさまはもはやこの世にいません。天の国に帰られました。でも、神さまがわたしたちに聖霊を送ってくださったことで、わたしたちは守られています。それに対してわたしたちが何をするのかと言えば「み言葉を守る」ということです。わたしたちに与えられている「み言葉」、「聖書」はわたしたちの近くにあります。わたしたちはそれにいつでも触れることができます。考えてみれば、イエスさまの生きていたころ、いつでも「み言葉」「聖書」を読むことができた人はそう多くなかったでしょう。識字率が低かったこともありますし、本が高価だったということもあります。ましてや、普段使っているのと違う言語で書かれている文章を読むというのは大変なことです。だからこそみんなが教会や会堂に集って朗読を聞いたり、解説を聞いたりすることでみ言葉に触れていたのです。しかし今はどうでしょうか。誰でもみ言葉、聖書に触れることができます。本文を読むこともできますし、この2000年の間に、多くの人たちが積み上げてきたイエスさまのみ言葉についての解説を読むこともできます。また、ネット配信などで映像としてみることもできます。とってもみ言葉にアクセスしやすくなって、しかも本当に目移りするくらい色々なものがある。すごく幸せだと思います。そしてそれこそ、神さまがわたしたちを絶えず守ってくださっているという証なのだろうと思います。
イエスさまの御名によって守られていることを感じ、様々な手段でみ言葉に触れ続けましょう。今、こういった時期だからこそ、定期的に神さまのみ言葉にアクセスすることが大事なのだと思います。
5/17
5/17 「イエスさまを通して栄養補給」 ヨハネ15:1~8
イエスは自分のことを「ぶどうの木」と表現します。そして、わたしたちのことを「その枝である」と言います。ぶどうの木は毎年枝をどんどん伸ばして大きくなり、その枝に花が咲き実を付けます。どんどんどんどん伸びるので、ぶどうを育てる際はある一定の長さまで来ると伸ばすのをやめて、枝を切り、成長を止めます。そうやって成長に使うエネルギーが実に行くようにする。だからおいしいぶどうの実がなるとも言えますね。特にワイン用のぶどうの木などは、枝をほとんど切ってしまい、栄養が全部実に行くように成長させます。イエスさまも「実を結ばない枝は神さまが取り除いて、実を結ぶように手入れをしてくれる」と言っています。わたしたちの中の実を結ばない部分を神さまが手入れして、実を結ぶようにしてくれるのです。
ぶどうの木は根から水や栄養を吸い上げて成長します。もちろん、ぶどうを育てている人は肥料をやったり、水をやったりすることもあります。わたしたちは成長する枝ですから、実はイエスさまという幹のほうから栄養がどんどん送られてきているのです。さて、どうでしょう。わたしたちはイエスさまから送られてきた栄養を感じているでしょうか。
そもそもイエスさまから送られている栄養ってなんでしょうか。いろいろ考えられますよね。まずその一つは、わたしたちに与えられている「聖書」です。畑で最初に施す「元肥」と言ってもいいでしょう。わたしたちの成長の基礎ともなる部分です。これがなければ始まりませんから。そしてその「聖書」に「イエスさま」という幹を通していつもわたしたちは触れています。クリスチャンはこれが大切です。そこから栄養補給をしていないのなら、わたしたちは枝として伸びることができないし、ましてや実を結ぶこともできません。
それ以外にもたくさんの栄養があります。一番わかりやすいのは毎週の礼拝ですね。実は礼拝は様々な要素を内包した簡単な栄養摂取方法です。他には例えば信仰的に関する学びをすること。「わかっている」と思っていても日々新たな発見があります。また、教会やキリスト教が背景にある文学や映画などを見るのもいいでしょう。それからバッハなどのミサ曲を聞くのもいいですね。ミサ曲というのは聖餐式のチャントを演奏しているようなものです。「イエスさまだったらこんなときどうするだろう」と考えてみるのもいいですし、一人だったら鼻歌で聖歌を歌っているのもいいですね。もちろん誰か困っている人のために働くというのもいい。イエスさまという幹につながっているのを実感するときはいろいろありますが、やはりわたしたちがこういった信仰的な「栄養」を摂ろうとするときのような気がします。
