福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
9/2
9/2 「人の掟と神の掟」 マルコ7:1~8,14~15,21~23
福音書は久しぶりにマルコによる福音書に戻って、今日はイエスが「律法」について語ります。
十戒をはじめとする律法は、モーセの時代に定められましたが、聖書を見てもわかるとおり、大まかな決まりの中に細かい決まりができ、例外規定ができ、どんどん数が増えていきました。イエスの時代にはもう、単純で誰もが覚えられ、実践できるものではなく、専門家がいて聞かないとわからないようになっていました。しかも、専門家ですら丸暗記しただけという者もおり、生きた律法が実践されるのではなく、「守れないものをただあげつらう」律法学者たちも多かったようです。イエスもことあるたびに、そういったいわゆる「石頭」たちと言い争っていました。
今回は「あなたの父母を敬え」という十戒の言葉についてイエスが語ります。この律法、現代においては非常に空々しく響く、と感じる人もいるのではないかと思います。例を挙げるまでもなく、虐待や子どもを殺してしまったニュースをわたしたちは簡単に思い浮かべることができます。嫌な時代です。でも考えてみると、イエスこそ「父母を敬え」ということから遠い部分があります。なぜなら、イエスをマリヤと兄弟たちがカファルナウムに連れ戻しに来た時、彼は従わなかったからです。「敬う」=「従う」であるなら、イエスは十戒に違反しているというとんでもない話になりますね。しかし、ここで大事なのは、この戒めは一般的な親子関係のことを指しているわけではなく「主にあって」のことだからです。「神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」というイエスの言葉にもあるとおりです。もしあなたが父または母ならば、自らこそが主にあって父または母である、ということを忘れずにいてほしいということです。「主から離れなさい」とそそのかすのならば、もしかしたらそれは、あなたの父や母ではなく、他人なのかもしれません。律法は「主にあって」読むことが必要で、本来の意味を取り戻さなくてはなりません。
教会においてもイエスの時代と同じように、たくさんの「教会としての言い伝え」があります。しかし、それらが「主にあって」なされているものではなく、わたしたちを主から引き離そうとするものならば、それはイエスのしたように本来の意味を取り戻す必要があります。「昔こうだったから」で思考停止するのではなく、その決まり事が「主にあって人を生かす」ものになっているかどうかを、わたしたちはいつも気にかけなくてはなりません。教会がもし、「昔の」「人の」言い伝えだけで固められるなら、早晩教会は無くなってしまうでしょう。物事は移り変わっていきますが、今一度わたしたちの中に、変わることのない神さまの掟を取り戻して生活していきたいと願うのです。
8/26
8/26 「実にひどい話だ」 ヨハネ6:60~69
先週までの命のパンの話、正直なところ「ちょっと難しいし、一見さんお断り」という雰囲気がある話でしたね。やはり、イエスの話は当時の弟子たちにも難しく、彼らの多くが「つぶやき」、そして多くが離れ去ったとヨハネは伝えています。「実にひどい話だ、こんな話を聞いていられようか」という弟子たちの言葉を聞いたイエスはどのように思ったのでしょうか。多くの者たちが離れて行く中で、十二人と言われた人々は残ります。「主よ、わたしたちは誰のところに行きましょうか」というペトロは言います。
「実にひどい話だ」 わたしたちの周りにはひどい話がたくさんあります。教会の中にだってあります。「こんなひどい話は聞いていられない。教会には行かない。」と思ってしまっても無理からぬ、そんなこともあるでしょう。牧師の説教だけではなく、教会の内外で起こる様々な事、自分の周りに起こる様々な事。わたしだって「実にひどい話だ」と思うことがたくさんあります。自分にとって「いい話」と「悪い話」どっちが多いと感じますか。ちょっと思い出してみましょう。もしかしたら「ひどい話」の方が多いかもしれませんね。テレビなどのニュースを見ていると、悪いニュースばかりですし、わたしたちの間で噂になることって「ひどい話だ」ということの方が多いんじゃないかなと思います。