日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

11/3

11/3 「主はこのようなわたしにすら目を留められた」  ルカ19:1~10

 徴税人ザアカイの詳細な描写はありませんが、徴税人で金持ちであることから、人々にはあまり好かれている存在ではなかっただろうということが何となくわかります。しかも見ようとしたけれども群衆にさえぎられて見られなかったということは、本人が嫌われているのをわかっていて引いたのか、それとも誰も通してくれなかったのか、とにかくイエスの近くに行くことができなかったということです。しかし、一計を案じて木に登ったザアカイの人生は、イエスがザアカイに話しかけたことから大きく変化していきます。ザアカイ自身も、まさか自分が声をかけられるとは思ってもみなかったことでしょう。しかし、周りも自分も「ふさわしくない」と思っていた人に、イエスは目を留めるのです。
 わたしたちは、「行動の結果」として「報酬」「成果」を受けることに慣れています。基本的に社会はそのようになっているからです。もちろん自分ではどうしようもない事の結果を引き受けることもあります。例えば生まれた場所や時代、性別などは自分でどうにかできることではありませんね。しかし、そういったどうしようもないこと以外は自分でどうにかできることも多いものです。「自分の行動の結果として今の自分がある」というのは、多くの人がうなずけることだと思います。ところが、今回のザアカイの話もそうですが、聖書の中の物語は、その人が何かしたからいい結果が生まれるというような「因果応報」にはなっていないのです。その順番は逆転しています。
 ザアカイは、イエスが目を留められたから、「財産の半分を施します。だまし取っていたら4倍にして返します」という行動に出ます。癒された人々も、何かをイエスにささげたからではなく、「癒してほしい」と願っただけで、それが与えられます。旧約聖書における多くの人びともそうです。一つだけ行動したとすれば、無理だろうと思っていてもイエスに目を留めてほしいという「願い」を明らかにしたというだけのことです。木に登ったザアカイもそうでしょう。そして、その結果として様々な事を成し遂げることになるのです。「救い」が先にあって、「行動」が後からついてくるのです。「主がこのようなわたしにすら目を留められた」からこそ、様々に行動することができるようになるのです。
 教会は行動の結果としての名声を求めるところではありません。イエスさまが、神さまがわたしを見てくださっている、ということを感じる場所です。教会でそれを感じたからこそ、さぁ、わたしたちは社会に派遣されて、様々な事を成し遂げるのです。

10/27

10/27 「わたしはちゃんとやってきた」   ルカ18:9~14

 今日の福音書は短いのですが、「祈ること」そして「クリスチャンとしての姿勢」に対して大きな示唆を与えてくれるイエスの教えが詰まっている箇所だと思います。ファリサイ派と徴税人の真逆の姿勢が対比されいますが、何もこれは「態度」だけのことではありません。なぜなら、「罪人のわたしを憐れんでください」という祈りをしていながら、内心で「周りのやつらに比べてわたしはちゃんとやっている。おかしいことはしていない。わたしの祈りこそ聞かれるべきだ。聖書に書かれているのだから」と思っているのなら、それはこのたとえ話のファリサイ派の人と同じことです。
 わたしたちの「祈り」というのは神さまとの対話です。口に出している言葉だけでなく、わたしたちの心の中にあるどんなことでも、神さまに伝わっています。口で「罪人のわたしを憐れんでください」と言いながら内心で別のことを思っていても、人にはわかりませんが神さまには伝わっています。
人は「わたしはちゃんとやってきた」という思いを抱きがちです。当たり前です。なぜなら特に、現代は承認欲求の時代です。「わたしはこれだけやってきたのだ。だから報われてもいいではないか。周りがわたしの価値を認めるべきだ」という「情念」が、表には見えないけれども人々の間に漂っている時代です。そしてそれをみんなが上手く覆い隠そうとしながら、隠しきれずにいます。教会の中ですら「○○の方がすごい」「それを知っているわたしが偉い」という言葉が飛び交います。それだったら、その内心をそのまま神さまにぶつける方が良いのです。「わたしを認めてください」と。
 しかしはっきり言います。神さまはあなたを認めています。何をしなくても、何もできなくても、どんな姿でも認めています。実績も、経験も、化粧も、ファッションも何もいりません。ただそのままのあなたを認めているのです。欲望も、汚い部分も、浅ましい部分も含めて神さまの前ですべてを出すことができますか? 人の前では無理でも、自分の「欲求」に向き合っていますか。そしてそれをそのまま神さまに出していますか? 信仰はそこに帰ってくるのです。神さまの前で取り繕うのならファリサイ派の祈りと同じだと知りましょう。あなたの心をすべて神さまに広げましょう。もう一度、わたしたちの信仰の原点に立ち返りましょう。

