日本聖公会 苫小牧聖ルカ教会
Anglican Church of Hokkaido Tomakomai St.Luke's Church



あなたがたに平和があるように。
(ヨハネによる福音書20章19節)

福音のメッセージ


週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。

5/19

5/19 「神さまの愛。大事にすること」   ヨハネ13:31~35 

 イエスさまの新しい掟「互いに愛し合いなさい」。わたしたちは何度も耳にしています。「愛し合う」という言葉は、遠い昔の若者の言葉のように感じることがありますし、日本的にはあまり口にすることのない言葉でしょう。教会界隈ではたまに耳にすることがありますが、教会にあまりかかわりのない人たちからすると、ややもすると違和感のある言葉づかいだと言えます。
 聖書には様々な「愛する」という表現があります。一つは男女間の愛。まぁ、これは特に説明する必要もないでしょうか。日本語だとこれが一番に浮かびますかね。次は友人との間柄。これも「愛」と聖書では表現します。というよりも「友情」って表現を使わないんですね。仲間意識みたいなものも「愛」と表現しています。弟子たちの間もそうでしょうか。それから親子の関係。もちろん例外もあるのでしょうが、基本的に親は子に愛情を注ぐものです。幼稚園ではいつも見ることができます。そして最後、一番大事なのが「神さまの愛」です。
 神さまはわたしたちをつくられました。世界中のすべてのものも神さまが創られました。自分の作品とも、子どもとも言える多くの物や人に、神さまは愛を注ぎます。大事にします。いや、大事にし続けています。そしてそれに例外はないのです。善人だろうと悪人だろうと雨を降らせるという言葉の通りです。
 しかし一方で、人同士の間では必ずしもお互いに大事にし合っているとは言えません。幼稚園の子どもたちの間でも、小さなクラスの中でさえお互いを大事にしないような言葉が飛び交い、手が出ることもあります。もちろん成長の過程のなので、これからゆっくり実感していけばいいと思います。しかし、実際は大人になっても同じです。「自分たち」と「他の人たち」に分け、自分たち以外を大事にしなくなるのです。この教会という小さな群れでさえ、その中でグループができ、お互いに大事にし合うことがなかなかできないのです。「愛し合う」「大事にする」ということは、別に100%相手を受け入れるということではありません。お互いを「認める」「受け入れる」「共存する」ということです。気に食わなくても共存する、少し離れてもある一定の空間の中にいるということです。「あの人さえいなければ教会に行くんだけど」ということではありません、相手を受け入れる言葉を選んで喋ることも大切です。「わたしは言葉を選ばない性格だから」ではなく、神さまに創られた相手を大事にすることです。自分も他人も、神さまの前では同じだということをいつも心に留めて礼拝に臨むということです。教会の中で分裂していることは「イエスさまの弟子になったらかえって分裂してしまう」という、本来とは真逆の宣伝を声高らかにしていることと同じなのです。

