福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
8/18
8/18 「キリストにあって一つ」 ルカ12:49~56
「キリストにあって一つ」と教会のことを言いますが、キリスト教界全体を見渡してみると、実に多くの教派に分かれていることは、わたしたちもよく知っていることです。教派で分かれるだけでなく、同じ教派の中でも色々な派閥があり、日本聖公会にしたって、全体で何となく一つのようでありながらよく見ると色々分かれています。それどころか同じ教会の中ですら、どんどん分かれてしまっています。
イエスは「わたしは平和をもたらすために来たのではない、むしろ分裂だ」とわたしたちに言います。確かにわたしたちは、「一つ」と言いながら、様々な事で分かれてしまっています。イエスの言ったようになってしまっています。この小さい教会の中ですら一つになれないのです。しかし一方で見方を変えるなら「わたしたちは分裂してしまって、別れてしまって当たり前」ということもできます。そして何よりイエスは、「一つだからよい」「分かれているから悪い」という価値判断を述べていないということは重要です。
旧共産圏の「マスゲーム」。今でも映像で見ることができますが、一糸乱れぬ行進は、単純にすごいと思わされます。今でも北朝鮮などの行進を見ると、整然と、まったく乱れずに進んでいく様を見ることができますが、正直なところ現在の北朝鮮が「すごく良い統治をしている」という風にわたしたちは感じることができないと思います。まさに一つの生き物のように動いていますが「良い」とは思えません。一方で、日本だと、例えば「NHKをぶっ壊す」というスローガンを掲げた政党の人が当選してしまう、一種危うい状況のように見えますし、それに対して色々な人が色々な意見を言っています。賛意を示す人も反対意見の人もいます。分かれてしまっています。しかし考えてみれば、誰もが自由に意見を言うことができるというのは「自由」であり、良いことのようにも感じられます。考えてみれば、「イエス」という人物の扱いでも世界中は分裂しています。「イエス」は神の子ではないというユダヤ教、「イエス」は神の子であり、三位一体の一つの位格であるというキリスト教、「イエス」は偉大な預言者であった(その後に最後の預言者ムハンマドが来た)というイスラム教、それぞれ立場が違います。しかし「キリスト教」という枠の中で考えれば、イエスは神の子であり、三位一体の一つの位格であるというところしか、もしかしたら一致するポイントはないのかもしれません。
わたしたちの教会も、様々な意見であふれています。教会とのかかわり方もそれぞれです。それでもなお、教会として立っていられるのは、「イエス・キリスト」がそこにいるからです。自分以外の教会のメンバーが何と言おうと、どんな人が教会に通っていようと、牧師が誰だろうと、人が来なかろうと、どんな場所にあろうと「わたしは、イエスを神の子として、三位一体の神の一つの位格としてとらえている」という信仰で一致できるのが教会の大事な部分です。よく「牧師はこうでなきゃいけない」「信徒はこうでなきゃいけない」と言う人がいますが、そんな細かい事より、イエスさまを信じる信仰があり、そしてそのイエスに倣う(イエスがどうしていたかを考えて振舞う)ことができるかどうかが、教会として大切な部分です。「多様性における一致」と聖公会では言います。イエスさまを信じて、教会に連なるということを大切にしてほしいと思います。
8/11
8/11 「神さまという宝」 ルカ12:32~40
わたしたちにとって一番大事なものはなんでしょうか。自分の命だという人も多いでしょうし、それ以外にも家族(配偶者や子ども・孫、親など)、友人、名誉、あるいはお金、地位、実績という人もいるでしょう。これらのものはわたしたちにとって「宝」であり、「財産」であり、「富」です。一朝一夕で手に入らないものであり、失ってはならないと感じるものだと思います。その価値は自分だけがわかるのだ、というものも多いかもしれませんね。
人間というのは小さなころから「コレクター」であり、様々なものに価値を見出して大切にするものです。今は落ち着いたと思いますが、幼稚園で「ペットボトルのふた」をコレクションすることが流行りました。わたしたちからしたらただの「ゴミ」のようなものですが、子どもたちにとっては、友だちと喧嘩したり、盗んだりしても手に入れようとするかけがえのない代物だったようです。色だったり形だったり大きさだったりで、手に入りやすいやつは価値が低く、珍しいやつは友だちに見せて自慢する。実際に、子どもたちは交換したり、贈与したりと、様々なやりかたでそのふたを集め、奪い合いをしたり、友だちによって見せたり見せなかったりと、大人のコレクターさながらの遊び方をしていました。それぞれその中でいちばん「すごい」やつ(大人にとっては価値がよくわかりませんが)を持っていて、大騒ぎをしていました。