10/20

10/20 「お母さんお母さんねぇお母さん」   ルカ18:1~8a

9月の一か月間、幼稚園バスの運行のお手伝いをしました。朝早いのもありましたが、毎日3~4時間バスに乗り、子どもが乗っているというので運転に気を使いましたので、たいそう疲れました。また、制限速度をしっかり守って走ると、周りの運転の荒さに驚きます。さらに、バスの中では時々子どもたちが大はしゃぎ。こっちの運転の状況にもかかわらず、おしゃべりをしてくる子ってたくさんいます。「ねぇチャプレン聞いて?」と何度となく話しかけられました。かわいいとは思うんですが、状況によってはとても話を聞ける状態じゃないこともあります。が、子どもには関係ないんですよねぇ。「ねえねえ聞いて聞いて」と話しかけてきます。一回「お母さん」と話しかけられた時にはびっくりしてしまいましたけれども、子どもってよくありますよね。
 今日の福音書は「やもめと裁判官」のたとえ。神さまに繰り返し頼むことの大切さ、それも「しつこく」頼むことの大切さを語ったたとえ話です。ましてや神さまはこの「不正な裁判官」などではなく、「公正な裁判官」ですから、繰り返し願えば必ず聞いてくれるのだ、ということなのです。職場や家庭などでは「一回言ったらわかるだろう」ということで、「言った」「言ってない」とか「何回言ったらわかるんだ」というようなトラブルがよくおこります。でも、神さまに対して「繰り返し」語りかけることが大切ならば、ましてや人に対して何をかいわんや、というところでしょうか。
わたしは、この「何度も」話しかける姿勢というのは、子どもがお母さんに話しかける姿勢に通じるものがあります。家の家事の中で何が大変かというと、子どもが「ねぇねぇお母さん聞いて聞いて、お母さんお母さんお母さん。ねぇねぇ。おかーさーん」と何度も何度も話しかけてきてやってることが滞ることだ、というニュースの記事を見かけたことがあります。先ほどの幼稚園バスの中でもこれなのですから、幼稚園の先生がその一部を肩代わりしているとはいえ、きっと家ではそんな感じで休まらないだろうなぁ、と目に浮かぶようです。特に、わたしのことまで「お母さん」という子どもなら、どれだけ家で「お母さんお母さん」と言っているんだろうと、ちょっとお母さんに同情してしまいました。イエスさまの「執拗に頼む」というのは、このくらいのことです。確かにそのくらい話しかけられたら、「はいはい、どうしたの?」と、とりあえず聞く姿勢は取ってしまいそうです。聞きたいというよりちょっと「めんどくせえ」と思ってたりするのは内緒で。逆にこういった語りかけがない子も、それはそれで心配なんです。子どもには絶対そういう欲があるはずで、その欲を抑えている、聞き分けが良いのは、子どもの発達にあまりよくありませんから。
 わたしたちは神さまに「執拗に」「おかーさーん」くら願っているでしょうか。祈りを口に出しているでしょうか。「神さまも大変だから」とか考えて抑制してはいないでしょうか。恥ずかしいとか思っていないでしょうか。わたしたちの望みを「しつこく」神さまに届けることを大切にしていたいと思います。