今、教会との距離をなかなか近く保つことの難しい時期が続いています。でも、わたしたちがイエスさまという幹につながっていることを、様々な方法を通して実感することで、結びつきが強められる、そんな時期でもあるのです。
5/10
5/10 「イエス道」 ヨハネ14:1~14
イエスは自分のことを「道」であり、「真理」であり、「命」である、と言います。日本では昔から様々なものを「道」と表現してきました。例えば「華道」「茶道」など、それから「柔道」「剣道」などの「武道」、さらには「修験道」なんてのものもありますね。必ずしも重なるわけではありませんが、日本風に言えばイエスのこと、キリスト教は「イエス道」であると言えます。そしてクリスチャンというのは、「イエス道」の門下生であるというわけですね。
「イエス道」の目的は、その道を通って救いに至ることです。その「虎の巻」は「聖書」です。ここに救いに必要なすべてが記されているからです。イエスもまた「今からあなた方は父を知る。いや、すでに父を見ている」と表現しています。わたしたちにはもう、聖書という形で神さまが示されています。
さまざまな「道」を進むためには「稽古」が必要です。「武道」は言わずもがな「華道」も「茶道」も「稽古」として何回も同じことを繰り返しますね。そうやって一つ一つ身に着けていくわけです。「イエス道」を学ぶわたしたちにとっての「稽古」の方法はいくつもあります。みんなで行う稽古の代表が「礼拝」です。みんなで心を合わせて礼拝をすることによって、わたしたちは救いの道に至ります。また、一人で行う稽古の代表的なものは「祈り」そして「聖書を読むこと」です。「なかなか習慣にならない」という人もいるかもしれませんが、「イエス道」では「折に触れて祈ること」と「毎日聖書を少しずつ読むこと」が推奨されています。
今、コロナウイルスの流行で外に出ることも難しく、気の滅入る日々が続いています。しかし、祈ることでわたしたちは神さまとつながり、聖書に触れることで神さまと共に世界に思いを巡らすことができます。また、聖書が難しければ、聖書について書かれた本に触れるのもいいですね。今の「自粛」の期間は「イエス道」の個人の「お稽古」の時間でもあるのです。
5/3
5/3 「入門編」 ヨハネ10:1~10
今日の福音書は「羊の囲い」のたとえ。そしてイエスは自分がその「門」であるといいます。この羊たちの囲いの「門」、要するに天の国の「門」がイエスである、ということですね。イエスのところを通って天の国に入る、そうでない者は盗人であり強盗であるとイエスは繰り返します。
なんでもそうですが、その中に「入る」時、「入り口」から入るというのは大切なことです。自宅に帰るのに窓から入る人はいませんね。いや、思春期の子供がこっそり窓から抜け出して、というのはあるかもしれませんが、普通ではないことは確かです。また、例えば「幼稚園に入園する」なら、幼稚園に連絡して「入園させてください」と言いますし、場合によっては「試験」が入口になりますね。学校なんかもそうですよね。華道や茶道などの芸事、空手などの武道を始めるとき、師匠を訪ねて「入門」しますね。学校の勉強なんかも「入門編」なんて参考書が沢山あります。そして大体のものは「これを理解しなくてはならない」という「入り口」があるものです。
宣教について考えるとき、「教会の入り口」とは何だろうか、ということは避けて通れません。入口はいろいろあるように見えます。「日曜学校がきっかけだった」「親が通っていた」「幼稚園に行っていた」「本を読んだ」「友達に誘われた」などなど、たくさんの話を聞いたことがあります。今だったら「ホームページを見た」なんてのも含まれますね。しかし、それらの入り口を入って進んでいくと、「門」があります。それは「イエスさまが救い主である」ことを受け入れることです。数学を学ぶのに数字を知らなくてはいけないように、英語を学ぶのにアルファベットを知らなくてはいけないように、教会はすべて「イエスが救い主である」ことが前提になっている世界だということです。その入り口を通り抜けると、大きな世界が広がっています。