イエスはわたしたちに「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と言います。わたしたちにとって「大事なもの」「宝」はたくさんあります。甲乙つけがたく大切で自分の命を失ってでも守りたいものもあります。しかし、わたしたちキリスト者は、それらを与えてくれた「神さま」のことを知っています。
わたしたちの命は神さまから与えられたものです。その命によって、わたしたちは様々なものを為し得ています。わたしたちの「宝」の源は神さまなのです。ところがわたしたちの「宝物」はたくさんあって、わたしたちは時々他の「自分が大事だと思うもの」のために神さまを忘れてしまいます。誘惑におちいってしまいます。流されてしまうことがあります。
「神さま」は、わたしたちの源です。わたしたちにとって大切なものです。わたしたちの「宝」です。神さまはいつ来るかわかりませんが、わたしたちの心は常に神さまにおいていたいと思います。そのためにわたしたちに必要なのは日々の祈りです。神さまとお話しすることです。神さまをわたしたちの生活の中心に置くことです。そして何より、わたしたちが何かを考える時、神さまのことをいつも頭の片隅に入れておくことです。「イエス様だったらどうするだろう。」「神さまはわたしに何を求めているんだろう。」ということを、時々考えておくことです。結論が出ないことだってもちろんあります。でも、神さまのみ心について考えることは無駄ではありません。わたしたちの心を神さまという宝に置くためなのです。
8/4
8/4 「豊かに与えましょう」 ルカ12:13~21
家の中に物がたまってしまうということはないでしょうか。幼稚園に関わっていると、例えばペットボトルのキャップだったり牛乳パックだったり、何かのお菓子の箱だったりを「何か製作に使えそう」という理由で取っておいて、家の中に大量にたまってしまったりするものです。お土産などの紙袋だったり、スーパーの、いわゆるサミット袋なんかもどんどんたまっていきます。また、使わないわけじゃないんですが、例えば調味料とかが全部使ってしまわないでちょっとずつ残ってしまっているものがたくさんあり、忘れてしまっていて結局使えなくなってしまい、捨てることになったという経験をしている人も多いのではないでしょうか。人間は意図せずともため込んでしまうものなのかもしれませんね。
今日の福音書は、蔵に自分の収穫をため込む金持ちのお話。結局彼のものは魂も含めて取り去られてしまうことになりました。このお話は収穫など、いわゆる「財産」に関するお話ですが、考えてみれば神さまから人間に与えられたものって命や収穫だけではなく、わたしたちのすべてです。例えば「○○ができる」というような技能もそうです。わたしたちは実に多くのものを神さまからいただいています。それは圧倒的な才能、例えばピアノだったら教室を開けるくらいの才能というわけではなく「とりあえずドレミが鳴らせます」というような、ごくごく小さなことだったりします。「日本語」を話すことができるというような、わたしたちにとってはごくごく当たり前のことだったりします。わたしたちには、そういった小さなことも含めてたくさんのものが与えられているのです。それらはすべて「わたしたち」という蔵の中に収められているのです。つまり、今日の話は「収穫」という財産だけでなく、わたしたちに与えられているすべてのものが、その射程に入ってくるたとえ話だということです。
わたしたちはため込んでしまう癖がある生き物です。貯めていると安心。もちろん使わないわけじゃないけれども、できれば「本当に必要なところで、必要な時に」使いたいと思ったりします。技術などであったら、もっとできるようになってから提供したいと思うこともあります。それを「使おう」と思っても、時機を逸してしまって、使わずに過ぎてしまうこともあります。そうやって出さずにいたために、一生涯使われなかったものというのは数多くあるのではないでしょうか。それとは反対に、「少なくて帰って困るかな」と思っても提供したり、「下手かな」と思っても披露してみたりしたことで、大きな働きになるきっかけになったということもあります。自分が「つたない」と思っていたものを提供したはずなのに、かえって練習の機会が多くなって上手くなり、それが生涯付き合う仕事になったという人もいます。
わたしたちは「蔵」です。しかも、豊かに収められた「蔵」です。わたしには入っていないという人はおりません。みんな豊に入っています。それに気が付かないだけです。「蔵」というのは貯めておくだけのものではありません。貯めておくのは豊かに開かれるためでもあるのです。わたしたちの中には、多くのものが「貯まって」いるはずです。それがどんなに少しのものでも、どんなにつたない技術でも、それが「誰かに」与えられるならば、もっと豊かなものを引き起こすのです。神さまがそのように人間をおつくりくださっています。「惜しむ」のではなく、「貯める」だけではなく「与えましょう」。そうすれば神さまはわたしたちにまた豊かに与えてくださるでしょう。