まぁ、ニュースというのは「ひどい話」、しかも「とびっきりのひどい話」が取り上げられるものですから。わたしが昔働いていた中古車ブローカーの仕事、実にひどい仕事な部分があります。が、テレビ番組で取り上げられたこともあるんですよね。「ガイアの夜○け」って皆さんご存知ですよね。それで当時一緒にやってた人が取り上げられていました。「頑張ってる」的な取り上げ方で、実際にやってることはそんなにきれいなもんじゃないのにと、見ていて非常に複雑な気持ちになりました。角度を変えるとこんなに見方が違うものか、と思いました。テレビや人の話というのは、それを見た人の見る角度や、見せたいもので全然違ってくるものだなということを思い知りました。わたしたちにとっては「ひどい話」かもしれませんが、別の人にとっては「いい話」なんてことは普通にあることです。
みなさん、正直なところを考えてみてください。先週までの「命のパン」の話、いきなり聞かされたとしたらどうですか。「実にひどい話だ」と思いますか、それとも「よくわかるいい話だ」と思いますか、それとも「よくわかんない」でしょうか。しかし、正直なところ、そんなことはどうでもいいのです。今日の話において一番大事なのは、それがわかるかわからないかというところではなく、弟子たちの言った「主よ、わたしたちは誰のところに行きましょうか」という言葉です。「どんなひどい話だろうと、主よ、あなたのところにわたしはいます。」ということです。弟子たちも内心、「わけわからん」「ひどい話だ」と思っていたかもしれません。でも、それに関係なく、「イエスを信じよう」ということです。「ひどい話」だから離れるのか、「ひどい話」かもしれないのがとどまるのか、わたしたちの信仰が問われています。
8/19
8/19 「誤解を六回越えて」 ヨハネ6:53~59
「わたしの肉を食べなさい」と言われて普通はどう考えるでしょうか。ちょっと怖いですよね。古代の人たちもやっぱり怖かったみたいで、ローマ帝国では「あいつらは人の肉を食べている」と言われて迫害されたという文書も残っています。ま、これは誤解なわけですが、「肉」という言葉の使い方、いわゆる業界用語の使い方ですね。業界用語というのは、符丁のように周りの人にわからないようにするためのものもありますし、難しいところです。
でも、わたしたちにとっては、この「肉」というのがイエスの体のことであり、パンのことである、というのはよくわかる話です。・・・・が初めて読んだ人にはどうでしょう。わかれといっても無理なんじゃないかなと思いますよね。
わたしたちにとっては慣れ親しんでいるものですが、教会の中には「初見殺し」とも言えるようなトラップがたくさんあります。初めて礼拝堂に入った人にとっては、何事も初めてです。靴の置く場所がわからない、土足で入ってくる方もいます。礼拝に出ようと思ったら、いきなり本を三冊渡されて何をどう開いていいのかわからない。開いても読む場所がわからない、みんな立ってるけどしんどいから座っててもいいのかしら。席に座って待ってたら後から来たおばあさんに怒られた。「ここはわたしの席よ」。教会では兄弟、姉妹って呼び合ってるけど、明らかに兄弟じゃないよね。などなど、教会で使われている言葉というのは一種独特な部分があります。別にそれはそれでいいのですが、明らかに初めての人は戸惑うよな、という言葉の場合、わたしたちが丁寧に説明することができなければ誤解を招いてしまいます。「キリスト教になったら先祖を大切にしない」とか、「みんな進化論を信じてない」とか、今でも多くの人が思っている誤解ってたくさんあります。
牧師がちゃんと説明すりゃいいだろ、って思うかもしれません。でも、おそらくわたしたちがその誤解の最前線にいる時、多くの牧師さんはそこにはいません。その時にわたしたちがきちんと誤解に対して立ち向かう、説明する、ということができるかどうか。これも一種の宣教です。わたしたち自身がやらなくてはいけないことです。ですから、教会は学びを欠かしません。みなさんもまた、学びながら、誤解を六回でも越えて、神さまの国を広めていきましょう。
8/12
8/12 「つぶやく」 ヨハネ6:37~51