10/13

10/13 「神さまを賛美する」    ルカ17:11~19

 わたしたちは「感謝」することが大切だということをよく知っています。しかしながら、それを日常的に表すというのは難しいもので、気を付けているつもりでも「感謝の気持ちが薄い」と言われてしまって反省しきりです。
 今日のイエスのたとえは感謝・賛美の難しさ、特に「神さまへの感謝」の難しさを見せてくれます。ましてや「神さまへの賛美」となるとなかなか言葉に表せない人も多いのではないでしょうか。イエスがいやした「重い皮膚病」というのは、それが体にあるだけで町の中から出なくてはいけないほど人々から遠ざけられる原因となるものでした。イエスはその10人を「どうかわたしたちを憐れんでください」という声に応えて救ったのです。きっとみんな神さまへ感謝したことでしょう。とても喜んだことでしょう。ところが神さまを賛美しながら戻ってきたのは1人だったというのです。
 わたしたちは祈る時、「〇〇してください」と祈ることが多いものです。それ以外だと「〇〇でありがとうございます」という感謝の言葉が多いでしょうか。でも「神さまあなたを賛美します」「ほめたたえます」という祈りの言葉って意外と聞きません。下手したら「ハレルヤ」の方が、しかも教会の外でよく聞くかもしれませんね。(「ハレルヤ」「アレルヤ」というのは、「神さまをほめたたえよ」という意味です)
 何かをしてもらったことへの応答として感謝の気持ちを表すというのは普通のことですが、なにもしないで感謝される/することはあまりありません。しかし「賛美」は違います。「賛美」は、わたしたちが純粋に、掛け値なしに「すばらしい」と思う気持ちの表現であって、何かをしてもらったからという応答的な意味ではないのです。わたしたちはクリスチャンであるならば、本来、神さまへの「感謝」というだけでなく、「賛美」に進んでいかなくてはならないのだと思います。神さまはこの世界を造ってくださり、わたしたち一人ひとりをお造りになった。そしてイエスを送り、十字架の死から三日目に復活させ、すべての人に永遠の命の門を開いて下さった。そんな素晴らしい神さまをほめたたえよう。そんな思いを表すことは、キリスト者の生活にとって大切な事です。ですからわたしたちはまず、普段の祈りの言葉に「賛美」を加えることから始めてみましょう。神さまに賛美。

10/6

10/6 「信仰者としての態度」    ルカ17:5~10

 クリスチャン(キリスト者)のことを「神さまのしもべ」ということがあります。なるほど、イエスはこう言っています。「一番偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」 また、イエスは多くの人々に仕えました。弟子たちの足を洗ったこともそうですし、人々の癒しもそうですし、何よりも十字架にかかったことが一番大切な事でしょう。「しもべ」=「仕える者」です。今日読まれた福音書においてイエスは「自分に命じられたことをみな果したら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と言います。ですから、クリスチャンとは「仕える者」のことであり、神さまから命じられたことを粛々と成し遂げます。しかも、人に知られずに成し遂げることも多いのです。イエスの時代から、名も知られない多くの信仰者たちの行いが教会を支えて、今につながっているのです。
 しかし一方で、現代はSNSの「いいね!」ボタンに象徴されるように「自己承認欲求」の時代です。様々なものが個人に帰され、「誰がやった」ということが重要視される社会です。どんな小さなことでも「匿名の誰か」ではなく「特定の誰か」が行ったということが大事にされます。そして何より、それに対する称賛が大事にされるのです。教会でも「これはわたしがやった」ということが大声で語られ、「わたしがいなければ上手くいかないじゃないか」という批判が相次ぎ、「匿名で」「こっそり」やっておく、ことは「損」であるかのようになってしまっています。「わたしがこれをしたんだから、これだけの報酬を受けて当然、これだけの称賛を受けて当然」という意識が教会の中にも瀰漫しているのです。
 教会ももちろん社会の中にありますから、そういった意識になってくるのは当然です。もちろん、様々な奉仕をして下さっていることに感謝するのは大切なことです。しかしその一方で「なぜ感謝しないのか」という感覚まで行ってしまうのなら、それは「信仰者としての態度」とは言えないでしょう。
 わたしたちにもし「からし種一粒ほどの信仰」があるのならわかるはずです。そして、わたしたちの信仰者としての態度を取り戻しませんか。粛々とみんなに仕えるというところに帰りませんか。わたしたちの承認欲求が満たされるのはSNSの「いいね」ボタンや、周囲からの名声ではなく、天の国で神さまから「しもべよよくやった」と言われることにあるはずです。そのことを今一度取り戻して、これからの歩みを続けていきたいと思うのです。