7/28
7/28 「求めるということ」 ルカ11:1~13
今日の福音書はイエスが「祈り」について、わたしたちに「主の祈り」を教えてくれた場面です。また、それに続いてイエスは「求め続ける」ことの大切さを弟子たちに語ります。
イエスは「求める」ということを大切にします。「祈り」というのは神さまに求めることですから、「主の祈り」にはイエスが願ったことが凝縮されています。それを、それこそ「しつこい」と思われるくらいに願い続けなさい、言い続けなさいということをイエスは大切にしています。そしてそれは何より「具体的に」言葉にされることが大事です。そして、夜中に友人に頼むように、「相手の状況を気にしない」くらい切実に求めるということです。
「忖度」という言葉がはやりましたが、日本のコミュニケーションというのは、「相手の状況を読み取る」というスキルが求められます。「空気を読む」などとも言いますが、「相手がこういう風にしてほしいんだろうな」と、どんどん読み取って先回りして行動することが大切にされます。例えば牧師だったら、信徒が教会に来るのにストレスが無いように様々な事を読み取って、元気がなかったら言われなくても励まし、信徒がやる気を失うようなことは言わず、教会の雰囲気を大事にして余計なことは言わない、というようなことです。すべて「相手」ありきのことです。牧師こそ「仕える」人であるべきなのだから、こんなことは当然だと思われるかもしれません。しかし、それが本当にイエスの求めたことかというと疑問が残ります。
「相手の状況を読み取って動く」というのは、イエスが勧めた「祈り」=「神さまとのコミュニケーション」においては意味のない事だと思います。なぜなら、神さまはわたしたちの真の願いを理解していますが、わたしたちが「このようになりたい」「こうしたい」という祈りが繰り返し言にされるのを待っているからです。わかっていても、神さまがわたしたちに先回りして叶えてくれることはありません。キリスト教において「祈り」という形で「言葉にする」というのはとても大事な事だからです。そしてそれは「一度言ったから大丈夫だろう」ということではなく「繰り返し」、それも「しつこいくらいの繰り返し」によって為されるということです。
もし教会に対して「○○したい」「○〇になってほしい」「○〇にしてほしい」と思った時、「意見を言う場所に行かない」「無視する」「言葉を発しない」のではなく、たとえそれがすぐに実現しないことでも「口に出す」ということが大事です。人に言えないことでも「神さまに向かって言う」つまり「祈る」ということが大事です。そして大切だと思ったことは、何度でも言に出される必要があるのです。
それは、わたしたちにとって「ストレス」だと感じるかもしれません。日本人なんだから読み取ってくれよと思うかもしれません。今までわたしたちの教会はそんなことをしなかったと思うかもしれません。わたしたちにとって、至れり尽くせりだった信仰的な乳児時代は過ぎ去ったのです。わたしたちは信仰的な大人を目指していくのです。神さまはきっとわたしたちの願いをわかっているでしょう。しかし神さまが大事にしているのは「求め続ける」ことです。神さまは、一回で分かるかもしれませんが、人間が一回で分かるでしょうか。わかるわけがないとわたしは思います。だからこそ、求め続けることが大切です。「こうしてほしい」「こうしたい」ということを言葉に出しましょう。それが「教会」が「教会」であるための第一歩です。
7/21
7/21 「自分がやる」 ルカ10:38~42
今日の福音書はマルタとマリアのお話。忙しく立ち働くマルタが、イエスの話を聞いて手伝わないマリアに対して不満を持つお話です。
どんな組織でもそうですが、仕事というのは偏るものです。やる人に多くの仕事が集中し、全然仕事をしてないんじゃないかという人もいる。よく二-六-二の法則とか働きアリの法則なんて言いますが、ハチやアリなどもそうですが、組織の中にはよく働く2割、普通の6割、全然働かない2割がいて、よく働く2割だけを取り出しても、その中でやっぱり二-六-二に分かれてしまうのだと言います。また、働かない2割だけを取り除いても結局同じになってしまうのだそうです。また、働かない2割は、何があっても働かないわけではなく、働かない2割だけにしてみるとちゃんと働くので、別に能力がないわけでもないようです。ある意味で組織のバックアップ要員でもあるわけです。
体をよく動かすと疲れます。疲れを抜くために休息がきちんと取れていればいいですが、どうしても徐々に疲れがたまってくることがあります。精神的にどうしても動けなくなる時もあります。そうやって動けなくなった時、組織が健全なら、バックアップ要員が出てきて働き始めるようにできているわけです。
