福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
11/25
11/25 「ホサナ」 マルコ11:1~11
今はほとんどすべての国の暦が太陽暦(グレゴリオ暦)で統一されていて、世界中どこに行っても日付は同じように変わっていきますが、昔は国や宗教ごとに暦って違うものでした。日本も明治になるまで太陰暦(月を基準にする暦)を使っており、太陽暦に切り替えた時は12月が3日しかなくてかなり混乱したとか。ちなみに、教会は日付こそグレゴリオ暦ですが、教会的な一年の始まりは来週の降臨節第1主日なので、今日が一年の最後の主日です。福音書はイエスのエルサレム入城の場面が読まれました。
子ロバに乗ったイエスを迎えたエルサレムの人びとは「ホサナ」と言ってイエスを迎えます。「ホサナ」という叫びは、「どうか、わたしたちを救ってください」という意味です。イエスこそが自分たちを救ってくれると信じる人々の叫びです。しかし一方でこの叫びはすぐに失望の叫び「十字架にかけろ」という叫びに変わってしまう脆いものでした。
物事が新しく変わる時、というのはたいてい今までの一年をふりかえり、新しい一年を迎える準備をすると思います。年末のテレビ番組なんかそうなっていますよね。実際の暦の新年とは少し時間がずれていますが、この教会の一年が終わる時に、キリスト者としては、自分の今年の信仰の歩みを振り返るひと時を持っていたいと思うのです。
先ほど聖書が読まれたように、わたしたちはイエスに対して「どうかわたしたちを救ってください」と言い、救われることを信じる者です。しかし一方でその信仰には脆い部分があって、様々な誘惑にさらされ、また様々な事に躓き、強く保ち続けることが難しいものでもあります。神さまよりも人間の方が気になって、教会と、そして神さまと遠くなってしまうことが多くあります。
しかしわたしはそんな時、エルサレム入城の時のイエスの姿を思い描きます。本来「王」であるのなら立派な馬に乗るものです。ロバは市井の人々が使うものです。ですからイエスはロバを、しかも子ロバを使いました。ロバに乗っていれば馬に乗っていれば周りを取り巻く人々よりも背が高く、頭一つ抜けて見えます。ところがそれが子ロバだったら、人々と目の高さが同じになります。人々は王様を迎えるように出迎えますが、イエスは人と同じ目の高さをキープしているのです。決して勇ましいものでもかっこいいものでもありません。ただ周りの人と共にありたいという姿勢です。信仰とはカッコいいものでもないし、目立つものでもない。称賛されるものでもない。そこに「ホサナ」と言う、信じる、そんな信仰を今一度確認したいのです。そして確認して、新しい一年を、そしてクリスマスにイエスさまをわたしたちの心に今一度迎えたいと思います。
11/18
11/18 「避難訓練」 マルコ13:14~23
今日読む福音書は、マルコから「小黙示録」と呼ばれる部分。イエスが世界の終わりについて少しだけ語った場面です。世界が終わるんだったらどこに逃げても一緒だと思うんですが、「山に逃げなさい」とイエスは言います。
「山」というのは洋の東西を問わず、神と人とが出会うところです。モーセはシナイ山で十戒を授かり、イエスの姿は山の上で変わります。修験者は山を駆け巡って修行をし、仏教の有名なお寺は山にあることも多いです。中国では仙人になるために山籠もりをし、山そのものが信仰の対象の宗教もあります。山に逃げるということは「神さまに守られるため」でもあります。
聖ルカ幼稚園が認定こども園になって、逃げる方法が変わると同時に、毎月の避難訓練が義務付けられるようになりました。どこが安全なのか、火事なのか地震なのか、津波は来るのか来ないのか、樽前山が噴火したらどうするか。考えることはたくさんありますが、一つ一つ考えていくことが必要ですし、二階建になったので避難器具の使い方にも習熟が必要です。先日の北海道胆振東部地震の後考えましたが、避難訓練や命令系統の整備などをきちんと考えておく必要があることを痛感しました。また、この礼拝堂の構造も早急に解決しなきゃいけない問題があることも確認しました。もしその場に自分がたったとして、とっさに色々な事を判断して逃げなければ、東日本大震災で見たような様々な痛ましい出来事が起こるかもしれないのです。