先週に引き続き、今週の福音書はヨハネによる福音書から「命のパン」についてイエスが語った場面が読まれました。今日の箇所には大きなターニングポイントがあります。39節までの主語は「群衆」であり、イエスが憐れんだ人たちです。しかし40節から同じ人たちの主語が変わり、「ユダヤ人」となります。「ユダヤ人」たちはイエスに敵対し、殺そうと狙っている者たちとして、ヨハネは福音書の中で明確に区別します。
「群衆」たちを「ユダヤ人」に変えたものは何でしょうか。それはイエスに対して「つぶやく」ことです。「つぶやく」というのは「小さな声で独り言を言うこと」という感覚があるかと思いますが、聖書の中の「つぶやく」というのは少し違います。その内容が「イエスに対する不平不満、理解できないこと」などの「イエスに対して、またはイエスが遣わした者に対して敵対する」ようなベクトルを持ったひとりごとに対して「つぶやく」と使うのです。イエスへの不信が、群衆をユダヤ人に変えたのです。
一方で、わたしたちはたまにイエスに対して、神さまに対して不平不満を言うことがあります。「神さまどうしてですか」と祈ることがあります。でも、この「ユダヤ人」たちとわたしたちには違うところがあります。それは、ただ「不満」をつぶやくのではなく、信頼している相手(神さま)に対して、わたしたちが投げかけているからです。神さまは、わたしたちの言葉にならない「つぶやき」をもよく御存じです。聖霊がわたしたちの言葉を神さまに伝えてくれているからです。そのことをしっかり感じていましょう。
イエスさまを信じること、わたしたちにはそれしかありません。そしてそれだけでいいのです。もしもう一つ、大事にすることがあるとすれば、それは、わたしたちの周りにいるすべてのもの(物も人も)が、神さまからイエスに与えられた者であると知ることです。今この礼拝堂に座っているみんなが、イエスに与えられた人々です。そこに「つぶやき」はないはずです。
8/5
8/5 「信じていただく」 ヨハネ6:24~35
「わたしは命のパンである」 今日の福音書でイエスはそのように言います。
聖餐式でいつもわたしたちが陪餐に与る際に受けるパン。パンというよりウエハースですね。これが「なに」であるのか、自分にとってどうなのか、真剣に考えてみたことってあるでしょうか。
かつて、宗教改革のころ、聖公会が成立したころ、聖餐式におけるパンとは何か、たくさんの人たちが真剣に考えました。「いやぁただのパンだよ」という人もいれば「これはキリストの体である」という人もいました。「見た目はパンだけど、霊的にキリストの体が重なっているのだ」という人もいれば、「キリストはパンと共にいるのだ」という人もいました。みんな真剣に議論しました。そして、それぞれ、教派に分かれました。時に戦争も辞さないくらい、真剣に議論し合ったのです。もし現代でそんな議論を教会がしていたらどうでしょうか。もしかしたら笑われてしまうかもしれませんね。バカバカしいって。
彼らはなぜかくも真剣だったのでしょう。科学が発達してなかったから? まだまだ迷信の世界にいたから? 確かにそういった側面は否定はできません。しかし、彼らが真剣だったのはそんな理由ではありません。その中のどの教派にも共通しているのは「聖餐式で食べているのは命のパンであり、それを食べて自分たちは永遠の命に至るのだ」という強い信仰です。だからこそ、そこにあるこの「パン」が何であるのか、彼らにとってはとっても大事な事だったのです。何をおいてもそれを受けること、そしてできるだけ「理解して」受けることを大切に考えていたからこそ、大真面目に議論したのです。
さて、今、わたしたちにとって「聖餐式のパン」というのは一体どういうモノでしょうか。「ただのパン」でしょうか。「キリストの体」でしょうか。「霊的なキリストの体」でしょうか。教理云々ということではなく、自分にとってどのようなものでしょうか。そして何より、これが「命のパン」であると受け止めているでしょうか。もともと、教会はこの「パン」を「命のパン」として受ける人たちの集まりとして成立しました。そして共に祈る集団として歴史の中に存在してきました。わたしにとって、このパンは「命のパン」であり、毎週食べないと落ち着かないものであり、これを受けると確かにキリストを感じるのです。
みなさん一人一人にとっての、今日の聖餐式の「パン」、どうぞ意味を考えて、受けてみてください。
7/29
7/29 「通り過ぎるイエス」 マルコ6:45~52
