福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
2/17
2/17 「価値が逆転する時」 ルカ6:17~26
本日のイエスの福音書は「貧しい人々は幸い」とイエスが言う場面。マタイによれば山で人々に語ったとされていますが、ルカはこの場面を「平地」で語ったことと伝えています。というよりも、わざわざ「山から下りた」と書き残しています。そして「幸い」に続き「不幸」についても語っているのです。「山」ではなく「平地」で、「幸い」だけでなく「不幸」も語る、ルカの伝えるこの話にはどんな意味が込められているのでしょう。
わたしたちにとってイエスさまは神さまです。ですから「山の上」のような高いところから「教え」として語るのが当たり前に思えます。でも、実際のイエスはどうだったかというと、人々の間でこそ語っていたはずです。「偉い」人としてかしずかれていたのではなく、人々の間で過ごしていたはずです。イエスの立ち位置は、山の上という、わたしたちから離れた所ではなく、わたしたちの間であり、目の前なのです。これはとても大事な事です。そして、イエスは「幸い」な人について語るのと同時に、それを逆転させる形で「不幸」について語っています。わたしたちの様々な不足は、満たされたその瞬間は良いのですが、すぐに「不足」に陥ってしまいます。人間の持つ欲には限りがありません。わたしたちはずっと自分が良い状態であることを保ちたいと願います。だって、お金に困らず、いつも笑っていて、食べ物は潤沢にあり、人々にはほめそやされる。そんな状態であったら幸せだ、と思います。でも、イエスは「それは不幸だ」と言います。なぜならば、イエスは物ごとの価値を逆転させるからです。それよりも大切な意味があるからです。
「幸い」も「不幸」も、わたしたちの捉え方次第でどちらの側にも寄れます。自分が「不幸だ」と思う時、わたしたちは誰かが自分を手助けしてくれることを望みます。自分が「幸せ」な時は、それを分け与えたくなります。逆に一見「幸い」に見える状況なのにそれを守ろうとして汲々としたり、苦しい状況の時にこそ身近な人と結びついたりすることとがあります。「幸い」な状況に見えるのにそれが「呪い」に、「不幸」な状況に見えるのに、それが「祝福」に変じます。一見「不幸」な状況こそ「幸い」であるならば、誰かと連帯しながら乗り越えていけます。周りをも慰めながら分かち合っていくことができます。イエスの語ったこの「幸い」と「不幸」はそのことを教えてくれます。
2/10
2/10 「お言葉ですから」 ルカ5:1~11
漁師という仕事は、経験に裏打ちされた仕事であって、素人がわからないような領域というのがあります。もちろん現代であれば機械などのサポートである程度は代用が可能でしょうが、2000年前のユダヤでは望むべくもありません。イエスは「大工であった」とされています。もちろん、周辺には農家もあっただろうし、ゲネサレト湖(ガリラヤ湖)が近かったので漁師もいたでしょう。だから何も知らなかったとは考えにくいですが、漁に関しては素人だということをイエス本人もわかっていたに違いありません。だからこそ、そのイエスが「網を降ろし、漁をしなさい」と言った時、シモンは驚いたし、一晩魚が採れなかったと伝えます。しかしそれでもなお「お言葉ですから」と漁をしてみたのです。
日本にも「岡目八目」ということわざがありますが、真剣に取り組んでいるプロよりも、はたから見ている素人の方がよくわかることがあります。教会全体で「困った」と考えている時、たまたま立ち寄った人が何かコメントすることがあって、わたしたちはしばしばそれに反発します。わたしの苦労はわたしが一番よく知っているし、今直面している問題がどれだけ難しい事か、とわたしたちはよく思います。しかし、忘れないでください。神さまがわたしたちに働きかける時、直接呼びかけることよりも、誰か、わたしたちの周囲の人の力を借りて呼びかけてくださることの方が多いのです。クリスチャンであるとかないとか、歳が上とかしたとか、経験があるとかないとかではなく、神さまはしばしば、信じられないような人を選んで、わたしたちに呼びかけます。その時「お言葉ですから」としてみるのかどうかがわたしたちには問われています。
2/3
2/3 「自分が利益を得て当然」 ルカ4:21~32
今日の福音書は、イエスがナザレの会堂で「預言者は自分の故郷では歓迎されない」と言い、故郷の人びとが憤慨したという話で、実際にイエスはナザレでほとんど奇跡を行わなかったと伝わっています。ナザレの人びとが実際にどう思っていたかはわかりませんが、イエスは「『カファルナウムでも色々な事をしたのだから、故郷のここでもしてくれ』とあなたがたは言うに違いない」と彼らに言い放ちます。