イエスは「惑わされないように気をつけなさい」と言います。様々な出来事がわたしたちを惑わします。でも、残念ながら、こういったとっさのときに「自分で」判断することができなければ、悲劇的な結果を招いてしまうことがあります。しかし一方で、自分で判断しようとすると迷います。周りで色々なことを言う人がいます。最良の選択肢を選ぼうと考えても「最悪」か「悪い」という選択しかできないこともあります。「その時」が来た時、自分は迷わず選ぶことができるか、いつも考えています。「迷い」ます。
だからこそイエスは「山に逃げなさい」、「神さまの所に逃げなさい」とわたしたちに語りかけてくださったのでしょう。神に守られるところまで逃げるのです。物理的な「山」だけではなく、わたしたちの周りにはたくさんの「山」があります。わたしたちがよりどころとしている「山」を時々確認して、そこまで逃げる「訓練」をすることも必要なのでしょう。
11/11
11/11 「犠牲を払うということ」 マルコ12:38~44
今日の福音書は「やもめのレプトン銅貨」の話。イエスが神殿で多くの人々が献金をする場面を見ていたイエスは、やもめがレプトン銅貨二枚を入れたこと「この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた。」と語ります。
現代において、「ささげもの」と言えば多くの場合「献金」とか「お布施」とか言いますが「お金」でささげることが多いでしょう。それでも地方に行けば収穫感謝祭の時は野菜や果物などの収穫物がささげられることもありますが、それもだいぶ珍しい光景になってきました。イエスの生きていたころは、お金ではなく「モノ」でささげていました。近代になり貨幣経済が発達するまではお金よりも「モノ」をささげる時代だったのです。だからこそ、イエスは追い払いましたが神殿の周りにはささげるための動物を売る店が並んでいました。
神さまへのささげものはまた、「犠牲」と呼ばれていました。「モノ」は例えば穀物だったり動物だったりするのですが、聖書にもよく登場するのは「焼き尽くすささげもの」などの動物です。神さまに対して、自分の財産の一部(動物や穀物等)を「犠牲」としてささげたのです。ささげられた動物たちはその場で屠られ、血を流し、その血も祭壇にささげられ、背中の脂肪を切り取って焼き尽くします。自分の財産(自分の一部)が文字通り「血を流して」ささげられていたのです。それが普通でした。どんどん時代が下っていくと、教会の中で動物を屠って「血を流す」ようなささげ方は廃れていきます。でも、モノでささげることはすぐには変化しませんし、自分の財産である収穫物などを(自分の一部を)ささげることは変わりませんでした。
さらに時代が下り、現代になると、「お金」でささげることがほとんどで、欧米の一部の教会では電子マネーで献金するところもあるとか。しかし一方で、ささげているものが「自分の一部」であり、文字通り「血を流してささげていた」ものであるという感覚は弱まっているかなとも思います。本来、「ささげもの」は、「自分の一部」を「血を流して」、「犠牲にする」ものであり、自分にとって貴重なものを放棄して神への信仰を表明するという側面があります。教会の「献金」も同じです。有り余る中からささげるだけではなく、「献金」の持つ「痛みをおぼえる」「犠牲を払う」という側面も、時に大切にしてみてはいかがでしょうか。
11/4
11/4 「大事にしなさい」 マルコ12:28~34
今日読まれた福音書は律法学者とイエスとのやり取り。最も重要な2つの掟についてイエスが語ります。「神さまを愛すること」、そして「隣人を自分のように愛すること」というとても大事な掟です。何度も繰り返していますが「愛する」とは「大事にする」ということです。そして、そのおきてを把握しているということは「神の国から遠くない」というのです。
みなさん大事なものはありますか。多分全くないという人はいないんじゃないかと思います。それが何なのかは、例えば人なのか物なのか色々あるでしょうし、大事さもそれぞれ違うんじゃないかと思います。ただまぁ一般的に、「大事なもの」「大事な人」に対しては、ある程度「扱いが丁寧になる」のかなという気がします。モノだったら手入れをしっかりするとか、頻繁に使うとか、飾っておくとか、それぞれ違うでしょうけれども、他の物とは少し違う取り扱い方をする。人でもそうですよね。じゃあ「神さまを大事にする」ってどんなことでしょう。神さまに対して丁寧にするというのはどういうことでしょう。