「イエスさまはわたしたちの所に来てくれる。」「わたしたちのそばにいる。」 目には見えないけれども、イエスさまに対して多くの教会の人に聞いてみると、こんな印象を持っているのではないかと思います。幼稚園の子どもたちが、礼拝堂に行くと何となく「神さま」の存在を感じるように、わたしたちは目には見えないものを感じる力があります。
イエスがそばに寄り添ってくれる、一緒に歩いてくれるというイメージは、「足跡」という有名な詩にもあるように、わたしたちにとって一般的なものです。しかしそれに対して今日のイエスは少し違います。なぜならイエスが、「そばを通り過ぎようとした」のです。しかもそれは湖の上、船に乗っている時に誰かが水の上に立っていたら幽霊か海坊主かと驚いてしまいますね。普通はあり得ない。しかも夜です。弟子たちはおびえてしまいます。
札幌や東京など、大きな町だと、多くの人々とすれ違います。苫小牧もそこそこ大きな町ですが、人が集まる場所でないと、歩いていてあまり人とすれ違ったりはしません。また、車で移動するならほとんど人とすれ違うということはありません。わたしたちは意外と、不特定多数の人が自分の周りに通り過ぎていくという事態に慣れていないのかもしれません。そんな中、人が多く集まるところは怖いですよね。通り魔事件などの事件の話をニュースなどで聞きます。頻繁に起こることではありませんが、自分に近づいてくるものが、善意を持つものだけではないと考えると、わたしたちは身構えてしまいます。
イエスが近づいてくるというのは、わたしたちにとって、どのようなことでしょうか。「嬉しい」ということであると同時に、もしかしたら潜在的には少し「恐い」という気持ちがあるのかもしれません。特に、遠くから自分に向かって近づいてくるのが何者なのかを知らなければ、恐怖感はおさまらないでしょう。だからこそイエスは、「安心しなさい、わたしだ」と声をかけて下さるのです。イエスさまの声を聞きましょう。そして、近づいてくるのがイエスさまからのものかわからないなら、声をかけてもよいのです。それが恐怖の叫びでもよいのです。イエスさまは聞き分けて、わたしたちの所にしばしとどまり、落ち着かせてくださるでしょう。
7/22
7/22 「自己責任を越えて」 マルコ6:30~44
最近、様々なことに対して「自己責任」という言葉があてはめられます。今回の西日本の水害に対しても、「避難する時間はたくさんあったのだから」とか「地名からその場所は土石流などの被害にあいやすい場所だと知れたのでは」とか「テレビや防災無線等の呼びかけを無視した」などなどの言葉が投げかけられています。「自分でその事態になることがわかっていたのだから、その責任はそんな事態に巻き込まれた人にある。だから助ける必要はない。」イエスの弟子たちも、今日の福音書の中で「自分で何か食べるものを買いに行くでしょう」と、群衆たちに「自己責任」ともとれる言葉をかけています。
もちろんそう考えるのもわかります。だって、そんなのわかりきってるじゃないですか。まさか自分でそんな被害に遭いそうな場所から逃げないなんて。また、そう言った弟子たちもかなりいっぱいいっぱいの状態に置かれています。イエスに派遣され、様々な場所で教えて帰ってきた上、人の出入りが多くて食事をする暇もなかったところのことですから。
それに対してのイエスの答えは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」でした。弟子たちは「わたしたちが200デナリオンものパン(要するに大量の食べ物)を買ってきて、みんなに食べさせるのですか」と抵抗しますが、イエスはパンの数を数え、そして賛美の祈りを唱え、人々に分け与えたのです。もちろん、イエスの奇跡によって多くの人々にパンを与えることができたわけですが、この話の大事なところはイエスの奇跡だけにあるのではありません。「困っている人々」、この場合ですと食べ物がない人々に対してわたしたちが、「自分の状況に関わらず」どのように振舞うのか、ということです。イエスは彼らをあわれみ、ただ食べ物を与えようとしたのです。「困っていること」に対して「助け」を与えようとしたのです。
しばしば、わたしたちは「困っている人」を見る時、「自己責任じゃないか」という言い訳をもって、助けることをためらうことがあります。しかし、イエスの行いに倣うのなら、わたしたちは「まず、助ける」ことを大切にしたいと思います。もちろん「自分がいっぱいいっぱいだから」と言って立ち止まりたいという思いもわかります。しかしそれでもなお、わたしたちの目は「困っている人を助ける」方向に向いていたいと思います。なぜなら、それがイエスの向いていた方向だからです。