5/12

5/12 「はっきり聞こえる」    ヨハネ10:22~30

 「わたしは救い主である」、そのように宣言している人は世の中にたくさんいます。かつてもたくさんいたし、これからもたくさん出てくるでしょう。イエスさまの生まれ変わりという人もいます。全部が全部、本当だったらどんなにこの世の中は素晴らしいものになっているでしょう。しかし、残念ながら今までイエスさまの再臨はありませんでした。イエスは「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と言います。そう、多くの人が「この声はイエスさまの声ではない」と聞き分けたからこそ、多くの偽物が出てきても、わたしたちは揺るがされずに信仰を保っていられるのです。
 最近の世相でしょうか「白黒はっきりついていてわかりやすい」というのが好まれる傾向にあるように思います。好きなら好き、嫌いなら嫌い。いいならいい、悪いなら悪い。でも、実際問題、多くのことは「白だか黒だかはっきりしない」「どっちでもいい」ものです。「白黒はっきりしろ」というのは暴論でしかない場合がほとんどです。もしはっきりするとしても「この場所では」という但し書きがつくべきで、状況が替われば見直さざるを得ないこともたくさんあります。最近聞いた話ですと「そばをすすって食べるのは日本では当たり前」と思っていたら、若い世代には「ヌードルハラスメント」として、そばをすすって食べることを嫌う層がいるのだとか。また「外国人に受けいられないからやめよう」というような意見もあるようです。わたしは音を立てる方ですが、それがハラスメントとか外国に受け入れられないとか言われても全く気にしません。自分の好きに食べればいいと思いますし、しいて言えば日本的には音を立てるのが普通なのでそれでいいんじゃないかなと思うんです。決定版なんてありません。
 「わたしが再臨のイエスである」と言っている人がいても、その人が勝手に言っているのであって、もしそれが本物であるのなら、わたしたちに遣わされている聖霊が「識別」の力をもってわたしたちに教えてくれるはずですから、言っている人には勝手に言わせておけばいいんじゃないかなと思います。むしろ、「白黒はっきりしない」時は、聖霊が教えてくれるのを待つのが大切です。判断はその時まで保留でいいのです。そして「その時には絶対にわかる」とわたしたち自身が固く信じることです。周りに動かされるのではなく、自分と神さまとの対話、そして聖霊の働きを豊かに感じるよう、祈り続けていきましょう。そうすればわたしたちはイエスさまの本当の声を聞き分けることができるはずです。それは霊の働きによって感じるものなのです。

5/5

5/5 「日常に戻る前に」    ヨハネ21:1~14

 今日の福音書もヨハネから、イエスが弟子たちに現れる場面です。先週の場面などと違うのは、弟子たちはガリラヤに帰っているということです。しかもシモン・ペトロは「わたしは漁に行く」と宣言しています。ペトロたちはもともと漁師です。弟子たちの多くはもともとガリラヤの漁師だったり農民だったりしたわけですが、その日常に戻りつつあるのです。もしかしたら、イエスに出会ったことはともかく、地元に帰って、もとのように漁師に戻ろう、元の生活に戻ろうと思ったのでしょうか。
 そこにイエスがやってきますが、彼らは最初、気が付きません。普通に漁をしますがなにも取れなかったところにイエスが「右に網を打ちなさい」という指示を出します。ペトロたちがイエスに従うことにした場面とほとんど同じシチュエーションがここでも起こります。その時に起こった変化は劇的です。「主だ」「主だ」と口々に叫び、弟子たちは自分たちの姿、イエスに従うことにした姿を取り戻すのです。裸同然で作業をしていた姿を恥じ、上着をまとって水に飛び込みます。そして水から上がった後、イエスと一緒に食事をするのです。わたしたちは礼拝でイエスに出会います。特に聖餐式はイエスとわたしたちが一緒に囲む食卓です。しかし一方で、礼拝の後、わたしたちは日常に戻っていきます。いや、もしかしたら、礼拝の時、教会にいる時だけイエスに出会った弟子の姿になって、日常では普段通りの姿なのかもしれません。
 わたしたちは、近い最近なのか、遠い昔なのかに関わらず、洗礼を受けた者たちです。洗礼を受けるということは、イエスの弟子として生まれ変わったということです。それにもかかわらず、わたしたちが主の弟子としているのは礼拝に出ている時だけ。それも毎週礼拝に足を運んでいればいいのですが、月に一度、何か月かに一回、もしかしたら何年に一度しか「主の弟子」としての姿を取り戻さないのなら、それはもはや主の弟子なのか、もとのままなのかさっぱりわからないことになってしまいます。本当にそれが「主の弟子として生まれ変わった姿」なのでしょうか。わたしたちは自分に問いかけてみることが必要です。
 イエスさまはわたしたちに礼拝を通して何度も「来て、食事をしなさい」と呼びかけておられます。何度も何度も。そして、日常に戻っていることをとがめることはありません。しかしだからと言って、蔑ろにしていいわけではありませんよね。何度でもイエスさまの弟子としての姿を取り戻しましょう。そしてその頻度を上げると同時に、すぐに日常に戻るのではなく、少し長く主の弟子としての姿を留めて、日常生活の場所に留まってみることを目指しましょう。