9/29

9/29 「門の外に向かって」   ルカ16:19~31

 今週の福音書は「金持ちとラザロ」のたとえ話。贅沢に暮らしていた金持ちと、その家の門前に横たわっていたラザロの立場が死後の世界に逆転するお話です。ラザロは金持ちの家の門の前に横たわっていた、ということは門の「外」にいたわけで、金持ちの暮らしている場所からは隔離された場所にいるわけです。門を閉めてしまえば、門の形によっては中が見えるかもしれませんが、そこに入っていくことはできません。生前の世界において、金持ちとラザロは「門」でくっきりと分けられています。それとは逆に死後の世界において、ラザロと金持ちは「大きな淵」で分けられています。わたしたちの「家の門」は「大きな淵」ともなるのです。
わたしたち一人ひとりにはそれぞれの生活があって、その生活は自分で築き上げてきたものです。もちろんそれは悪い事ではなく、それぞれの努力の結果です。また教会などの団体も、それぞれ歴史があり、多くの人々が関わって築き上げていくものです。国家なんかも同じですね。
しかし一方で、わたしたち自身の生活は、注意しないと「外に開かれる」ということがありません。このたとえ話の金持ちは、ラザロが見えていたのか見えていなかったのかわかりませんが、少なくとも特に関わることはなかったということはわかります。ラザロを連れて行ったのが「天使」だと書かれているということは誰も葬らなかったということです。金持ちが関わっていれば何らかの処置はされたでしょう。「門」が「淵」となり、ラザロと金持ちは区別されてしまっています。
わたしたちには「門」があります。誰もが持っています。その「門」が開かれるためには、門の外に目を向ける必要がありますが、わたしたちはなかなかすることができません。「門」の中で満ち足りることができるからです。しかし、イエスのたとえ話は、わたしたちの目が「門」の外に向けられることを要求しています。なぜなら、神さますら「門」が「淵」となって分かたれてしまったあとでは救いに来ることができないからです。金持ちは「ラザロが兄弟たちのところに行く」という奇跡を欲しましたが、アブラハムは「モーセと預言者に聞け」と突き放します。なぜなら、門で外が見えなくても、声は届くからです。わたしたちのところには「門の外」からの多くの声が届いています。その「声」によって、わたしたちは「門の外」の様子を知ることができます。もしその時、わたしたちが門を開いて手を差し伸べることができるなら、わたしたちの「門」は「淵」にならずに済むことでしょう。わたしたちの門の前にいるたくさんのラザロたちも、十分ではないかもしれませんが、必要な処置を受けることができるでしょう。
今日はバザーです。バザーの一つの大きな目的は「チャリティ」ということです。そう、わたしたちは自分たちの「門」を開けるためにバザーを行うのです。わたしたちの目が、多くのラザロたちのもとに届くように、今日一日を過ごしていきましょう。

9/22

9/22 「基本に忠実」    ルカ16:1~13

 「ごく小さなことに忠実な者は、大きな事にも忠実である」「他人のものに対して忠実でなければ、誰があなたにものを与えてくれるだろうか」とイエスは言います。確かにその通りなのでしょう。どんなことでも基本的な事から学んだり練習したりしていって、だんだん実践に進んでいくものです。スポーツなどは、ルールがわからないと試合の形すらできません。簡単な楽器、例えばリコーダーはとりあえず音を鳴らすことはできますが、指使いなどは練習が必要ですし、息の吹き込み方なども工夫しなくては上手になりません。トランペットやフルートなどは、そもそも基本の部分を練習しないと音すらなりませんよね。そして、ほとんどのことは「基本」が大事です。何をやっていても最初の基本に立ち返ることになります。
わたしたちはクリスチャンとして神さまを信じて生活しています。これは特に特別な技能がいるわけではありません。洗礼を受ける前、学びの時を持ったりしたとは思いますが、特殊な技能を要求されたことはなかったと思います。わたしも洗礼準備で、こういうことができるようになってくださいという技術的なお願いをしたことはありません。では、クリスチャンとして生きる上での基本、「ごく小さなこと」というのは一体なんだと思いますか。
「祈ること」確かに祈りは大切です。祈りは神さまと話すことであり、わたしたちの現在地を確かめることです。何より日々の祈りは、わたしたちを謙虚にしてくれます。「聖書を読むこと」も大切です。やはり神さまについて書いてあるのは聖書です。わたしたちが何度読んでも、その都度大きな発見がありますから、定期的に聖書を読む、できれば毎日、というのは大切な事です。「礼拝を守ること」これも大切です。やはり礼拝は神さまに出会うことであり、聖餐はわたしたちに生きる力を与えてくれます。何より仲間たちと定期的にあって励まし合うことは、わたしたちの生活を豊かにしてくれますし、気づかされることも多いものです。「ささげること」も大切です。物だったり、献金だったり、奉仕だったり、様々な形をとりますが、わたしたちがささげるのは、自分の生活が神さまに与えられていることへの感謝です。これらはクリスチャンの生活の基本です。
しかし、わたしたちが神さまを「信じて」いるからこそ、それぞれの行動に意味があります。先ほどあげたクリスチャンの生活の基本の、さらに根にあるのは「神さまを信じること」です。祈るから信じているのではなく、信じているから祈るのであり、信じているから聖書を読むのであり、信じているから礼拝に通うのであり、信じているからおささげするのであり、信じているから奉仕するのです。ですから、わたしたちはこれらのごくごく小さな日々のことに目を向ける必要があります。基本に忠実に、まず「神さまを信じて」日々を過ごしましょう。神さまに感謝しましょう。そして生活の基本をもう一度忠実に守ることを始めませんか。