まず一つは、「自分にとっての神さまは一つである」ということをはっきりすることです。それから「神さまに接触する機会を大事にすること」。具体的には日々の祈りや毎週の礼拝がそれにあたります。モノを丁寧にメンテナンスすると長持ちします。近しい関係の人とは頻繁にコンタクトをするものです。神さまにコンタクトをするためには、祈ることです。日々の祈りはそのため、そして毎週の礼拝も同じことです。もちろん礼拝は時間が決まっているから出られないこともあります。でも、そのために祈祷書には色々な一人でもできる礼拝が載っています。もちろんそれを使って家で礼拝をしても良い。考えられることはたくさんあります。それともう一つ大事なことは、神さまから与えられたものを大切にする、丁寧に扱うことです。
わたしたち自身の身体も含めて、わたしたちの周りにあるものは神さまから与えられたものです。ですから、「神を愛する」ということは、「自分を愛する」ことに繋がり、そしてそれと同じように「隣人を愛する」ということに繋がります。自分の周囲の物に関しても同じことです。すべてはつながっています。だから、一か所を強調してはいけません。神さまを大事にするということで礼拝に出るために、収入が絶たれては生きてはいけません。誰かを大事にするあまり自分のことを我慢するばかりでは精神的に死んでしまいます。もちろん、これらのことは意識していても簡単な事ではありません。しかし「愛する」「大事にする」ことはすべてつながっていると気づくことが、「神の国」が近づく第一歩なのです。
10/28
10/28 「神へ要求せよ」 マルコ10:46~52
今日読まれる福音書は盲人バルティマイの癒しの場面。エルサレムへ向かおうとするイエスが、エリコの町はずれで盲人バルティマイに出会います。バルティマイは目が見えませんから、目の前を通る人が誰だかすぐにはわかりません。しかし、それがイエスの一行だと知ると「わたしを憐れんでください」と大きな声で叫びます。バルティマイがイエスだと知って叫んだということは重要な意味を持ちます。それはイエスが癒しの力を持っていると知っていたことです。知っているからこそ、止められても必死で叫び続けたのです。
バルティマイの願いを止めたのがイエスの周囲にいた人というのも大事です。わたしたちは様々な願いを持ちますが、時々誰かに仲介してもらいたくなります。人間同士では結構ありますよね。でも時々、思い切って直接言ってみたほうがかなえられる願いってありませんか。周りが「ダメなんじゃない」「無理だよ」と言っていても、やってみたらできちゃった、という経験ってありませんか。必死に叫び続けた甲斐もあってか、バルティマイはイエスのところに行くことができました。バルティマイは期待したことでしょう。ああ、いよいよ癒してもらえるのか。でも、イエスはバルティマイに聞きます「なにをしてほしいのか」
イエスはバルティマイの願いがわかっているはずです。必死にイエスに向かって叫び続け、きっと止めていた周囲の人たちにも話をしたことでしょう。だからイエスには伝わっているはずです。でもあえてイエスは「なにをしてほしいのか」と聞いたのです。神さまへの要求は口にされることが大事です。願いを口に出すことはわたしたちにとって大事です。心の中で悶々と思うだけでなく、口に出し、そして行動してみることです。野球選手になりたいのに野球の練習をしなければ決して選手になることはできないでしょう。人と仲良くなりたいのに話しかけなければ関係は生まれません。そしてそれは、「周りの人たち」に話しているだけでは実現しません。最終的には直接行動しなければならないのです。神さまに対してもそれは同じです。わたしたちが神さまに信頼し、神さまに直接話しかける時、神さまは応えてくれます。直接、バルティマイが何度も叫んだように、あきらめずに神さまに向かって叫び続けることです。わたしはこうしたいのですと口にすることです。神さまに要求するのは不遜な事ではありません。神さまは、わたしたちが直接、神さまに呼びかけるのをいつも待っているのです。
10/21
10/21 「仕えるという姿勢」 マルコ10:35~45