4/28

4/28 「たくさんのことが起こった」   ヨハネ20:19~31

 今日読まれた福音書は「トマスの疑い」。朗読の最後は、イエスが多くのしるしを弟子たちの前で行ったことを示して終わっています。ヨハネによる福音書が書かれたのはイエスの死後、100年ほど経過してからであり、イエスのことを直接知っている人たちがほとんどいなくなってからのことです。しかし一方で、その人たちの話が多くの人に伝わる時間もたくさんあったわけで、たくさんの話がヨハネのところに伝わっていたことでしょう。
 復活日から八日間が、イースターのコアなお祝いの期間で、今日がその最終日なのですが、その日に「イエスさまへの疑い」と、「自分たちも知らない誰かとイエスさまが出会った話」が暗示されている聖書の箇所が朗読されるというのは、わたしたちにとって大切なことを教えてくれます。
 一つは、イエスは疑われている中ですら、多くのしるしを見せてくださったということです。わたしたち自身も、必ずしも信じ切れる状態ではないにも関わらず、イエスさまはわたしたちにこれからもしるしを見せ続けてくれるであろうということなのです。そしてもう一つは、わたしたちも知らないしるしを世界中で見せ続けているであろうということ。イエスさまの名によって集まる人たちのいるところで、わたしたちが初めて聞くような場所においても、イエスさまは「あなたがたに平和があるように」とそこに現れてくださるということです。
 「たくさんのこと」はこれからもたくさん起こり続けるでしょう。わたしたちはそんなイエスさまを信じて、ついて行くことだけが必要です。わたしたちが目にすることだけでなく、目にしないことも信じて、これからもイエスさまの後に従って生きましょう。

4/21

4/21 「斜に構える・受け入れる」    ルカ24:1~10

 イースターおめでとうございます。今日はイエスさまの復活されたお祝いのイースター。教会で一番おめでたい日です。しかし一方で、このイースター・復活は、多くの人がキリスト教に対して「そんなこと信じられないよね」と言われてしまう原因の日でもあります。今読んだ聖書はイエスが復活した時に、最初に見つけたのは女性たちであり、今日は読まなかった部分ですが、それを聞いた使徒たちはかなり懐疑的であったことが記されています。使徒と呼ばれた名前の残っている弟子たちですら最初は信じようとしなかったということは、教会の信仰においてとても大事な事です。
 「こころの医者のフィールドノート」という本の中に紹介されているエピソードなのですが、ある精神科を志す医学生が、自分の身分を隠して精神科の閉鎖病棟に入院という形で入ってみたのだそうです。そうすると周りの患者たちは皆やさしく、色々な事を教えてくれて、医者というのはとても冷たい人たちに見えた。後に自分がそこに医者の実習生として入った時、あれほど暖かく感じられた患者たちがみな薄汚れた困った人たちに見えた。というものです。立場が変わると、人の見え方は驚くほど変わる、ということなのでしょう。あることに対して受け入れるのか、それとも斜に構えるのかで、驚くほど見え方が変わるということを知り、先日自分でも実験してみました。すると、受け入れる時は素直にほめる言葉が出てくる。ところが斜に構えると、問題点や至らない部分が見えてくるのです。
 多くの弟子たちも、イエスの復活について最初は懐疑的でした。斜に構えていました。信じると決めても半信半疑でついて行っていた部分は多かったでしょう。しかしそれが、だんだん「信じる」「受け入れる」姿勢に変わっていったとき、多くの物が見えてきたのです。多分、教会に通う皆さんも、そうやって「科学的な根拠が」とか様々な斜に構える姿勢から離れて、イエスの復活を「受け入れる」という姿勢に変わってきたからここに座っているのではないかと思います。わたしは個人的には、斜に構える姿勢よりも、受け入れていく姿勢の方が大事だと思っています。教会は様々な事を試みていますが、それに対して「斜に構える」のか「受け入れる」のか。幼稚園でも「斜に構える」のか「受け入れる」のか。人に対しても。自分たちの普段の姿勢とは逆のことを試みるのも大切な事だと思います。