9/15

9/15 「神さまの探し物」    ルカ15:1~10

 今日読まれた福音書は、三つの「なくしたものを見つける」話のうちの最初の二つです。「見失った羊」「無くした銀貨」が取り上げられていますが、どちらも「罪人が悔い改めること」について語られたものです。どちらのたとえ話も、「持ち主」=「神さま」が自ら、「無くしたもの」=「罪人」を探すところにポイントがあります。
 神さまってどんなイメージでしょう。何となく、わたしたちが会いに行くようなイメージってありませんか? 教会のことを「神さまのおうち」という言い方をすることがありますが、礼拝に「行って」神さまと出会う、というイメージがあります。神社とかお寺もそうですが、そういった宗教施設に、こちらが「出向く」、つまり、「神さまは動かない」というイメージが、わたしたちの中に少しあるんじゃないかと思います。
 確かにそれも一つの大切なイメージです。悪いことではありません。しかし、より重要なのは、わたしたちの神さまは「動く」ものだということなのです。神さまは「神殿」や「教会」にとどまっているのではなく、いつも人々の間にあったイエスさまのように、わたしたちのところに「出かけてくる」のです。先ほど、教会のことを「神さまのおうち」と表現しましたが、わたしたち人間はいつも家にいるわけではありません。家は帰るところではあるのですが、いつもいるわけではありません。わたしたちの信じる神さまは、引きこもりではなく、外を出歩かれる神さまなのです。
 「探し物は何ですか、見つけにくいものですか?」という歌が昔ありましたが、わたしたち人間は割とものを無くして、いつも探しているような気がします。思い返してみても、毎日何かを探しています。あれどこに置いたっけ? そういえばどこにしまったっけ? と全く探し物をしない人はいないでしょう。神さまも同じです。「無くなってしまったもの」=「人」をいつも探しています。しかし、見つける端から失われてしまい、その作業はなかなか終わりません。それでも神さまはいつも探し続けているのです。すべての人を見つけるまで終わりのない作業です。それでも神さまは倦むことなく探し続けます。
 銀貨は声をあげませんが、羊は声をあげます。そして人も声をあげることができます。銀貨は人について行くことはできませんが、時々財布からこぼれてしまうことがあります。羊も群れについて行くことができますが、時々群れを見失ってしまうことがあります。では人間はどうでしょう。人間は誰かについて行くこともできますし、自分一人で行くこともできます。自ら呼びかけることもできます。無くしたモノを探し続けている神さまに対して、わたしたちができることは、わたしたち自身が「見失った羊」「なくした銀貨」にならないことです。そして、もしそうなってしまった時、自ら呼びかけることです。「わたしはここです」と声を上げることです。反応のないものを探すことはとても難しいのです。自分がどこかに置き忘れたものを探す時、見つけることは大変です。でも、迷子の子どもは泣いていれば、そこにいることがわかります。わたしたちの呼びかけとは、わたしたちの祈りです。祈りの声は神さまに必ず届きます。「わたしはここです」という声として届きます。探し続ける神さまのため、祈りの声をいつもあげながら日々を過ごしていきましょう。