7/15
7/15 「宣教という生き方」 マルコ6:7~13
教会における「宣教」は誰がするのか、というのは教会にとってとっても大切なテーマです。そしてまた、その「宣教」という言葉に、どんなことが含まれているかというのも、教会に足を向けるわたしたちにとっては関心の高いテーマなのではないかと思います。今日読まれた福音書はイエスが12人の弟子たちを派遣する場面です。
イエスは言います。杖一本以外何も持って行くな。金も持つな。履物は履け、下着は二枚着るな。などなど。要するに、物を持って動くなということでしょう。確かに、あっちこっちを動く際に、「歩く」以外の手段のなかった昔のこと、多くのモノを持って動くのは、そもそも物理的に不可能であったことでしょう。また、どのくらいの期間を一つの場所で過ごすのかはわかりませんが、この場合だとそんなに長くはないですよね。わたしたちの感覚から言って、他人の家に気兼ねなく厄介になれる期間というのは、そう長くはないはずです。そう考えると、神さまのことを伝える人というのは、「旅する人」と言えそうです。あちこちに厄介になりながら、神さまのことをお話して去っていく旅人。神さまのことを宣べ伝える人は、そんな側面があります。
12人の弟子たちは、派遣された時、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやしました。イエスの力を携えて行ったのです。考えてみれば、ある意味で「牧師」というのは旅する人かもしれません。自分の家を持たず、神さまの言葉を語りながらある一定の期間で滞在した土地を去っていくのですから。牧師がどこに行くのか決める方法として「派遣制」と「招聘制」がありますが、聖公会の取る「派遣制」というのは、ある意味でイエスが「遣わした」ということを大事にする方法と言えるでしょう。
一方、神の言葉を携えて派遣されるのは「牧師」だけではありません。なぜならば、イエスは「牧師」だけを神さまの言葉を伝える者として定めたのではなく、すべての人を神さまの言葉を伝える者として派遣した上で、その働きの中での役割の一つとして、「使徒」や「教師」などをそれぞれの賜物に応じて定められたのです。牧師だけが「宣教」を行うのではありません。そもそも「宣教」というのは、神さまの言葉によって生きる生き方を周囲に示すということでもありますから、誰もが実行可能な事です。
わたしたちのすべてが、イエスの言葉を携えて派遣されています。それぞれの土地に派遣されています。そしてそれぞれの場所で、それぞれの賜物に応じて働くようにとされたのです。「教会」とは、イエスの言葉を受けて派遣された人々の集まりです。それぞれの賜物に応じて、神さまの言葉を伝える人々の集まりです。「誰かがやってくれる」ではなく「自分が伝える」のです。わたしたちには、イエスが弟子たちに授けた力と同じ力が与えられています。主イエスを信じ、進みましょう。
7/8
7/8 「よく知っている人と新たに出会う」 マルコ6:1~6
イエスがナザレに行ったとき、癒しの業などの奇跡をほとんど行うことができませんでした。その時イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」という言葉を残しています。そして「ナザレの人々の不信仰に驚いた」と聖書には記されています。
故郷、親戚、家族、という言葉を並べてみたとき、共通するのは「お互いによく知っている」ことです。この「よく知っている」という感覚が曲者で、わたしたちはしばしば、その人のことを「よく知っている」と感じると、期待しなくなったり、しすぎたします。ナザレの人々にとって、イエスは「よく知っている大工のヨセフの所のイエスくん」で、癒しの奇跡を行う預言者ではありませんでした。
イエスは奇跡を行う際、人に「なにをしてほしいのか」と問いかけ、はっきり自分の望みを言うことを要求します。そして、「〇〇してほしい」と願った人に対して「あなたの信仰があなたを救った」と言って奇跡を行います。イエスの行う様々な奇跡は、人々が「イエスならそれをできる」と思ってイエスに「〇〇してほしい」とはっきりと言うことが引き金になっています。ところが、ナザレの人々にとっては、イエスが「よく知っているイエスくん」だったことによって「イエスならそれをできる」と思う心が妨げられてしまっているのです。色眼鏡が邪魔しています。イエスを信じることができないのです。