4/14

4/14 「十字架につけろ」    ルカ23:1~49

 本日の長い長い福音書はイエスの受難の物語。今日からの1週間を「聖週」と言い、イエスさまの受難をわたしたちが思い起こすための大切なひと時です。人々はイエスに対して「十字架につけろ」と大きな声を上げます。
 昨今、様々なニュースに対しての人の反応が「ちょっと怖いな」と思うことがあります。「炎上」とでもいうのでしょうか。何かをやらかした人に対して、周りの人が一斉に責め立てたりすることがあります。この人は悪い人だから、ということで、一人の人を寄ってたかって責め立てるというのは、どうも見ていてあまり気分の良いものではありません。しかも、それがしばしば冤罪だったりするからたちが悪いのです。
 責めている人は、自分を「正しい」と思って責めているのですが、それはこの今日の「十字架につけろ」という叫びと何ら変わりはないように思います。イエスは正真正銘の冤罪だったわけですが、何も言わずに十字架にかかった。しかし民衆は「正義を行っている」と思っていたはずです。それが少しおかしいことは、はたから見ているからわかることです。
本当に悪い人だから十字架にかけられているのかというと、昨今の状況ではそうは言えないことも多いのではないでしょうか。別の立場から見ると「別に悪くない」ということはあるものです。わたしたちは、自分が「正しい」と判断すると、周りを糾合してまで責めようとすることがあります。しかし考えてみましょう。わたしたちが「正しい」と思っていることは、相対的な事です。その相対的な正しさで誰かを十字架につけることがあります。それは悪魔の誘惑です。ですから、この聖週の時に、わたしたち自身が「十字架につけろ」と言ってしまっていないか、点検しましょう。イースターの前に、自分を省みるひと時を持ちたいものです。

4/7

4/7 「そんなことがあってはなりません」    ルカ20:9~19

 本日読まれた福音書は「ぶどう園と農夫のたとえ」。ぶどう園の農夫たちが主人の僕を殺し、息子も殺して自分たちが主人になろうとする話です。最後はぶどう園の主人はこの農夫たちを殺して、ぶどう園を他の人に与えるだろう、と結ばれています。この話を聞いた人々は「そんなことがあってはなりません」と答えます。具体的にどの出来事が「あってはならない」ことなのかはいくつも意見が出るでしょう。「農夫たちが主人の僕を殺す」「農夫たちが息子を殺す」「主人が罰として農夫たちを殺す」などなど。少なくとも「人が殺される」ことは、多くの人が「あってはならないことです」と言うでしょう。
 世間を見渡してみると「あってはならない」と感じるようなことがたくさんあります。例えば「子供を虐待して殺してしまった親」のニュースを聞いて、「それは当たり前」と思う人はいないでしょう。「あってはならない」と思うに違いありません。一方で、例えば「戦争」というと意見が分かれることがあります。そもそも「戦う」こと自体があってはならないと感じる人もいれば、「解放のため」だったらいいという人もいるし、「いや、あれは外交の一手段だから」という人もいる。「諸君、わたしは戦争が好きだ」というような人は極めて稀でしょうが、「この場合は仕方がない」と、消極的に認める人も意外といるはずです。わたしたちの間でも、話してみると意外と「あってはならない」の範囲は違ったりするものです。もちろん多くの場合、どの立場にも一理あり、どちらがいいか決められず、その時の状況によって変化し得るものです。例えばわたしが小学生のころ、先生が教室でタバコを吸っているのは割と当たり前の光景でしたが、今は「あってはならないこと」になっています。時代とともに変わるものも数多くあります。
 民衆たちが「あってはなりません」と言ったことに対して、イエスは「隅の親石」について語ります。普通だったらありえないことが起こる、というのです。わたしたちは「あってはならない」と思ったことが起こると、憤ったり、無力感に陥ったりします。しかし一方で、見方を変えると「ありえない」ことは「ありえる」ことにも変わります。わたしたちの目から見て「あってはならない」「ありえない」と思えることも、神さまの目から見たら「ありえる」ことになることがあります。そしてそれは、わたしたちにとっていいことも悪いこともあります。わたしたちは「あってはならない」と他人を非難する前に慎重であるべきです。
 このたとえ話において一番「あってはならないこと」は「ぶどう園の農夫たちが、ぶどう園が自分たちのものになる」と思ったことです。「ぶどう園」=世界、「主人」=神さま、「農夫たち」=人間と考えると話が見えてきます。これは「人間」が「神さま」に取って代わろうとするたとえ話なのです。人が「あってはならない」と思うことはそれぞれですし、それぞれに一理あるものです。しかし人が神さまを信じず、神さまを遠ざけようとする時、神さまにとっての「あってはならない」話しに変わります。他人ではなく、自分に目を向けましょう。自分こそが、神さまが考える「あってはならない」に陥っていないとも限らないのですから。