調子のいい時には感じにくいのですが、仕事が集中して疲れて来ると、「自分が働いている」「自分ばかりがやらされている」「まわりはまったくやらない」「自分ばかりが損をしている」と感じる精神状況になることがあります。また、「あの人がやってるから助かっている」と周りがそれを助長することがあります。マルタとマリアの状況もまさにこのような感じに映ります。もしかしたらマルタもイエスの話を聞きたかったかもしれないけれども自分が色々やらざるを得なくなってしまった。周りもやってくれるものだから任せてしまった。それにマルタはこう言ったかもしれません。「わたしがやっとくから大丈夫よ。みんなはイエスさまの話を聞いていらっしゃい」と。こうやって自分を押し殺して「必要だ」ということに邁進するというのは美しいことに見えます、し、立場のある人にはそれを求めがちです。しかし、もしどこかでマルタが「わたしもイエスさまの話を聞きたいのよ」ということができれば、ここでマルタは爆発しないで済んだのだと思います。こういった状況になると、自分でも「わたしがやる」という方向に自分を追い込んで、「まわりが理解してくれない」という考え方に傾いてくる。そしてさらに、自分がそれを「やる」ということに依存してくる。そしてだんだん苦しくなってくると最後に爆発してしまう。誰のためにもならないことになってしまいます。
イエスは「必要なことはただ一つだけである」と言います。それは「イエスに聞き従う」ということです。イエスに聞き従うための奉仕がイエスから離れることにつながるなら、どうしてその奉仕が「よいもの」と言えるでしょうか。わたしたちが教会に集うのは、ただイエスに聞き従うためにしていることなのです。なぜ奉仕があるのか、その根っこである「イエスに聞き従う」のではなく、「自分がやる」ということに置き換わってしまうなら、教会は何のためにあるのでしょうか。わたしたちにとっての「良いもの」をもう一度見つめ直してみたいと思います。
7/14
7/14 「手を差し伸べる小さな勇気」 ルカ10:25~37
今週の福音書はよきサマリア人のたとえです。みなさん何度も聞いたことがあるでしょう。けがをした旅人を、祭司やレビ人が見捨てたけれども、敵対関係にあったサマリア人が助けたというたとえ話であり、「隣人」とは誰かという問いに究極的に答えたものです。「行って、あなたも同じようにしなさい」とイエスは言います。この言葉を少し深く考えてみたいと思います。
現代の日本で生きるわたしたちにとって「追剥に合った旅人」に会うことはほとんどありません。わざわざ探しに行くというのもおかしな話です。もちろんたとえ話ですから、「旅人」というのは象徴的な話ですし、イエスさまが言いたかったのは、「あなたの出会った」「困っている人」に対して、「用事があるから」と見て見ぬふりをしたり言い訳をしたりせずに助けることが大切である。それがたとえ「敵」であったとしても。ということなのでしょう。聖ルカ教会の関わる苫小牧キリスト教船員奉仕会の活動は、バックグラウンドがキリスト教でありながら、利用する船員は特に宗教を問いません。クリスマスパーティににムスリムの船員が参加することもよくありますし、普段もどの国、どの宗教に関わらず利用しています。旅人である船員たちが誰でも気持ちよく利用できるというのが、この活動です。もちろんこれに関わらず、多くの人が人を助けるということに関心を持っているはずです。
もう一つ大切なのは、このたとえ話のシチュエーションは、突然の出来事であるということです。祭司にしてもレビ人にしてもサマリア人にしても、倒れている人は、自分の目の前に突然現れました。通り過ぎたのもとっさの判断なら、助けることにしたのもとっさの判断です。この中には誰も、人を助けるために普段から準備していた人はいないでしょう。というより、わたしたちは普通、倒れている人を手当てするための道具を持ち歩きません。他の状況だって同じことです。色々な状況に対応する事なんかできないのです。しかし、それでもなお、わたしたちが持つことができるのは、手を差し伸べるという小さな勇気です。そして、わたしたちは「○○をしない」ということに対してたくさん言い訳を持つ生き物です。「○〇だからしょうがない」という言い訳をして、何かを行わないことは多くありますし、それはよくあることです。でも、本当にそれでいいのでしょうか。
わたしたちが「とっさに」「困っている人に」「出会った」時に、わたしたちはこの「よきサマリア人のたとえ」に問われます。「言ってあなたも同じようにしなさい」というイエスの言葉に問われます。それにどう応えるのか、行動するのかに、わたしたちの信仰がかかっています。手を差し伸べる小さな勇気を持っていたいと思います。
7/7
7/7 「ご自分が行くつもりの」 ルカ10:1~12,16~20