それは「入り口」であることを忘れてはならないと思います。「宣教」を考えるとき、その「入り口」まで連れてくることだけが重視され、その先のことはなおざりにされていることが多いように感じます。「イエスさまが救い主である」ことを受け入れて初めて、世界が広がっていくのです。門の入り口にとどまって覗いているだけではその建物の全容はわかりません。中を実際に歩いてみなくてはわからないのです。神さまの国には、わたしたちにとって大切なたくさんのものが広がっています。
そう考えるとなんかとてもしんどいことのように感じられるかもしれません。しかし、入り口にいるのはイエスさまであることを忘れてはいけません。イエスさまが「誰でも来なさい」と入り口を開けてくれているので、その入り口に来る人誰もが中に入ることができます。そして、わたしたちは中に先に入っている者として、入り口から中へ、もっと奥へ、入ってきた人たちを連れていく役割があります。そのためにはわたしたち自身も入り口にとどまらず、学びによってもっと先まで分け入ってみることが大事です。
4/26
4/26 「気が付かない同行者」 ルカ24:13~25
今日の福音書は「エマオへの道」のお話。復活したイエスがエマオへ行く道を歩くイエスの弟子クレオパともう一人のところに現れた時の様子です。二人はイエスと、イエスの出来事について語り合い、宿に泊まって食事もします。出会った弟子たちは最初イエスであると気が付きませんが、食卓でパンを割く様子でイエスとわかります。しかしその時にはイエスの姿は見えなくなってしまいました。ルカによる福音書に載っているこの話は、とても貴重な証言です。なぜなら、使徒たち以外の弟子たちにも復活のイエスが現れたという話がほとんどないからです。復活のイエスは誰のところにでも現れる。もちろんあなたのところにも、という意味で、わたしたちにも大切なお話です。
このお話で重要な点はいくつかありますが、一つは「クレオパたちはほとんど最後まで気が付かなかった」ということです。これは、気が付かないでいろいろ熱弁してしまい、後から恥ずかしかったとかそういうことではありません。むしろクレオパたちは「わたしたちの心は燃えていたではないか」と、自分たちの様子を肯定的に振り返っています。イエスのことについて語り合っていたことが、またその中で聖書についてイエスが語っていたことが、自分の心を燃え立たせるという経験をしたということです。しかも、それがイエスとわからなくてもです。仮にですが、わたしたちがカンタベリー大主教と知っていて聖書について語り合ったとしたら、多分畏れ多いと思ったり、心が燃え立ったりするでしょう。じゃあ、それがその辺の人だったらどうでしょう。心は燃え立ちますか。もし、前者は大歓迎で、後者はありえないとするのであれば、わたしたちは「信仰」よりも「立場」のほうが重要だと思っているのかもしれませんね。それが誰だかわからなくても、イエスについて真剣に語るなら、心は燃えてくるものだと思います。
イエスの復活にじかに触れた人々と違って、わたしたちはイエスが目に見えなくなって久しい時代に生きています。イエスと直接会わなければ心が燃え立たないのなら、信仰によって熱くされないならば、わたしたちのところまで信仰は伝わらなかったに違いありません。だから、真剣に聖書に向き合うとき、わたしたちの心は燃え立ちます。なぜならそこには「見えざる同行者」としてのイエスがいるからです。わたしたちはイエスと直接会っているわけではないのですが、イエスについて語ると心が燃えたような気になるのは、イエスが見えないけれどもそばにいるからです。わたしたちはそのことを知っているはずです。しかし、多くのもので目が曇ってしまい、もしくはうろこのようなものが沢山ついてしまって、イエスの存在を感じられなくなってしまっていることがあります。わたしたちの心は燃えているでしょうか。それ以前に、わたしたちは「自分にとってのイエスは」とか、「イエスさまについて」誰かに語る機会があるでしょうか。そういう機会を大切にしているでしょうか。いつもではなくてもいいですが、時々、自分にとってのイエスさまについて考え、そして誰かに語る機会、「証」をすることを大事にしてほしいのです。