聖書の中でよく「右に仕える」「左に仕える」と言ったり、イエスのことを「父なる神の右におられます」という言い方をします。「右」とか「左」とかなんで場所が関係あるんだと思われるかもしれませんね。「〇〇はわたしの右腕だ」という言い回しがありますが、大概の人は右手が一番自由に使える(左利きの人ごめんなさい)ので、「腹心の部下」「一番信頼している」という意味になります。日本にも「右大臣」「左大臣」という役職がありましたが、権力者・統治者の左右に控えるのは家来の中でも「一番偉い」というわけです。それに対して「あなたがたの中で一番偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」とイエスは言います。
それから長い年月が経ち、「仕える」「奉仕」ということが教会において、あたかも「美徳」のようになり、いつしか「どのくらい奉仕したか」「仕えたか」ということで教会に連なる人たちが測られるようになっていきました。例えば「あの人はこれだけのことを奉仕したのだから偉い」とか「いつもやってくれているから、口が悪くてもよい」とか、そんなことも言われるようになりました。しかし一方で「仕える」ことができない人たちが陰口を叩かれたり、教会に行きづらくなったりすることもありました。
イエスが「仕える」ということを言ったのは、「奉仕」を「徳目」にしたかったからでは決してありません。「偉い」ということが「仕えられる」ことと同義なので、「仕える」ということで「偉いか偉くないか」という争いそのものを無意味にしたのです。教会の中では、お互いに「仕えられる」者同士であり、どちらかが偉いということなどないのです。もちろんそれぞれにできること、できないことがありますから、みんなが同じことで「仕える」必要もありません。うちの教会で言うのなら、「礼拝の奉仕をいつもしているから偉い」「献金が多いから偉い」「教会の活動にたくさん参加したから偉い」「ささげものをたくさんしているから偉い」「バザーの売り上げに貢献したから偉い」ということではないのです。それらのことが「奉仕」、つまり神さまにささげたこととしてできないのなら意味がなくなってしまうのです。唯一できる「同じ」「仕える」ことは、一緒に神さまに向かって礼拝することです。
イエスが言った「仕える」というのは「姿勢」です。わたしたちが神さまの前に真にへりくだり、仕えようとする時、「誰が偉いか偉くないか」という考えは無くなっているはずです。まず、神さまの前にへりくだることが大切です。
10/14
10/14 「神にはできる」 マルコ10:17~27
今日の福音書に登場する金持ちの青年。とても純粋な人で、そして、とても恵まれた人です。この時代に律法をきちんと守ることができるということは、食い扶持のために仕事に追われることがなく、食事や着る物なども自由にできたということを指します。ほとんどのユダヤ人たちはそんなことはできず、律法を「守らない」のではなく、物理的に「守ることができない」という状態にありました。でも、その青年はそのことをよくわかっていません。ですからイエスは彼に対して「慈しんで」言います。「行って、持っているものを売り払って施してしまいなさい」 財産を抜きにして律法を守ることができるかい?とイエスは問いかけます。
でも、これは少し意地悪な問いかけです。わたしたちが「あなたたちクリスチャンは愛だのなんだのと言っているけど、それを示すために自分の財産を全部ささげなきゃいけないんじゃないのかい」と、問いかけられた時どう答えますか。「わたしは金持ちじゃないから」といっても、世界から見たら、どんなに貧しくても日本人は豊かな方なのは間違いありません。イエスはわたしたちにそんなことをさせたいのでしょうか。「教会に来るのなら、自分の全財産を教会に献金しなさい。自分をすべてささげなさい」と言ったらどうでしょう。とんだカルト教団ですよね。
この話の大事なところは、その後の弟子たちとのやり取りにあります。弟子たちもこのやり取りを聞いていて驚きました。そりゃ「誰が救われるんだよ」と文句の一つも言いたくなります。それに対してのイエスの答えは「人間にできることではないが、神にはできる」でした。そう、わたしたちの救いというのは「人間の努力」によってなされるのではなく、あくまで「神によって」なされるということです。「わたしはこれだけやってきた」というのは神さまにとっては無意味だということです。「わたしはこれだけやってきたのだからいい」ということにはなりませんし、「わたしは何にも出来ないので救われない」ということもありません。わたしたちにできるのは、「わたしたちの思いと言葉と行いが、主よ、あなたのみ心にかないますように」と祈ることだけです。もちろん、イエスさまの教えてくださったように愛をもって振舞うことは大切です。そしてそれは誰に対しても同じです。「あの人はこれができない」とあら探しをすれば簡単に見つけることができます。人間ですから。でも、それは意味のないことです。それよりも「神さまはこんなわたしをも救ってくださる」と信じることこそが大切なのです。