イエスは弟子たちを多くの場所に派遣しています。特に有名なのは使徒と呼ばれる12人ですが、今日の聖書の箇所はさらに72人を派遣する場面です。考えてみれば、イエスの弟子が12人だけというわけではありませんよね。おそらくですが、この72人に限らず多くの人たちが「弟子」になっていったと思われます。一種の社会現象のようになっていなければ、祭司長たちもイエスを危険視しなかったはずですから。
「イエスの弟子」というのは、一定の権威を持たされています。悪霊を追い出し、イエスの名によって活動するのです。これはイエスが天に帰った後、使徒たちの時代になっても同じです。イエスの弟子として、今はもう名前も知られていない多くの人たちが活動したのです。イエスに従い、権威によって悪霊を追い出し、神さまの国を広めたのです。しかし一方で、彼らは「特別な技能」があったから選ばれたわけではありません。使徒たちもそうです。思い返してみれば、彼らは漁師であったり、徴税人であったり、要するに普通の市民であったわけです。唯一必要とされたのは「イエスについて行く」という自分の意思を表明したということだけです。そして、イエスを信じたということだけです。「イエスの弟子」というのは、特別な人のことではなく、「イエスに従う人」ということです。それは、わたしたち一人一人が「イエスの弟子」である、ということに他なりません。「収穫は多いが働き手が少ない」、とイエスは言いましたが、今の日本の状況はまさにその通り。働き手が本当に少ないのです。「働き手」というのは、「教役者」ということではありません。わたしたち一人一人がイエスの弟子であり働き手なのです。
イエスは弟子たちを「ご自分が行くつもりのすべての町や村に」遣わされました。イエスと神とは一体ですが、残念ながら地上の肉体を採ったがゆえに、自分一人だけでどこまでも行くことができませんでした。神さまのお創りになったこの世界に、神さまの足跡をたどるのは、限りある肉の身体では不可能でした。それは「弟子たち」に託されたのです。
わたしたちは「イエスの弟子」として、この地上に生きています。わたしたちが行く町や村は、都市は、国は、イエスがご自分で行くつもりだった場所です。わたしたちは、洗礼を受け、聖霊をこの身に帯びて、神さまの跡をたどって、あちこちに遣わされています。そして、遣わされるのは「二人」であることに注目しましょう。なぜなら、「二人」というのは特別な数だからです。「二人または三人がいるところに、わたしもまたいるのである」。つまり「二人」であるけれども、そこにはイエスが含まれているのです。「一人」の頑張りで何かをするのではなく、「二人」で、そしてイエスさまを含めて「三人」で行くのです。天に帰ったイエスさまは、わたしたちがどこに行ったとしても支えてくださいます。さぁ、わたしたちもイエスさまの力を感じつつ、様々なところで、わたしたち自身の行いで、神さまの国を伝えていきましょう。そこは、きっとイエスさまが行こうとした場所なのです。
6/30
6/30 「いつでも行けるように」 ルカ9:51~62
イエスの言うことは時に非常に過激です。イエスに従うことはとっても難しいと思わされることもしばしばです。「どこへでもついて行く」と言えば「枕するところもないよ」と言い、「父を葬りたい」と言えば「死者自身に葬らせよ」と言い、「家族に暇乞いをしたい」と言えば「鋤に手をかけてから後ろを顧みるものは神の国にふさわしくない」と言います。でも、これらのことってわたしたちにとって、結構大事ですよね。「お父さんの葬儀なんかいいから礼拝に来なさい」と言ってしまったら、すわカルト宗教か、のそしりを免れません。イエスのこれらの言葉はどう考えればいいでしょう。
イエスさまは今でも、時々人に「わたしに従いなさい」と声をかけています。別に牧師になるということだけじゃなくて、何か突然「こういうことをしなさい」と主から命じられたという人が世界中にたくさんいます。もちろん全く来ない人もいるわけですが、それでも数多くの人がイエスさまからの「わたしに従いなさい」の声に従って様々な事を行っています。
わたしたちが普段多くのことをしていますが、たいていのことは「しっかり準備をして」やると上手くいくものです。「仕事は段取りが8割」なんて言い方もしますが、しっかり準備をして臨むことは大切な事です。気持ちの面で準備が必要なものもあるでしょう。気持ちというのは不思議なもので、不安を飲み込んで動き出せば何とかなることの方が、わたしの短い経験の中でも多いものです。ところが、物事はいつも準備ができている状態で始まるわけではありません。むしろ、突発的に起こることの方が多いのです。しかも、決断を先送りできないこともたくさんあります。そんな時に決断を迷うとあまりいい事態にならないこともあります。「こんなことは聞いてない」と抗議をしようにも誰にも言えない、そして「こんなことは聞いてない」と対応しなかったら大変な結果になります。人が倒れていてもみんなで携帯で写真を撮っているニュース映像にぞっとしましたが、普通だったら誰彼かまわずすぐに救急車を呼ぶだろう、と思うのですが、「準備ができていないから」「誰かが呼ぶだろう」と動かないことがあるのです。