4/19
4/19 「トマスの迷い」 ヨハネ20:19~31
今日の福音書は、イエスの復活後の話。イエスが弟子たちの閉じこもっていた家に現れた時のお話です。そして、最初にイエスが現れた時いなかったトマスはそのことを疑います。しかし再び現れたイエスと出会い、イエスの復活をようやく信じるのです。その後、伝承によればトマスはインドにまで宣教に行き、殉教の死を遂げたと伝えられています。トマスは復活にイエスに出会うことによって、宣教を続ける力を得たのです。
これだけ強固な信仰がありながら、どうしてトマスは疑ったのでしょう。トマスにとって信頼できる、共に過ごしてきた使徒の仲間たちが「わたしたちは主を見た」と言っているのに、「いや、見なければ信じない。指を釘跡に入れなければ信じない」と言っていたのです。しかも、どうしてそんなことが聖書に残されているのでしょう。「みんなが迷いなく信じた」と書き残したほうがいいのではないでしょうか。
一つは、これはトマスの信仰が成長していく過程であるということです。どの使徒たちもそうですが、彼らの失敗譚が聖書のいたるところに記されているからでもあります。使徒たちは迷いながら、疑いながらもイエスに従い、最後はイエスに従いつくす道を選んだのです。また、この「復活のイエスに出会った」ということが転機でもあったでしょう。これまでの「イエスの後をただついていけばよかった」時期から、「復活のイエスが共にいてくれることを信じて進む」時期への変化です。そのことは、わたしたちにも言えることです。イエスさまはもはやわたしたちの目の前にいるわけではありませんが、イエスさまが共にいてくれることを信じて、わたしたちは生きています。使徒たちも迷ったのだから、わたしたちも迷っていいのです。それが大事なことです。
もう一つは、これはトマスの、いわば「わがまま」であったように思います。「ほかの使徒たちが出会っているのに、自分は会っていない」のが不満であったこともあるでしょう。何かについて「自分だけが知らされていない」と思うと、人は起こったり不貞腐れたりするものです。使徒たちも人であるなら、そういうこともあるでしょう。だからこそイエスは「見ないのに信じる人は幸いである」と言ったのではないでしょうか。自分は見ていなくても、周りの人の話を聞いて信じることができるはずだよ、ということです。
トマスのこの話は、使徒たちもまた人間であるということをわたしたちに知らせると同時に、イエスに従う道は、行きつ戻りつしながらでもいいのだ、と力を与えてくれます。迷いなくではなく、迷いながら、「それでも」イエスに従う道を大事にしましょう。イエスが必ず、その道を一緒に歩いてくれています。
4/12
4/12 「主の復活」 マタイ28:1~10
今日はイースター。イエス様の復活の日です。教会で一番大事な日です。残念ですが今年のイースターは、礼拝のできない地域も多く、一種異様な雰囲気になってしまいました。わたしたちが今、ここで礼拝をすることができているのはとても幸せなことです。だからこそ、教会に来られない人、各地で礼拝できない人々の分も祈りましょう。
どの福音書の復活の物語も復活したイエスが登場する前に出会うものがあります。それは「空っぽの墓」です。マグダラのマリヤをはじめとした婦人たちが墓を見に行くと、墓の蓋であった石が横に転がされていて墓が空っぽだったというのです。そしてそこで天の使いに出会い「イエスはここにはいない。復活した。ガリラヤに行けば会える」と告げられるのです。イエスの復活において一番大切なのは「復活したイエス」に出会うことではありません。「空っぽの墓」に出会うことなのです。
「空っぽの墓」はいったい何を示しているのでしょうか。実に様々なことが考えられます。今日読んだ福音書の少し前に、祭司長やファリサイ派の人々が「弟子たちがやってきて死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』と言い触らすかもしれない」と恐れて番兵を置いた、という記述がありますが、「弟子たちの自作自演だ」と意地悪く考えることもできます。