イエスの求める信仰というのは「神さまを愛し、人を愛する」信仰です。「神さまを大事にし、人を大事にする」のですが、それは自分の身内だとかそうでないとかは関係ありません。自分を大事にしながらも、他者に向かうのですが、それは「身内だから優遇される」という類のものではないはずなのです。イエスがいつ「自分の身内だから」というだけの理由で、人をいやしたでしょうか。「身内だろうがなかろうが関係なく」イエスは求める声に応じて人をいやしたのです。だからこそイエスさまは何千年経っても世界中で愛されているのです。へだてがないからです。
ところが、「身内だからこそ(信徒だからこそ)、わたしたちを一番に考えてくれるはず」という心理がどこからか入り込んできます。教会の行う様々な事も、本来は「信徒が優先」というわけではありません。かつて東日本大震災の募金を教会でした時、使い道を「信徒限定にすべきだ」という意見が強くて驚いたことがあります。わたしたち教会の行う支援=愛のわざが、信徒だけに限定してしまえば、イエスさまの名前をいただく教会が行う支援になるでしょうか。わたしはならないと思いました。でも、教会のすることだから「信徒である自分が利益を受けて当然」と思う心理が、悪魔のように入り込んでくることがあるのです。「放蕩息子のたとえ」で兄息子が「自分はまじめにやってきたのに、放蕩の限りを尽くした弟が先に宴席に入るとは」と言って怒ったのと同じことです。「教会にこれだけ尽くして来たのに(たくさんしたのに)名前が残らないのはおかしい」という人もいますが、自分の名前が載るためにわたしたちは信仰のわざを行うのでしょうか。愛のわざを行うのでしょうか。そうではないはずです。わたしたちは神さまの子どもとして、神さまの国が実現するために、少しずつの奉仕をしているのです。教会の名前が広まるためにわたしたちは社会的な働きをするわけではありません。自分の名前は消えても、神さまのことが広まればそれでいいのです。わたしたちは「自分の利益にために」信仰しているのではないのです。わたしたちの教会は、ごく少数の有名な人が支えてきたのではなく、名前のわからない多くの人に支えられて今まで続いてきたのですから。
1/27
1/27 「福音が実現すると信じるために」 ルカ4:14~21
今日の福音書でイエスは預言者イザヤの書を朗読し「この聖書の言葉は今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と言います。イエスは自分自身のことを「よき知らせを告げるために油を注がれた」と表現します。イザヤに限らず、聖書の多くの預言者の言葉は謎めいていて、わたしたちにはよくわからないものです。それが「実現した」と言われても、ますますわけがわかりません。
「福音」というのは「良い知らせ」という意味です。捕虜か何かで捕まっている人にとっては「解放される」というのは良い知らせでしょう。目の見えない人にとって、「視力が回復する」というのは良い知らせでしょう。圧迫されている人たちにとっては「自由になる」というのは良い知らせでしょう。これらのことに限らず、自分が今囚われている問題がなくなる、もしくは解決するというのなら、それはわたしたちにとってはとってもよい知らせに違いありません。しかし一方で、わたしたちを取り巻く問題が「実現した」の一言で、快刀乱麻を断つがごとく解決するようなものでないことを、わたしたちは良く知っています。
社会においては何かがある時も事前に「お知らせ」があってから始まるのが普通で、わたしたちはよく「知らせがある/ない」ことでトラブルに巻き込まれます。天気予報なんかも「お知らせ」の一つです。事前にある程度分かっていれば、先の見通しがあればわたしたちは安心します。今は便利な世の中になって、地震などの災害でも、直前にわかるようになってきました。今回の地震の時は、揺れの方が先に来て、「何だよ役に立たないな」と思ったりしたんですが、考えてみればそれでも少しはわかるようになったわけで、ありがたいことだと反省しました。「実現した」という知らせがあってから、その事実が来のです。今、来ている途中なのです。