「神の国」が来るために、わたしたちは働いています。キリスト者というのはそういう生き方を神さまから命じられた人たちのことです。「神の国のために」来るイエスさまからの「わたしに従いなさい」という命令は、残念ですが多くの場合わたしたちのところに突然もたらされます。その時わたしたちは準備ができているでしょうか。できていなくても、突然の事態で動くことができますか。いつでも、イエスさまからの「従いなさい」に応えられる準備ができているように、自分を整えて、「神の国」を広めるためにともに歩んでいきましょう。
6/23
6/23 「自分の十字架」 ルカ9:18~24
「十字架」は、ややもすればちょっとカッコいいアクセサリーとして扱われたり、信仰的な持ち物として取り扱わたりすることもあります。わたしたちはイエスさまが十字架にかかったので、本来は「死刑の道具」であったことはよく知っているわけですが、あまり意識することはないように思います。
「十字架」ってどういうモノでしょう。人間をつるすためには、人間より小さなものではできませんから、人間より大きなものでなくてはなりません。木でできているとはいえ、軽くやわなものでは途中で壊れてしまいますから、ある程度丈夫なものでなければなりません。少なくとも人間一人の体重を支えられなくてはならないでしょうね。そう考えると、十字架というのは、普段わたしたちが運んでいるものより格段に重いことは確かでしょう。十字架は「重い」、そして「大きい」ものです。
十字架刑に処される時、処刑される人は自分の十字架を担いで歩かされました。見せしめの意味もあったでしょうし、統治している民の不満をそらす意味もあったでしょう。「重く」「大きな」十字架、ある意味で自分のしたことの結果を「自分で」担いで歩く、というのは普通のことでした。しかし一方で、これは「死刑に処される人」だけが、「自分で」担がされているとも言えます。誰もが大なり小なり、自分の行動の結果である「十字架」を持っているはずですが、実際に担がされているのは「死刑に処される人」だけですから。
一方でイエスが担がされた「十字架」は違います。少なくとも「自分の行動の結果」ではありませんよね。教会的に言えば「多くの人の罪のため」。要するに「人間の行動の結果」です。自分以外の誰かの「行動の結果」です。教会の言う「罪」というのは、別に法律に違反することではありません。「神さま」を自分の生活、考え方、行動の中心に置かないことです。その結果として、わたしたちはいつまでもイエスを十字架にかけ続けているとも言えます。
イエスは弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言いました。ここにいるわたしたちは、できているかどうかということに関わらず、イエスについて行こうと思っている者です。もしくはその行動に興味がある人です。イエスが背負えと言っているのは、あくまで「自分の」十字架であることに注意してください。「あの人が」とか「この人が」とかではなく、「自分が」どうしたか。「自分の」生活の中心に、考え方の中心に、行動の中心に神さまを置いたかどうかということです。そしてそれによって生じた状況を「自分で」引き受けるということです。
そのために大切なのは日々の祈りです。自分の思いと言葉と行いを、神さま中心に切り替えていきましょう。それは簡単な事ではありません。しかしイエスさまに頼ることで切り替えていくのです。神さまを自分の心の中心に置くこと、それが「自分の十字架」を担うことの第一歩です。そのために励まし合いながら進んでいきましょう。
6/16
6/16 「神さまが告げる真理」 ヨハネ16:12~15
今日は三位一体主日。先週の聖霊降臨日で、父・子・聖霊の三者が揃った最初の日曜日です。そしてそれと同時に聖霊降臨後の期節の始まりでもあります。
「三位一体」(さんいいったい)という真理は、教会が広まっていく中で見いだされてきたものです。それをわたしたちがいつも確認するために礼拝で唱えているのが「ニケヤ信経」ですが、これも今の形になるまでには紆余曲折がありました。また、かつての教会は「教会の外に救いなし」として、教会の外を自分たちが「救う」「教化していく」スタンスを持っていましたが、「神の宣教」(ミッシオ・デイ)という考え方が見いだされると「教会は社会の中にある」「神さまの創造された世界にこそ神さまが見いだされる」として、社会に奉仕していく体制に変わってきています。