3/31

3/31 「あなたはどうしますか」    ルカ15:11~32

 今日の福音書は「放蕩息子」のたとえ話。誰もが知っている有名なお話です。好き勝手に振舞い、財産の生前贈与を要求した弟は家を出て財産を使ってしまって落ちぶれますが、兄は父に従い、実家でまじめに働いて過ごします。そこへ弟が帰ってくると父親は喜んで宴会を開き、そこへ帰ってきた兄が怒るわけです。
 このたとえ話には三つの立場が出てきますが、どの立場から読むかによって見え方が変わってきます。「弟」の立場からすれば、自分の失敗もわかったうえで受け入れられる「救われた」話しです。弟息子は「もう息子と呼ばれる資格はありません」という反省の言葉を口にしようとしますが、父親はそれすら関係なく、自ら迎えに行き、かつてと同じように迎えます。わたしたちは「罪」の状態にありながら、父なる神に受け入れられる。神さまはわたしたちの状態を問わずにいつでも喜んで受け入れてくれる。反省だとか、改めるだとか、その前に受け入れてくれるのです。受け入れてくださったのだから、それにどうやって応えていこうか。たとえにはその続きは語られていません。
 「兄」の立場から考えると、この話はとても理不尽なものです。兄は父に言います。「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」 真面目に仕えてきたのは、父の後を継ぐためです。もしかしたら少しくらいは弟のようにしたかったかもしれない。でも、それを自分で飲み込んで真面目にやってきたのに、不真面目にしている弟を父親は受け入れる。「信じられない。こんなやつは放り出した方がいいのに。」 兄としてはこのくらい思っても不思議ではありません。「教会に真面目に来ていない人たちが大事にされるなんてありえない」と、普段教会に来ている方が言うのと同じです。このたとえは父親が諭すところで終わっていて、兄が最終的にどうしたのか語られていないのです。彼は一体どうしたのでしょうか。
 そして「父親」の立場から見ると、この話は二人の息子への愛の話です。「弟」の苦境をみたら、それが自業自得とはいえ助けたくなるものです。「自分くらい信じてやらなくては。」 これは完全に親の立場です。そして「兄」の憤りもわかります。しかし親というのはそれでも兄弟仲良くやってほしいのものなのです。そして、誰も失いたくないのです。「父親」というのはそのようなものですし、これを「父なる神」と置き換えるのなら、自分の創造物を失いたくないのは当然のことです。父なる神はだれでも受け入れる愛に満ちている方です。で、わたしたちはどうでしょう。
 どの立場においても、問われているのは、「あなたはどうしますか?」ということです。答えはみなさん一人一人の中にあります。神さまに受け入れられた「弟」として、神さまに仕える「兄」として、そして神さまのような「父」として、わたしたちの振る舞いが問われているのです。