イエスさまは再びこの世に来られます。それが教会の掲げる「良い知らせ」です。そしてその「良い知らせ」を聞いた人が、自分のものとして受け止めた人が「自分以外の誰かのため」に働きます。そうして少しずつ「良い知らせ」が実現していくのです。ですから、預言の言葉は「実現する」と信じて、わたしたちは捕らわれている人たちを解放しようとし、目の見えない人が視力が回復するように研究する人もいれば、それまでの間手助けする人もいるでしょう。圧迫の原因を取り除くように、社会の不公正を正していこうとするでしょう。教会はそのために働く人たちの、働こうと考えている人たちの集まりです。そのことを考えて、教会の進む道を、この「総会」の中で考えていくことが、わたしたちには必要です。
1/20
1/20 「何かが起こると信じること」 ヨハネ2:1~11
今日の福音書は「カナの婚礼」 イエスの最初の奇跡です。ガリラヤのカナで行われた結婚式にイエスとマリアが出席しますが、婚礼のぶどう酒が足りなくなり、イエスが水をぶどう酒に変える、とても有名なお話です。
当時の結婚式は、おめでたいものということで「大盤振る舞い」が基本です。ぶどう酒や食べ物などは決して切らさないように配慮するものなのですが、手違いがあったのでしょうか、ぶどう酒が足りないことがわかります。結婚する夫婦の門出にケチがつきますし、世話役としても面目丸つぶれです。今だったら「無くてすみません」で済むかもしれません。しかし、残念ながらそうはいかない状況でした。
母マリアはその状況を見て一言「ぶどう酒が無くなりました」とイエスに伝えます。「何とかしてあげてくれ」というニュアンスを含んでいたのを感じ取ったからでしょうか、イエスは「わたしとどんな関わりがあるのです」と、にべもなく断ります。しかしそれを見てなお、マリアは召使たちに「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と言っておくのです。マリアは確実に、イエスがここでこの状況を何とかすることができることを信じています。どんな状況なのかはわからないけれども、イエスなら何とかしてくれると信じているのです。だからこそ、断られたとわかっていても、イエスの振る舞いに賭け、準備をします。「この人なら何とかしてくれるかもしれない」という期待感です。もっと言えば、「神の子ならなんとかできる」という期待感でしょう。
野球やサッカーなど、途中で選手を交代することのできるスポーツだと、明確な戦術とは別に「この選手ならこの状況を打開してくれるだろう」という期待をもって選手交代をするシーンがよく見られます。観客も期待します。もちろん、100%うまくいく保証はないわけで、期待外れのこともありますが、わたしたちもよく「この人なら何とかしてくれるだろう」と期待することがあります。人に対して「何か起こしてくれるんじゃないか」と期待するのです。一方で、わたしたちは神さまに対してどこまで期待しているでしょうか。「神さまにお祈りしても無駄だよ」と思うのか、それとも「祈ることによって何かが起こる」と期待するのでしょうか。多くの場合、いろいろ手を尽くして、人にもお願いしてダメなとき神さまに祈る、「人事を尽くして天命を待つ」という方が多いのではないかと思います。
しかし、わたしはそれは逆なのではないかと時々思います。なぜなら、自分でやるのならともかく、誰かが自分の期待通りに動いてくれる、考えてくれる保証などないし、誰かに勝手に期待して勝手に怒るというのは、トラブルのもとになると思うからです。まず、神さまに対して「祈りによって何かが起こる」と信じる気持ちを持ち続けること、それが最初に来るのが、カナでマリアがしたように、「信仰」としての大切な姿勢なのではないかと感じます。「信じて」そして「行動する」のです。
1/13
1/13 「愛する子と同様に」 ルカ3:15~16,21~22
本日は主イエス洗礼の日。イエスさまが多くの人々の前に、「ヨハネの後に続く人」として「神の愛する子」としての姿を現わした最初の日です。
イエスの洗礼というのは古来より大切な日でありました。なぜなら、古い時代にはいわゆる「誕生日」を祝う習慣がなく、クリスマスはまだありませんでした。その代り、「顕現節」「公現祭」「エピファニー」という「イエスが多くの人の前に姿を現わした日」を祝っていたのです。4つの福音書に共通する場面は多くありませんが、「イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた」「そこに聖霊が降った」ということが、すべての福音書に出てきます。その時こそイエスが、わたしたちのよく知るイエスとして世に現れたのです。