「ある」はずのものが「ない」というのはわたしたちを不安にさせます。わたしたちはこの新型コロナウイルスの騒動でそれを思い知りました。店からマスクが消え、消毒液が消え、ペーパータオルが消え・・・、普段わたしたちが目にしていたものが消えていきます。当たり前にあったスポーツやコンサートなどの娯楽も消えています。ほかにも様々なものが「ある」はずなのに「ない」のです。空っぽの墓を見つけたマグダラのマリアをはじめとした婦人たちも、家に閉じこもっていた弟子たちも「不安」の中にあったことでしょう。そこに天使が現れて「イエスは復活して、ガリラヤに行けば会える」と言ってくれましたが、少し不安は収まったけれども、消せない不安がそこにはあったことでしょう。しかしそこにイエスが、復活のイエスが現れます。婦人たちも弟子たちも、不安から解き放たれたのです。「空っぽの墓」は「不安」に満ちた復活のはじめです。わたしたちは不安であってもいいのです。しかし、その「墓」、「不安」にわたしたちが立ち向かうとき、イエスさまはわたしたちを助けてくれるはずです。「不安」を抱えたまま、イエスさまを見つめましょう。それを続けることで、イエスさまはわたしたちのそばに「復活」します。イエスさまの「安心」がわたしたちのところにやってきます。わたしたちの心に、イエスさまを復活させましょう。イースターおめでとうございます。
4/5
4/5 「イエス・キリストの受難」 マタイ27:1~54
今日の長い長い福音書は、イエスの受難。復活前主日には毎年各福音書からイエスの受難の個所が読まれます。今日から来週の復活日までの1週間は、わたしたちキリスト者にとって信仰の中心となる最も大切な1週間です。また、今日歌う聖歌「ユダのわらべ」は、イエスが受難の1週間前にエルサレムに入ったとき、「ホサナ、ホサナ」と大歓迎されたときの歌です。「ホサナ」とは「神さま、お救いください」という祈りの叫びでもあります。イエスが神の子であり、支配を打ち払うメシアであることを期待して人々は「ホサナ」と叫びました。ところが1週間しないうちに、今度は先ほど読んだように「十字架につけろ」と叫んでいたのは同じ人々です。いつも読むたびにイエスに対するこの評価の変化はいったい何だろう、と心が苦しくなります。「大歓迎」は簡単に「十字架につけろ」になるのでしょう。だからこそ、先ほどお配りしたしゅろの十字架は、「ホサナ」と打ち振っていた「葉」で、「受難」を示す「十字架」を作ることで、わたしたちが簡単に人を十字架につけてしまうということを忘れないように、祈りの友として手元に置いて祈る、という意味があります。
おりしも幼稚園は新年度を迎えています。また、外はすっかり春の陽気で、地面を見れば雪は解け、ところどころ球根が芽を出し始めています。「新しい季節が始まる」という期待感がそこにはあります。しかし世界に目を向けてみれば、今年は特に新型コロナウイルス感染症の流行があり、教会もまた不便を強いられています。世界の受難はまだ終わっていません。それどころか「これは始まりに過ぎない」という予想もあるくらいです。ウイルスが目に見えればいいのでしょうが、どういう動きをしているか目に見えないことが不安につながっています。それもあるのでしょうか、対策を立てて実行していても「不十分なんじゃないか」「安心できないんじゃないか」という思いがどこかにあります。特に立場上対策を示さなくてはいけない人々が「対策が不十分だ!」と、あたかも「十字架にかけろ」と言われているような状況に置かれないよう、わたしたち一人一人が「自分の十字架」つまり、自分自身の行動を律することで助け合っていくしかないのかなと思います。
今日から受難の1週間「聖週」が始まります。どうぞイエスさまの受難を覚えて祈りましょう。そして、開けない夜はありません。この世界の受難も終わりを迎えるよう、祈り続けましょう。わたしたちにできることをしていきましょう。