3/24

3/24 「目を向ける場所」    ルカ13:1~9

 もうあれから半年が経過したけれども、胆振東部地震では42名の方が亡くなり、700名以上の方が負傷。そして現在も多くの方たちが仮設住宅などで避難生活を送っています。今日の福音書の質問に従えば「この被害に遭った人たちは、どの日本人よりも罪深い人だったから」ということになるけれども、さすがにそれはちょっとまずい考え方だと思います。イエスは「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言い、いちじくの木のたとえを話します。
 いちじくの木のたとえには2つの解釈ができると思います。一つは「神さまは決して誰をも見捨てない」というメッセージです。「実がならない」「結果が出ない」ということで簡単に切り捨てたりせず、神さまは長い目で人を見てくださる、ということです。わたしたちが「あの人はもうだめだ」と思っていても、神さまは見捨てず、その人が悔い改めて神さまの方に目を向けるのを待っていて下さるということです。
 もう一つの解釈はちょっと厳しいものです。「わたしたちが、これほど長く待っても悔い改めて神さまの方を向くことがないので、もう猶予はあまり残されておらず、切り倒されてしまう日が近いよ」という、「少し焦って自分を見つめ直してはどうでしょう」というメッセージです。もしかしたら、「いやいや。わたしには悔い改めるところはありませんよ。」という人に対して、「自分を見つめ直してくださいね」というメッセージも含まれているのかもしれませんね。
 どちらにせよ「悔い改め」が今日の福音書の一番大きなテーマでしょう。「悔い改めは誰にでも必要な事だ」ということですから、大斎節に考えてみるのにふさわしい事だと思います。何度でも言いますが、聖書で言う「悔い改め」というのは、わたしたちが神さまを生活の中に取り入れることです。神さまに向かうということです。「人のこと」ではなく、「自分のこと」に目を向けることです。
 わたしたちは日々の生活の中で人のことにとらわれがちです。「自分」ではなく「誰か」の振る舞いに心を奪われます。いけにえにされたガリラヤ人、シロアムの塔の事故で死んだ人など、不幸な人たちに目を奪われます。しかし、その目の向きも、心の動きも、自分の信仰を点検する方向に向けてみませんか。そして何より、わたしたちの心を神さまに向けませんか。大斎節はそのためのものです。そして、教会で行われている主日礼拝は、心を神さまに向けるためのものです。信仰とは究極的には個人のものですが、「わたしたち」の信仰、つまり集団としての信仰も大切なのです。孤独な信仰は、道を逸れても気が付かないからです。だからこそ「教会」があることを忘れないでいてほしいと思います。神さまに心を向けて大斎節を過ごしましょう

3/17

3/17 「道の先には」    ルカ13:31~35

 大斎節も2週目に入りました。今日の福音書はイエスとファリサイ派の人たちの間の会話が中心です。ヘロデに命を狙われていると告げたファリサイ派の人々に対して、イエスが「わたしはそれでも自分の道を進む」と答える場面です。
 イエスの活動は多くの人々に疎まれていました。王政を支持するサドカイ派とヘロデ王、そして神殿と祭司たちにとっては、自分以外の権威を打ち立てかねない危険人物です。また市井の人々の間で活動していたファリサイ派にとっても、自分たちと少し違う教えを説くイエスは対立する間柄です。イエスの活動は当時のユダヤ教を大きく揺り動かす活動でもありました。
 古来より日本では様々なものを「道」と表現します。歩くための「道」ももちろんそうですが、華道や茶道、柔道や剣道なども「道」であらわされます。また「道理」という言い方もあるように、人として取るべき道を表すこともあります。「道」という漢字の成り立ちには色々な説があるようですが、一説には首が前を向いて進んでいる状態を表すのだそうです。(もっと血なまぐさい説もありますが)「顔」が進む方向へ向いていること、これが「道」です。華道や茶道、柔道や剣道などもそうですが、最初は師匠が進むべき道を示してくれますが、ある程度修行が進めば、自分で進む方向を定めねばなりません。「人としての規範」はもちろんある程度ありますし、子どものうちは親や先生が教えてくれますが、大人になれば自分で判断して進むべき方向を定めねばなりません。しかし、どんなに紆余曲折があったとしても、わたしたちが最終的に行くべき道というのはイエスについていく「道」のはずです。でも一人一人の「道」は違うはずなのに、どうしてそんなことが可能なのでしょうか。
 「顔」というのは不思議なものです。わたしたちの頭のパーツは一か所に固まっていてそこが「前」になる。顔を動かさなければ横はほとんど見えないし、ましてや後ろは見えません。人が進むとき、それなりに気を付けていたとしても、基本的に「前しか見えない」のです。どんなに振り返っても過去を変えることはできません。わたしたちの「道」は前にしかないのです。その「道」もしかしたら誰も通ったことのない道かもしれません。
 イエスが進んだ「道」というのはどんな道だったのでしょうか。それは多くの人が救われるための「道」です。そんな道は後にも先にもイエスが作った道だけです。本来「道」というのは自分の前にあるのではなく、自分の進んだ後ろにできるものです。イエスはわたしたちのために、誰も進んだことのない場所を進み、天の国への道を用意したのです。誰かから何か言われても、そこから逸れるわけにはいかなかったのです。そしてその道は神さまの用意した道でもあります。
 わたしたちの人生は一人ひとり違います。しかし、イエスはすべての人のために「道」を用意しました。すべての人が様々な形でイエスに出会い、そこからイエスが共に歩むことによって、一人ひとり違う道が神さまに通じる道になります。そしてその道はわたしたちの前にしかないのです。進みましょう。その「道」は誰も通ったことがなくても、必ず神さまに通じているのです。