わたしたちは「地動説」、つまり「地球」が太陽の周りを自転することを知っていますし、信じています。また、宇宙ロケットを打ち上げてそのことを確認もしています。でもどうでしょう。わたしたちが「自転」する地球に乗っていることを感じられますか。多分ですが、動いていることを確認している人はそういないんじゃないかと思います。自分を中心に考えるなら、かつての「天動説」の方がよっぽどしっくりきます。これだけに限らず、電気や携帯電話、インターネットなど、わたしたちは「それを知る以前」に戻ることができないものって多くあります。「知識」「真理」と呼ばれるものは、最初は良くわからなくても、それこそ長い年月をかけて見いだされてきたり、知らされたりするものです。教会の始まったころには見出されていなかった「三位一体」も、教会が教会として歩む過程で、多くの人たちに明らかにされてきたものです。「真理の霊」は必要な時に、人々にそっと、真理を教えてくれるのです。しかし一方で、「霊」は自由なものです。教会がかえって自由を妨げたことも数多くあるのです。
本当は神さまも、わたしたちみんなに、一発で完全に間違いのない知識を植え付けておけば楽だったのかもしれません。でも、神さまの「創造」のわざは、わたしたちが知ることのできないくらい深くに及んでいます。きっとまだこれからも、わたしたちが知らなかったものを多くの人たちが知る時が来るでしょう。わたしたちが想像しなかったことも、これからできるようになっていくことでしょう。そして多分、教会においても、多くの物事が変わっていきます。だからこそ、昔を懐かしむのではなく、変化を楽しみましょう。「前はこうしていた」ということにとらわれず、わたしたち一人ひとりも、教会も、変化し続けていくことが必要です。変化の最先端を行くことはありません。しかし、「地動説」の時の教会のように、変化を止める、否定するのではなく、変化を肯定する、自由に動かすことが大切です。「霊」が自由に動く時、わたしたちのところに「真理」もやってくるのです。
6/9
6/9 「聖霊と一緒の早さで」 ヨハネ20:19~23
今日は聖霊降臨日。聖霊が多くの弟子たちの上に降った教会の誕生日です。聖霊はわたしたちの間に今も豊かに息づいています。しかし、わたしたちはそれに気がつきません。今、この礼拝堂に満ちている聖霊の働きを豊かに感じているでしょうか。これまで何度も説教の中でお話ししてきましたが、聖霊は、先ほど読んだ使徒言行録の言葉の通り弟子たちのところに遣わされ、今もわたしたちのところに受け継がれています。一つは、わたしたちが生まれながらにしている“息”の形をとって。また、復活の際に手を置いて「聖霊を受けなさい」と言っておられたイエスさまと同じく、手を置かれることによって受け継がれています。そしてまた、地球上にいつも吹き渡っている風の姿で、神さまがお造りになられたこの世界を見守っているのです。
しかし一方で、それらの働きを感じにくくなっている世の中なのも確かです。それは教会の中においてすらそうです。聖霊は本当に働いているのかと言いたくなるような場面はたくさんあります。聖霊が豊かに働いていた頃に比べて、世界は本当に狭く、物事のスピードはどんどん早くなっています。例えば病気になったとしても「早く治して復帰する」。冷静に考えれば、病気の時ほどゆっくり休まないといけないのに。でも、なんとなく気が急いてしまう。会社などもそういった人をゆっくり待つのではなく、「早く治らないのか」と声をかけたり、場合によっては解雇してしまったりするのです。
今の世の中は、イエスさまが語り、宣教した頃に比べて様々なものがずいぶん早く進んでいます。教会の中でもそうですが、ゆっくりじっくり時間をかけて進めるのではなく、早く、今すぐ進める雰囲気が漂っています。社会の仕組みがそうなってしまっていますが、わたしたちの「魂」、心が追いついていない。聖霊も追いつけない、そんなスピードで社会は動いています。教会を見ていると、若い人よりもお年寄りの方がせっかちな気がしています。教会が、その早いスピードについていけなくて困っている人々の受け皿にならなくて、いったい誰がそれを成し得るでしょう。教会の中にこそ、聖霊の働くスピードを取り戻しましょう。立ち止まって深く呼吸して、わたしたちの中にある「息」としての聖霊をゆっくりと動かしましょう。まずはそこからです。先に先に進めるのではなく、行きつ戻りつ、ゆっくりと様々なことを進めていきたいと願っています。
6/2
6/2 「神さまの国に向かって一つ」 ヨハネ17:20~26
今日の福音書はイエスの祈り。この後イエスは逮捕されることになります。たくさんの弟子たちを残していく、その前に父である神に祈ります。「みんなが一つになるように」と祈るのです。
「一つになる」というのはどういうことでしょうか。わたしたちはこの小さな教会ですら一つになれません。教区という単位でも、日本聖公会としても、世界中の聖公会としても、キリスト教界全体としてもバラバラです。共に何かをしようとする機会も多いようで少なく、お互いを理解することもなく、遠ざけあってしまいます。イエスが祈ったように「一つになる」ことは、人類の歴史が始まって以来、全くと言っていいほどなかったでしょう。一体感を持つことができないわけではありませんが、一時的にしか続かないことが多いのです。それだけ人はバラバラなのです。