9/8

9/8 「腰をすえて」    ルカ14:25~33

 今日の福音書はイエスの厳しい言葉が並びます。「自分の父、母・・・を憎まないなら」「自分の十字架を背負わないなら」「自分の持ち物を捨てないなら」「わたしの弟子ではありえない」と並べられています。その間に「塔を建てようとする」「1万の兵で2万の兵を迎え撃つ王」の話が挟み込まれているのですが、その双方に「まず腰をすえて」という言葉があります。これが今週のキーワードです。
 何事もそうですが、計画を立てるというのは重要な事です。少なくとも「実現可能かどうか」をはっきりさせるというのは重要です。2年前、幼稚園の建て替え計画をしましたが、計画そのものよりも「計画が実現可能かどうか」の説明の方に労力を多く使いました。何度かのプレゼンテーションで納得してもらってからの計画で、少なくとも教区や理事会が「できる」と判断したからこその新しい園舎を建てることができたのです。何事も、多くの人が「できる」と思うところから始まります。もちろん見通しが甘いこともあるでしょうが、その都度修正しながら「できる」と思う方へ動いていくのです。組織などは時代によって目的が変わることもあり得るでしょうが、やはりその都度「できる」と多くの人が思う方向に修正しながら動いていきます。
 教会もそうです。教会がそこに建てられた時、何らかの目的があって建てられています。しかし時間がたつにつれ、最初の思いから変わってくることもあるでしょう。時代も変化していくでしょう。しかし、その時に「教会としてどうしていきたいのか」「どういう方向に変わろうと思うのか」を、「腰をすえて」じっくり考えてみたのが、わたしたちの「教会の夢」だったはずです。そしてそのために様々な事を「どう」取り組んでいくのかが決まってくるはずなのです。イエスが言った自分の十字架も、父母を憎むことも、自分の持ち物を捨てることも、今までのことを捨てて大きく変化することを指しています。わたしたちは何を捨てて、何を得るのか、何を残していくのか、じっくりと「腰をすえて」考えていきたいと思うのです。そしてそれは、教会として「宣教のため」、イエスを宣べ伝えるため、周りの人のためにしていくことなのです。

9/1

9/1 「神さまからの報い」    ルカ14:1,7~14

 今日の福音書の中でイエスは、上席を選ぶ客の様子から「だれでも高ぶるものは低くされる」と言い、食事会の時は「貧しい人、体の不自由な人・・・」などの普段招かれない人々を招きなさい、なぜならお返しができないからだと言います。これらの言葉はわたしたちにはちょっと厳しく聞こえます。なぜなら、人は「お返し」を期待する生き物だからです。わたしたちは様々な形で、例えば言葉でも品物でも、名前を記載するというようなこともありますが、そういった「お返し」を期待します。というよりわたしたちの普段の生活が、「与えて」「与えられる」ということを中心としてしまっているからでもあります。「商品」を買って「お金」を払う、「労働」を提供して「給与」をもらう。わたしたちの生活そのものが「価値の交換」に支配されています。「等価交換」なんて言い方もしますが、わたしたちは自分の行ったことに対して、価値が釣り合うと思ったことが返ってこないと、「損をした」と感じたり「怒り」を抱いたりするのです。もちろんその「価値」というのはお金だけに限ることではありません。名誉や称賛ということもあるでしょう。しかし、何かを「対価」として受けるのが当たり前という価値観では同じなのです。
また、それとは逆に、自分が何かを受けた時、「お返し」をしないことやできないことで、負い目を感じたり、居心地が悪く感じたりすることもよくあります。「タダより高いものはない」という言い方もありますが、自分がただもらってしまうことへの警戒感もあります。「うまい話には裏がある」とも言いますね。
イエスは末席に座りなさいという言い方をしたわけですが、これは色々な社会で通用する対人関係の処世術でもあります。別に聖書を読んだことがなくても、腰の低い人は末席の方に行くことが多いからです。時々、末席で渋滞しているのを見ることがあります。しかし、末席に行ったときに結局上席に案内されて「面目を施す」ことができるのなら、それはそれで「お返し」を受けているわけですよね。決して「損」はしていない。「面目」を施したので、自分がへりくだったという「損」(と言っていいかはわかりませんが)は「等価」か、もしくは「少し得」になるでしょう。人間関係ではなるべく「損」をしないように、へりくだって自分を低く見せておくというのは大切な事だと言えます。しかしイエスは、「お返し」することができない相手を招く、要するに自分が一方的に与えることになるということを「幸い」としているのです。
イエスはもちろん人と人とのことも想定していると思いますが、もっと大事に思っているのは人と神さまとの関係のことです。わたしたち一人一人が神さまの前にへりくだるということも、イエスの言葉の射程に入っているのです。人と人との間で面目を施す、つまり「等価」の「お返し」があるということよりも、自分と神さまの間で「報い」「お返し」があるということを大切にしなさいとイエスは言っているのです。一方的に与えている(自分ばかりが損をしている)のではなく、神さまが必ず報いてくださると考えるのが信仰において大切な事です。教会の中で、社会の中で、その働きが誰にも知られなかった人々もたくさんいます。彼らを支えていたのは、ひとからの評価というお返しではなく、神さまからの報いです。それがあったからこそ、あると信じているからこそ、誰にも知られず働くことができたのです。目に見えるこの世の面目ではなく、神さまから与えられる報いを大切にする、そんな周りとはちょっと違う価値観を、いつも心に秘めていたいと思うのです。