3/10

3/10 「荒れ野の誘惑」    ルカ4:1~13

 今日から大斎節が始まります。今日の福音書は「荒れ野の誘惑」。イエスが荒れ野でサタンから誘惑を受けます。悪魔の三つの誘惑は、わたしたちに何を教えてくれるでしょうか。
 「石をパンに変える」「悪魔を拝む」「神殿の屋根から飛び降りる」。わたしたちは「石をパンに変える」ことはできないし、「神殿の屋根から飛び降り」たら死んでしまいます。でも「悪魔を拝む」ということはできるかもしれませんね。じゃあ「悪魔を拝む」ことにだけ気を付けてればいいでしょうか。「悪魔教」なんか、普通にしてれば出会う機会もないでしょうから、わたしたちには関係のないことのように見えます。しかし、イエスの答えに注目してみると、少し違う様子が見えてきます。
 イエスは「「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてる」と答えました。どの問いに対してもそうですが、イエスは聖書の言葉を引用して答えています。イエスは自分が神さまの子なのだから、「わたしがこう思う」と答えてもいいはずです。しかしそうせずに、イエスは「聖書」という神さまの言葉に聞いたのです。「わたし」ではなく「神」が優先なのです。
さらにイエスの答えは「神だけを拝みなさい」ということです。わたしたちは日常、様々な言葉に踊らされています。テレビで〇〇が体にいいと聞けば買いに行き、うわさを聞いたらそうでないかと思い、自分の気持ちが優先で、神さまの言葉に確かめることは日々の中になかなか組み込まれていません。「聖書にどう書いてあるかよりもわたしの気持ちの方が正しい」のであるのならば、神の言葉である聖書よりも自分自身の方が大きくなってしまいます。悪魔を拝まなくても、神さま以外のものを神にしてしまいます。なぜなら、神さまはわたしたちの気持ちに時にNoを突き付ける方だからです。
しかも、悪魔は「とてもよいもの」の顔をしてやってきます。オレオレ詐欺も、マルチ商法も、悪徳商法も、とてもいいものとしてわたしたちの前に現れます。もし、わたしたちの日常で、神さまよりも他の言葉を優先してしまうようになった時、大いに気を付けてください。そして、神さまに聞きましょう。大斎節はそのことを確かめるための期間です。この大斎節、わたしたちの周りにある誘惑を神さまの助けによって見極めながら過ごしてほしいと思います。