わたしたちの「よく知っている」という感覚、色眼鏡を取り除くのは容易ではありません。「どうせこの人ならこういう反応するだろ」という眼鏡を全く持っていない人はいません。でも、わたしたちはしばしば、自分が色眼鏡をかけていることにすら気づきません。しかし、わたしたちみんなが、色眼鏡をかけている、ということを少しだけ心に留めておくことで、よく知っているはずの人との新たな出会いが、そして時には奇跡的な事が起こるということは、知っていたいと思います。
7/1
7/1 「もう先生を煩わすには及ばないでしょう」 マルコ5:22~24,35~43
今日の福音書は、会堂長ヤイロの娘をイエスが起き上がらせる場面。「タリタ・クム」という言葉をみなさん一度は耳にしたことがあるでしょう。父であるヤイロが藁にもすがる思いでイエスの所にやってきます。イエスはヤイロとともに出かけていきますが、家に行く前に娘さんは亡くなり、「もう先生を煩わすには及ばないでしょう」と家から人がやってきます。それを断ってイエスへ家に行き、少女を起き上がらせるのです。
「人に迷惑をかけてはいけません」と幼稚園で子どもたちに教えます。学校でも教えます。多分多くの人が「その通りだ」というでしょう。しかし一方で「迷惑をかける」ということを恐れるあまり、消極的になってしまう子どもがいます。人目を気にしすぎてノイローゼになってしまう大人もいます。最近水に見える透明なドリンクが増えていますが、あれも「迷惑をかけない」「人目を気にする」というところから来ているのだと聞いたことがあります。
聖書を冷静に読んでみると、「他人に迷惑をかけない」という話は見当たりません。「先生を煩わすには及ばないでしょう」と言われたイエスは「そんなの関係ねえ」とばかりにヤイロの家に行き、娘を起き上がらせるのです。イエス自身はある意味「大いに煩わされて」いますが、そんなことは全く気にしていません。それよりもヤイロの求めに応じることを選ばれました。だからイエスは、周囲の人の「ご迷惑ですから」という言葉を退け、ヤイロの家に行ったのです。そもそもイエスは「求めなさい。そうすれば与えられる」とわたしたちに言いました。「自分がしてほしいことを人にする」ことと、「自分がしてほしくないことを人にしない」ことは、似ているようで全く違います。今まで人に迷惑をかけたことのない人などいません。お互い様なのです。教会の中では、お互いに求め、お互いに迷惑をかけ合うのです。それこそがイエスが求めたことです。「もう先生を煩わすには及ばないでしょう」という言葉で、教会の大切な働きを妨げてはいけないのです。例えば病気の時や苦しい時など、そういった時に牧師や教会の仲間たちの手を煩わせないようにしよう、と思ってはいけません。むしろ大いに頼るべきです。求めることで、わたしたちは「タリタ・クム」の言葉で起き上がった少女のように、イエスの力を受けて立ち上がることができるのです。
6/24
6/24 「恐れと畏れ」 マルコ4:35~41
突風の中、寝ているイエスに文句を言っていた弟子たちですが、イエスの一言で嵐が静まると今度はイエスに対して「恐れ」を抱きます。しかも「非常に恐れ」るのです。助かったのだから感謝するのではなく「恐れる」。ここでの「恐れた」というのは、ただ「怖い」というだけでなく、ともすれば逃げ出したくなるような気持ちです。イエスの復活の後、空の墓を見た婦人たちが逃げ去ったように「可能であれば逃げる」という選択をさせるほどのものです。それに加えて「地震、雷、火事、親父」とも言うように、自然の力というのは、今を生きるわたしたちにとっても「恐い」ものです。突風が吹きすさぶ湖の上の舟の中という逃げ場のない状況に追い込まれた弟子たちの恐れは相当なものだったでしょう。今日の福音書は「恐れ」の感情に彩られています。
一方で、「恐れ」というのは「信仰」につながる感情です。現代に生きるわたしたちにはあまりピンとこないものですが「神」というのは「恐い」ものです。旧約聖書の神の姿、特に「熱情の神」としての力を発揮する場面は非常に恐ろしいものです。