8/25

8/25 「狭い戸口」    ルカ13:22~30

 「狭い戸口から入りなさい」とイエスはわたしたちに呼びかけます。でも、広いところと狭いところがあったとして、わたしたちはわざわざ狭いところを選ぶようなことはあまりありません。狭いところを通るというのはそれなりに労力が必要です。「若い時の苦労は買ってでもしなさい」とも言いますが、普通にやっていてもしんどい部分があるのに、わざわざ苦労をしょい込むようなことをしては大変です。そもそも現代はどんどん便利になっていますし、それらを利用しないのも難しいものです。そして、積極的に便利なものを利用したほうが、わたしたちの生活に余裕が持てることも多いものです。もちろん、これは「生活上のこと」というより、「信仰者としての生き方」のことでしょう。それでは「信仰者」にとって、そしてその集まりである「教会」にとっての「広い戸口」「狭い戸口」をどう考えればよいのでしょうか。
 「信仰」というのは難しいものです。なぜなら一人ひとりその持ち方が違うからです。それぞれ力を発揮できるポイントが違うからです。そして、方向性を示すことはできますが、正解が決まっていないからです。一人ひとりの課題も違います。
 わたしたちにとって「信仰」は決して楽なものではありません。ことこの日本においては、「キリスト教」ということだけで誤解されたり、言われない中傷を受けたりすることもあります。理解されているとは言い難い部分も多いものです。また、教会の中においても、新しく加わった人々にとっては、目にするもの耳にするものがすべて初めてでわからないことも多いでしょう。古くからいる人々にとっては、今まで維持してきたはずの秩序が壊れてしまうのではないかという恐れにとらわれることもあるでしょう。そして、信仰的に振舞うというのは勇気のいることです。今までやったことのないことに飛び込んでいくことですから。でも、どちらが「狭い道」なのかといえば、やはりイエスさまに倣って生きようとすることでしょう。今までの自分を変えていく道でしょう。
 どの教会でもそうですが、というより集団においては普通のことですが、新しく集団に加わる人がいなければ、だんだんやり方が固定化されてくるものです。そういうところにたまに新しい人が加わると、なかなかなじみにくいどころか、その人がはじかれてしまうということが起こります。もちろんこれらのことは、定期的に新しく人が加わる状況では起こりにくいのですが、教会は意外とそのようになってしまっている。実はたいした伝統でもないのに、さもそれが教会の伝統のように振舞ってしまうということがあります。もちろん、やり方を固定して変化しないことは楽ですし、やり方が固定されていないで変化することには労力が伴います。が、もし教会という場所が、神さまのことを伝えて、新しく集団に加わる人を求めるのだということならば、たとえ労力が伴ったとしても、変化を起こすのは当たり前のことであり、自分を生まれてきた新しいやり方や秩序に慣らしていくということはどうしても必要な事だと思うのです。教会にとっての「狭い道」というのは、いつでも群れに加わる人を歓迎し、自分たちの秩序を新たに加わった人々と共にいつでも作り変える姿勢であることです。
 わたしたちにとって「信仰」というのはイエスさまに倣うことです。先に行ったのに後になったり、後に行ったのに先になることもある、そんな少し苦労の多い道を、一緒に歩んでいきましょう。