10/7
10/7 「結び合わせるのは神」 マルコ10:2~9
今回の福音書は結婚、そして離婚の話なのですが、イエスの言葉にはもう少し大きな意味が込められているように思います。それが何かというと「神が結び合わせたものを「人が」離してはならない」という言葉です。
ところでみなさん、自分のことを「完璧」で、「欠けるところがない」と思っている人はいるでしょうか。もしくは、自分は「完璧」になりたいという思いを持っておられる方はいらっしゃるでしょうか。おそらくいないんじゃないかと思います。というより、人間は誰一人として「完全」ではありません。必ずどこかに「欠けた」ところがあります。そしてそれはそれぞれに違います。ロマンチックな言い方ですが、その欠けた所を補い合うように男女は結びつく、聖書はそのように教えています。最初の人アダムに対して神は「人が一人でいるのは良くない。「彼に合う」助ける者を造ろう」と言い、イブを創造しています。イエスが「二人は一体となる」という所以です。夫婦のことを「破れ鍋に綴じ蓋」(われなべにとじぶた)と評することがありますが(正直あまりいい意味に使われないんですが)、本来は「誰にでもふさわしい伴侶がいる」という意味です。そうなるように神さまが配置してくれる、という神さまへの信頼でもあります。
また、これらのことは「結婚」という結びつきだけに限りません。親しい友人同士もそうですし、仕事などでもそうです。今回の地震の支援ボランティアに参加していましたが、ある程度時間が経過すると、コミュニケーションを取りやすい人同士が結びつき、仕事の効率がどんどん上がっていきました。最初は全く知らない人でしたが、少しずつ作業の合間に話をしていると、だんだん呼吸が合ってきます。いやもちろん合わない人もいるわけなんですが、それはそれでまた別の人と呼吸が合っている様子が見えるのです。「ああ、このつながりは神さまが結び合わせたのかな」と思うような繋がりをたくさん見ることができました。
一方で、こういった働きを邪魔しようとする外野もいます。ボランティアセンターの運営は上手く行っているようでありながら、かなりのクレームが入っているのも聞きました。しかも、現地の人ではなくボランティアに来た人たちからのクレームが多いことを聞いて頭を抱えました。大体の場合、様々な結びつきを壊そうとするのは人です。当人同士が壊すというより、大概の場合第三者が絡んできます。「人が」離すのがほとんどです。わたしたちは本来、様々な場面で神さまに導かれて結びつき合う者です。そして教会という人の集まりも、神さまに導かれて結びつきあっています。ですが、一方でわたしたち自身が「離す者」になってしまっていることもあります。離すのではなく結びつきを強めるようでありたいものです。
9/30
9/30 「親しみを広める」 マルコ9:38~43,45,47~48
日本のクリスチャンはだいたい人口の0.1%を切ったくらいと言われています。キリシタンのころから数えればキリスト教が日本に伝わって400年以上が経過しています。それにしては「少ない」と言われることが多いです。その一方で、キリスト教的な慣習は広く人々に受け入れられています。「クリスマス」なんてその最たるものですし、別にクリスチャンじゃなくても子どもをキリスト教系の幼稚園に通わせたりしますし、ミッション系の大学は人気だったりしますね。そう考えていくと、キリスト教というのは「受け入れられている」と言えるのではないでしょうか。もちろん、クリスマスのお祝いはイエスさまの誕生祝いなのであって、恋人と過ごす日じゃないという異論もありますし、「浮つきやがって」というクリスチャンからの声を聞いたこともあります。
今日の福音書の冒頭で紹介されていたのは、イエスの弟子ではないけれども、ある意味で「イエスを騙って」悪霊を追い出している現場です。弟子たちはそれを止めさせようとしてイエスにたしなめられます。弟子たちに言わせれば、「あいつらモグリだぜ」というところでしょうか。しかし、イエスにとってはその意味は変わってきます。