しかし、それとは逆に、神は人々の恐れの叫びに対して助けを与えます。エジプト軍を恐れた出エジプトの民の叫びに応えて紅海を割り、王を求めた民のためにサウルを王に選び、羊飼いたちにイエスの誕生を告げます。「本当にそうなる」と確信を持つ民の願いに神は耳を傾けます。一説によると、多くの言語には日本語の「恐れ」と「畏れ」のように、神に対しての特別な「恐さ」の言葉があるのだそうです。ただ「恐れる」だけでなく、その中でとどまり「畏れ」を抱く、それが神さまに対しての本来の姿勢だということです。なぜ弟子たちはイエスに対して「恐れ」を抱いたのだろうと考えていましたが、そう考えれば当たり前のことです。もちろんイエスさまは、わたしたちが神さまに近づきやすくするために「恐ろしい」存在としてではなく、「近づきやすい」存在としてわたしたちのところに神から遣わされています。しかしそれでもなお、「親しみやすさ」だけではなく「畏れ」の感情を忘れてはいけないのだと思います。その違いは神への「信頼」です。ただ「恐い」だけなら「逃げ」てしまうでしょう。しかし「畏れ」るのならば、留まって神に語りかける、つまり祈ることに繋がります。弟子たちのように切羽詰まって怒りを向けるのではなく、「神さまが絶対に何とかしてくれる」という委ねる感情です。「畏れ」を持ちつつ神に信頼して歩む日々を過ごしていきましょう。
6/17
6/17 「たとえば」 マルコ4:26~34
聖書、特に福音書の中には、イエスの用いた沢山のたとえ話があります。「神の国は○○のようなものである。」に似た言い方がたくさん出てきます。わたしたちが難しいことを理解しようとする時、または説明しようとする時、しばしばこの「たとえ話」は有効です。うまくはまれば、すっきり理解することができますから。幼稚園などで、教会のことを良く知らない人たちに神さまのことを伝えようとする時、一般的に身近であろうことで例える、ということをよくします。最近「なるほど」と思ったのは「アーメン」の意味は「そだねー」、とか「それな」という例えでしょう。学生運動なんかをやった人たちには「異議なし」と言えば通じる、と神学校の教授から聞いたな、と思い出しました。
「たとえ話」に上げられる例は、身近なものやよく知られているものが取り上げられます。でないと理解できませんからね。ところが、聖書のたとえ話は時々、わたしたちにとって「身近ではないもの」が取り上げられていて、わかりにくくなることもあります。今日のたとえ話は「種」の話ですが、植物の成長というのは、わたしたちにとって身近なようで身近じゃないことがあります。都会に住んでいる人たちにとってはあまり身近じゃないかもしれません。家庭菜園やってる人なら「ああそうか」と思うでしょうけれども。それに続く「からし種」は、わたしたちの多くがここで言われている「からし種」を見たことがないのではないかと思います。僕は粒入りマスタードの粒のことだと思ってたんですが、違うそうです。イエスさまの生きていた時代のユダヤの国ではその辺に生えていた「クロガラシ」という種類のからしだと言われており、大きさは0.5ミリほどだそうです。(諸説あります)日本のからしとは別物で、わたしたちにとってはちっとも身近じゃないので、どうもイメージが膨らみにくく思います。
こうやって考えていくと、「身近である」というのはとっても重要です。わたしたちにとって、まったくの新しいことを理解するのは大変です。どうしても、たとえ少し違ったとしても、身近な、よく知っているものに引付けて考えるのは当然のことです。イエスさまのたとえ話は、イエスさまが「たくさんの人たちに、わかりやすく、神さまのことを理解してほしい」という気持ちから生まれたものです。「人々の聞く力に応じて語られた」と書いてある通りです。「神さまが、わたしたちのために理解しやすく説明してくれている」のです。しかしそれでも、わかりにくいことがあります。その時に、わたしたちは聖書に付随した様々な本を手に取ります。それは解説書だったり、エッセイだったり、小説だったりします。映画なども聖書をモチーフに描かれていたりもします。わたしたちの身近なところにある「聖書」を見つけてみてください。本を読んでる時、映画を見ている時、「あれ、これは聖書のあの場所だ」と気づく時、わたしたちにとって、聖書がもっと身近になるでしょう。