3/3

3/3 「これに聞け」    ルカ9:28~36

 少し遅めですがいよいよ今週から大斎節に入ります。教会では、大斎節をイエスさまの復活を記念する準備をするため断食や祈りなどの修練をしたり、イエスさまの模範にならって生活を正したりする期間として守ってきました。今日はその直前の大斎前主日。毎年必ず、福音書は違いますが「山上でイエスの姿が変わる場面」が読まれます。ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登ったイエスの前にモーセとエリヤが現れ、イエスの姿も輝く姿に変わるのです。なぜ、大斎節の前にいつもこの箇所が読まれるのか。きっとそこには大事な意味があるはずです。少し考えてみましょう。
 まず一つは、イエスさまがモーセやエリヤと一緒に語り合っているということです。モーセは出エジプトの、エリヤは預言者たちのいわば代表です。一番名が知られていて、様々なところで「モーセはこう言っていた」「エリヤはこうだった」と引用されている人たちです。イエスがそれと同じ姿で語り合っていたということは、イエスさまはこれらの旧約聖書からの伝統を引き継ぐ者であるということです。
 だからこそ、ペトロは「仮小屋」を建てましょうと言いました。「仮小屋」というのはモーセの時代の「幕屋」です。出エジプトの民が放浪している時、その「幕屋」に神が宿っていたからです。民が移動するたびに幕屋は移動し、神さまは民に先立って進んだのです。ペトロはその栄光を地上に留めようとしたのです。
 そしてもう一つ大事なのは、雲の中からした声です。「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」という声です。弟子たちがモーセやエリヤを地上に留めようとしましたがそれは叶いませんでした。しかし、イエスは残っています。イエスは旧約聖書の時代を引き継ぎ、神さまの言葉を人々に伝える存在です。弟子たちはモーセやエリヤではなく、イエスに直接聞くことができます。「なんでもイエスに聞きなさい。」と、神さまは弟子たちに示したのです。
 しかし、もう2000年も昔のことです。わたしたちは残念ながらこう言われてもイエスさまに直接聞くことはできません。じゃあ誰に聞けばいいのか。主教ですか?それとも司祭ですか? と思われるかもしれません。でも主教や司祭もイエスさまに直接聞きたいと思います。しかし幸いにして、わたしたちには「聖書」が残されています。イエスさまの言葉を読み、弟子たちの手紙を読み、思いを巡らせます。イエスの言葉に「聞き」ます。つまり「黙想」です。聖書の言葉にじっと呼吸を整えながら向き合い続ける。聖書を自分の生活の一部とすることです。「だれがどうした」ではなく「イエスさまがこうしていた」ということこそ、教会の中で話されるのにふさわしいことです。「黙想」と「祈り」、大斎節に取り組むのにふさわしい行いだと思います。

2/28

2/28 「当てにせずに」    ルカ6:27~38

 今日のイエスの言葉はわたしたちにとって重く響きます。それは「敵を愛しなさい」ということ。「敵」というものは「憎い」から敵なので、それを「愛する」ことを受け入れるのはとても難しいです。憎み続ける方が簡単ですしね。
 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざもありますが、自分の「敵」のすることはやることなすこと嫌なことに見えてしまいます。自分にとって好ましい人なら「あの人はいつもニコニコしている」。でも憎い人なら「あの人はいつもニヤニヤしている」。同じ笑顔のはずですが見え方が違います。「細かいことに気を使って色々やってくれる」人は「神経質で細かい事まで追求する」人になり、「誰にでも元気にあいさつする」人は、「こちらの気分も知らないでうざい」人。わたしたちが受ける印象って、自分の好みによって簡単に変わってしまいます。実際は、笑顔に変わりはありませんし、細かいことが気になるのはそういう気質だからです。空気を読まないということは、物おじしないということでもあります。印象というのは表裏一体です。「味方」はすべて正しくて「敵」はすべて間違っているというわけではありません。誰もが正しさを持っているのです。
 イエスが言う通り、誰もが自分に対して好意的に振舞う人に対しては好意的に振舞うし、手助けしようと思ってくれるのは当たり前のことです。わたしたちが嫌いな人だってそうしているはずです。誰もが向けられた好意に対しては、なんらかの好意で返そうとします。だからこそイエスは、わたしたちにとって「当たり前」と思うことを一歩先に進め、「敵を愛しなさい」と言います。
 「敵を愛する」というのは難しいことのように感じます。だから、こう言い換えるといいかもしれません。「敵であっても大事にしなさい」 わたしたちが生きていれば、「敵」になる人もいるでしょう。しかしその人に対しても「大事に」振舞う、つまり「人として敬意をもって対応する」ということです。「大事にする」というのは「相手の要求通りにする」ということではありません。「丁寧に」「できません」と伝えればいいのです。「大事にする」ということを「要求通りにする」ということと勘違いをするのは悲劇につながります。また、「当てにしないで」するというのは大切です。わたしたちは普段「見返り」を求めたくなるからです。「これだけやってやったんだから、自分に丁寧に返してくれるだろう」と考えると、どうしてもイライラします。「丁寧にすれば相手は変わるだろう」と思っても、変わることってまずありません。これも見返りの一つです。もちろん完璧にするのは神さまにしかできませんが、イエスの言葉に倣うことは、クリスチャンとしての大切な生き方だと思うのです。