イエスの目的というのはこの世界に神のみ業があまねく行われることです。ですから、イエスは「わたしの名を使って奇跡を行う人を止めるな」と言ったのです。その奇跡を受けた人はイエスの名を知るわけですからね。イエスの名によって多くの人が語るようになるというのなら、それはその人がクリスチャンじゃなくてもイエスの名を多くの人が知るきっかけになるということです。もちろん、必ずしも真面目なものばかりではないかもしれませんが、それによってイエスに、そしてキリスト教に興味を持ってくれるのなら、それに対して目くじらを立てるべきではないのだと思います。
これは教会にとっても大事な考え方です。なぜならば、教会に対して良い印象を抱き、そしてクリスチャンにはならないまでも何となく親しみを感じる、という人が多ければ多いほど、教会として活動はしやすくなるわけですし、イエスさまのことが広がるきっかけになるからです。教会が親しまれるということは、イエスさまが親しまれることであり、神のみ業があまねく行われるためになることです。例えば教会に幼稚園が併設されていたとして、幼稚園の様々な活動に笑顔で、そして幼稚園に合わせていく教会と、いつもしかめ面であれせいこれせいと言う教会とどちらが親しみやすいでしょうか。答えはおのずと明らかです。
もしそういった「親しみ」を持てる周囲と多く築くことができた時、初めて少しの人たちが神さまとの関係を持つことができるでしょう。残念ながらこれは一朝一夕でできることではありません。初めて会った人に、まだ親しみを感じていない人に、頼むことができないことってたくさんあるのではないでしょうか。今日のバザーというのは、わたしたち教会が、周りにいる多くの人々にとって「親しみ」を持ってもらう重要な「きっかけ」になる日です。あくまで「きっかけ」ですが、最初の一歩が始まる時です。多くの人々に「親しみ」を持ってもらい、そして神さまのみわざが多くの人に伝わるように、笑顔で進みたいと思います。
9/23
9/23 「仕える・誇る」 マルコ9:30~37
「自分たちの中で誰が一番偉いのか」という弟子たちの話し合いに対してイエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言い聞かせます。当時の身分の高い人たちは多くの家臣や奴隷を使って、それこそ着替えから箸の上げ下げまで「自分でやる」ということをほとんどしませんでした。「仕えられる」わけですね。当時の人たちにとっては常識ですから、「偉くなる」というのならやはり「自分でしない」という風に簡単に連想できます。ところがイエスはその常識をひっくり返したわけです。仕えられるのではなく、自分が仕える側に回るのです。
教会の中では「仕える」つまり「奉仕」ということがよく言われます。よく「奉仕」をすることが「良い信徒」の証と言わんばかりに、教会には実に多くのことが「奉仕」として設定されています。礼拝の準備、食事の準備、ジャム作り、来週のバザーなんてその最たるものですね。ところが考えてみますと、別に牧師は偉いわけじゃありませんが、教会のことについて多くの皆さんにたくさんのことをやっていただいているわけですから、どちらかというと「仕えられる」側になってしまっている。もちろん自分の働きでみなさんに「仕える」ように頑張ろうと思うわけですが、いかんせん受けたものの方が多すぎて途方に暮れてしまうことがしばしばです。役に立たない「使えない」牧師ですから仕方がないのですが。
一方で最近、こんな勘違いもあるのかな、という気がしています。本来「仕える」という働きは、「教会」という枠組みの中だけに納まりません。「教会」として、「地域」や「周囲」に「仕える」ということも大切です。そしてまた大切なのは、自分が「仕えた」ということは、誇るようなものではないということです。そもそもイエスが「仕える者になりなさい」と言っのは、「偉さ」つまり「これだけ仕えられているよ」ということを「誇る」という背景があったからです。「わたしはこれだけ仕えたの」だと「評価される」ことを求めてしまっては結局「仕えた自慢」をするだけで、意味がありません。「誇る」のなら無意味です。もし誇るのなら、神さまに仕えることだけを誇るべきで、周囲にアピールするものではありません。わかってくれるのは神さまだけでいいのです。
9/16
9/16 「配慮」 マルコ8:27~38