父なる神、子なるイエス、そして聖霊の三つが一つである。わたしたちのよく知る「三位一体」。しかし、完全に理解しようとするとわかりやすい説明がないので難しい。例えばわたしたちは祈る時、「神さま・・・・」というのか「イエスさま・・・」というのか「聖霊よ・・・・」というのかもバラバラです。でも、よく考えてみるとその3つは一つのはずです。それでもやっぱりイエスさまの方が優しそうだから、とか聖霊の導きに委ねたいとか、「一つ」のはずですが、それぞれの特徴がわたしたちには感じられているのです。
「一つ」というと、自分が無くなってしまうような、そんな思いを抱かないでしょうか。異論が許されないような「一つ」という、軍国主義や独裁体制のような、かつて日本にもあった体制の記憶です。イエスにおける「一つ」というのはそれとは違うはずです。だって、イエスがそんなことを神に祈ったでしょうか。そんなわけないですよね。それは、「一つ」でありながらそれぞれの「思い」も生かされる形です。なぜなら、人は一人で完成してはいないからです。それぞれに得意なところがあり苦手なところがあります。教会として、わたしたちが「一つ」であるとき、それぞれの得意なところが表出します。教会が「一つ」になっている時、聖霊の力によって、そのようにされるのです。「一つ」になるために、聖霊の働きが不可欠なのです。
来週は聖霊降臨日です。聖霊がわたしたちのところに遣わされたことを思い出す日です。弟子たちの間に降った聖霊によって、弟子たち個々の考え方は違っても、「教会」として「一つ」になって、神さまの用のために働くことができました。一つになるために必要なのは、わたしたちの聖霊を求める祈りと、わたしたち自身が「自分が神さまの用のために働いているのだ」という自覚です。教会が「一つ」となり得るのは、何をする時にも「これは神さまの国のため」であると一人一人が感じて行動する時だけです。「自分の名誉」や「バザーの売り上げ」や「幼稚園などの事業」のためではありません。それをもって何を為すのか、そのことを改めて自覚することが必要です。イエスの祈りに応えて、わたしたちの心を神の国に向けるようにしていきましょう。
5/26
5/26 「聖霊の働く速度で」 ヨハネ14:23~29
今日はヨハネによる福音書から、最後の晩餐の後にイエスが弟子たちに語った「告別説教」と呼ばれる部分が読まれました。特に「弁護者である聖霊」を送る約束の場面です。
「聖霊」は、わたしたちのところにすでに遣わされています。というよりも「聖霊」の働きが無ければ今日の教会もなかったでしょう。聖霊は神さまのところから遣わされ、人と人との間で働きます。しかし、人と人との間は、上手くいくこともあれば上手くいかないこともあります。「聖霊」がもし神さまから来ているものであって、わたしたちの間で「常に」働いてくれているのであれば、もっと人との間は上手くいっていいと思ってしまいますね。
人と人との間ほど難しいことはありません。ある人にとっては大したことがない事でも、別の人にとっては大事であることが良くあります。言葉の使い方についても人それぞれで、何の気無しに発した一言がきっかけでよくなることもありますし、悪くなることもあります。受け止め方もそれぞれですしね。傷つくことが多かった人からすれば、「本当にわたしたちの中で聖霊が働いているのか」と思ってしまうことも多々あります。「聖霊」の働きにも限界があるのでしょうか、それとも、もはや「聖霊」はその力を失ってしまったのでしょうか。
聖霊は吹き渡る風のように、神さまの思いに従って自由に動きます。わたしたちの身体の中には「息」という形で一緒にいてくれます。しかし一方で、わたしたちが意識しないとその働きは弱くなってしまいます。現代人は呼吸が浅くて速いと言われています。確かに色々なものがどんどん早くなっています。新幹線の速さ、インターネットも速さ、会話もレスポンスよく、となってしまえば、何となく焦ってしまいます。一方で、もしかしたらわたしたちの心や魂がついていけてないのではないかと感じます。「聖霊」の働きは少しゆっくりです。でも、その「ゆっくり」なところに目を止めてみたいと思うのです。本来聖霊は、人間の間でゆっくり働き、わたしたちの心の思い、口の言葉を補ってくれるのです。立ち止まって、わたしたちの中の「聖霊」に心を向けましょう。「深呼吸」し、ゆっくりと呼吸を繰り返してください。何もしなくていいんです。ついて行かなくてもいいんです。言葉だってすぐ返さなくてもいいのです。一呼吸おいて、ゆっくりと返事する。それだけでずいぶん違います。わたしたちの生活を「聖霊の働く速度」に合わせてみませんか。人と人との間も、「聖霊の働く速度」でゆっくりと進むだけで、今までとずいぶん違ったものになるでしょう。「聖霊の働く速度」で、ゆっくりと限界を超えていきましょう。