教会はイエスに従って洗礼を授けていますが、実は聖書には「イエスが」洗礼を授けた記録はありません。ではなぜわたしたちが洗礼を受け継いでいるかというと、今日の使徒言行録にもありますが、イエスの「洗礼を授けなさい」という命令(マタイ28章)に従って多くの人に洗礼を授けたからです。ここにいるわたしたちの多くが洗礼を受けた、もしくはそれを少なからず考えている者です。
わたしたちが洗礼を受けたということは、イエスと同じになるということです。「神の愛する子」としての生き方を受け継ぐということです。もちろん変身するように、すぐに変わるということではありませんが、少なくとも「イエスの生き方に倣う」ことを念頭に置いて生きるようになるということです。今日の「主イエス洗礼の日」は、そのことをわたしたちが今一度確認する日です。
「イエスの生き方に倣う」と言われても、「そんな高尚なことはできない」と思うかもしれません。でも本当にそうでしょうか。「できません」と言ったら決してできないでしょう。別に完璧にする必要はないのです。また、完璧にできていないから非難されるものでもありません。「イエスに倣って生きること」を目指し続けるのはキリスト者としての大切な在り方です。わたしたちは「神の愛する子」と同様に洗礼を受けたのですから。
1/6
1/6 「解放と開放」 マタイ2:1~12
今日は顕現日。教派によっては「公現日」「公現祭」などと呼ばれる日であり、一つの意味は、三人の博士(占星術の学者)にイエスの誕生を示す星が現れたとされる日であり、古くはイエスが洗礼を受けることによって活動を開始した日とされます。東方教会では伝統的にこの日にイエス誕生の祝いをするので、東方教会にとってのクリスマスでもあります。
俗に「博士」と言われますが、正確には「占星術の学者たち」です。現代は毎朝テレビで今日の星占いランキングが放送され、新聞などにも印刷されており、人気のほどがうかがえます。思春期の頃はその結果に一喜一憂したりした人もいるのではないでしょうか。しかし、実は聖書において星占い等の「占い」は推奨されていないのです。まるっきりそれに依存して行動も決めるようになるのは特に危ない、どっかの占い師に依存しておかしくなってしまったなんて話、聞いたことありますよね。「占い」というのは、ちょっと楽しむくらいにしておくのが無難です。今日の福音書の肝は「推奨されていない(どころか罪とされる)占星術の学者たちの方が先に救い主(イエス)の誕生に気が付いて、しかも拝みに来た」というところにあります。自分たち(ユダヤ人たち)がバカにしていた、全然畑違いの場所から来た人たちの方が信仰の一番大事な本質に先に気が付いたということです。
このことはいくつかの大事な知見をわたしたちにもたらしてくれます。それは、「自分がよく知っている」「ぱっと入ってきた人たちにはわからない」などと思っていたことが、ひっくり返されることはいくらでもあるということです。教会には教会のやり方があるんだ、と言っていたのが、全然関係ないところからの一言で一気に変わることがあるということです。そして、教会はそうした「ぽっと入ってきた人たち」「よくわかっていないであろう人たち」にも開かれている必要性がいつもあるということです。自分たちの優越性の中だけに閉じこもっていてはいけないということです。
降誕日から顕現日に続く祝いの期間のメッセージは「枠を広げること」そして「解放」と「開放」です。自分たちの持っている枠組みを広げ、多くの人を「自分の身内」にしていくこと、そして凝り固まった考えからの解放、そして多くの人へ間口を広げる「開放」です。すべて、神さまのみ業が多くの人々に現わされるためです。そのための「顕現日」、大切に祝い続けていきたいと思います。そして、わたしたちの信仰も心も、広げてまいりましょう。
12/30
12/30 「はじめのことば」 ヨハネ1:1~18
今日はイエスさまが誕生して最初の日曜日。聖なる家族が誕生して初めての日曜日でもあります。マリヤとヨセフはイエスの誕生によって、家族としてしっかりと結びつきました。教会では新しい家族の誕生を「言葉」によって表現します。結婚式の中ではお互いに「言葉で」誓約をします。また、神の家族である教会の一員になる時洗礼を受けますが、洗礼の前にわたしたちは「言葉で」信仰を告白し、神の家族であると宣言しました。そしてまた、子どもがこの世に誕生する時に初めにすることは「おぎゃー」という声をあげることです。