イエスの一番弟子と言われるシモン・ペトロ。しかし彼は今日読まれた福音書の箇所ではないけれど、始終イエスに叱られているような印象を受けます。「あなたはメシアです」とはっきり言い表しながらも、イエスを諌め、叱られているからです。ペトロはなんでイエスを諌めようとしたのでしょうか。イエスの復活を知るわたしたちから見れば、ちょっと奇妙に見えますね。やりたいようにさせてあげればいいんじゃないだろうか、とも思えます。でも、考えてみればわかるような気がするんです。
イエスのことをペトロは「メシア」つまり「救い主」として認識していました。今のローマ帝国の支配下にある生活から解放してくれる人でした。ですから、多くの人に味方になってもらわなくてはいけません。ですからあまり先鋭的な事ばかり言っていたら理解されないどころか敵にまわってしまうかもしれない。だから自分が排斥されて殺されるというようなことを言っていては、ますます律法学者たちが離れて行きます。あの人たちは影響力があるんです・・・etc. ペトロは、イエスの死後も、似たようなことでパウロと揉めていたりします。ユダヤ教から入った人たちへの配慮もあったのでしょう。礼についてのことで、ペトロはユダヤ教からの転向者と行動を共にするからです。ペトロはお調子者でもあり、配慮に飛んだ人であったのだろうと思えてきます。ただ、配慮が行き過ぎて本来の意味が危うくなった時、イエスに叱られる、パウロと揉める、そんなこともあったのではないでしょうか。
教会の中にも様々な「配慮」があります。教会というのは「礼拝」を中心とした共同体ですから、礼拝に出席するのは当たり前のことであって、休むことがイレギュラーです。しかし一方で、日曜日の礼拝には仕事の関係でどうしても出られない人もいます。また、病気の人も高齢で体調がということもあります。そのために迎えに行ったり、せめてと週報を届けたり、インターネットで礼拝の様子を配信している教会もあります。また、時間が許せば牧師が訪問をします。この文章もそのためです。大切な配慮です。しかし一方で「え、礼拝は月に一回くらい行けばいいんだよ」となってしまったり、「礼拝に行くより大切な用事がある」となってしまうと、ちょっと「??」となってしまいます。「牧師は礼拝に出なさいという正論を言ってはいけない」というのもありました。もうこうなると、「信仰って何だろう」「教会ってなんだろう」となってしまいます。「人のこと」を思うあまり「神のこと」がどこかに消えてしまっています。「サタン」というのは、「邪魔をする者」という意味があります。「人のこと」を思うことは良いことですが、それが行き過ぎるとかえって「邪魔をする」ということになってしまいます。「配慮」と「神さまのこと」のバランスを見ながら、わたしたちの「信仰」を今一度考えてみたいと思うのです。
9/9
9/9 「神は来てわたしたちを救われる」 マルコ7:31~37,14~15
木曜未明の地震で、多くの皆さんが恐れの中におられます。時折地鳴りとともにやってくる地震が、わたしたちの感情を刺激します。その一方で「1週間程度かかるか」と言われていた停電も、昨日にはほとんど復旧しているようです。多くの方々の不断の努力の賜物を感じると同時に、神さまに感謝したいと思います。
今日の旧約聖書で、「神は来て、わたしたちを救われる」と読まれました。預言者イザヤの時代、国が他国に攻撃され、滅びるかもしれない、自分も殺されるかもしれない状況の中で、人々に伝えられた神さまの言葉です。彼らにとって、自分たちでどうしようもなかった人々が癒されることは大きな救いでした。そして戦争が終結し、自分たちの国が残ることも。イエスの時代にもそれは変わらず、人々を癒すイエスの姿に、多くの人々が神の救いを見たのです。
今、わたしたちは災害の中にいます。もちろん、安平や厚真やむかわの人々の方が大変な状況にいます。わたしたちも停電の中にあって、今までの普段の生活というのがどれだけ多くのことに支えられているかを実感したのではないかと思います。ただ電気が欠けるだけで、多くのことが不便になる。今、まだ復旧の中にある人々にとって「今までの生活を取り戻す」ということは、一つの明確な「救い」の形として写るのではないかと思います。
今、多くの人々が支援のために、今までの生活が戻るように働いておられます。一人の明確な姿ではありませんが、多くの人々の中に、わたしたちは神の救いの力を見出すことができます。余震も続き、不安の中にある日々ですが、「神は来て、わたしたちを救われる」そう祈りつつ、またわたしたちも生活を取り戻したなら、神さまの救いに参与するようでありたいものです。