「神の言」であるイエスさまも、誕生の時に産声を上げました。「天上天下唯我独尊」のようなはっきりとした言葉づかいではなく、普通の泣き声だったでしょう。この世に誕生した時は誰でも、泣き声という言葉にならない言葉を口に出します。「言葉」というのはわたしたちの人生の始まりでもあります。何かを始める時、わたしたちは色々なところで「言葉」を発します。人と人との関係も、言葉を掛けるところから始まります。当然ですが、わたしたちと神さまとの関係も、言葉を掛けるところから始まります。
神さまはいつも世界に呼びかけています。天地創造の時から始まり、今も世界に呼びかけ続けています。イエスさまの誕生も、神さまからわたしたちへの呼びかけの一つです。イエスさまは「神の言」であり、イエスさまが誕生したということは、神さまからの「人を救おう」という「はじめのことば」です。
しかもイエスさまの第一声が泣き声であっただろうということは、わたしたちにとっては慰めです。なぜなら、その意味の分からない泣き声、「言葉に表せない“うめき”」をもって、神さまに執り成してくださるからです。わたしたちは「言葉」で神さまに伝えることが大事ですが、それができなくても、言葉にならない言葉もまた、神さまはわかってくださるのです。
12/23
12/23 「クリスマスを信じる」 ルカ1:39~45
クリスマスおめでとうございます。今読んだ聖書は、クリスマスの少し前、まだ身重だったマリアが親類であるエリサベトを訪ねて行った場面です。エリサベトは最後に「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は何と幸いでしょう」と言います。マリアのお腹の子は「聖霊によって宿った」とされていましたが、結婚前に妊娠していたということで、少なくともヨセフが一度別れようかと思ったくらいには騒ぎになっており、今よりももっと厳しい時代のことですから、お互いに身に覚えのなかった二人はずいぶん苦しんだことと思います。それに対してエリサベトは責めるわけでもなく、先ほどの言葉をマリアにかけたわけですから、マリアの心はどんなに救われたでしょう。自分で「こうだ」と思って決めていても、周囲が理解してくれずに心無い言葉をかけられ続けていたわけですから。
マリアにとって、身ごもったことがわかってからイエスが誕生するまでの間は苦しい期間だったでしょう。理解してくれる人たちが周りにいたとはいえ、好奇の目にもさらされたはずです。しかしマリアは「クリスマスを信じて」この期間を過ごしました。生まれてくる子が、やがて世の救い主となるということを、マリアは一貫して「神さまに告げられたから」ということで信じ続けたのです。なかなかできないことです。しかし一方で、最初にこのエリサベトの言葉が無かったらどうだっただろうと思います。何かをしようとする時、どうしても最初って上手く行かないこともある。それでも続ければ結果が出ることって結構ありますが、最初の躓きで断念することってありますよね。神さまもそれがよくわかっていて、エリサベトの所にマリアを向かわせたのでしょう。そして同じように、ヨセフの所に天使を送って縁を切るのを思いとどまらせたのでしょう。「信じる」ことから多くのことが始まります。クリスマスをお祝いすることは「クリスマスを信じる」ことから始まります。神さまはすべての人を救うと約束してくださったのですから、それが実現すると信じることが世を救うことの始まりです。
わたしたちは色々な事を「信じて」、多くのことを始めます。「信じる」ことの始めは揺らぎやすいものです。教育の現場に関わる者として、子どもが自分の何かを「信じて」始めたことがあれば、その「信じる」ことを強めたエリサベトのように、子どもたちと関わっていたいと思います。そして何より、神さまを信じるということを大切にする、このクリスマスを大事に守っていきたいと思います。クリスマスは「信じる」ことの始まりです。イエスさまがこの世界を救ってくれることを信じて、祈り、そして色々な事を始めましょう。クリスマスおめでとうございます。
12/16
12/16 「自分の役割を見つめる」 ルカ3:7~18
いよいよクリスマスが近づき、降臨節も第3主日。今日の福音書は先週の続きから、洗礼者ヨハネの勧めです。ヨハネは群衆に、徴税人に、兵士に、それぞれ勧めをしました。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」「規定以上のものは取りたてるな」「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」。そして「自分はメシアではない」と言い切ります。
ユダヤの国がローマ帝国の支配下の属州になってからまだあまり時が経っていないので、人々は混乱の中にありました。生き方や考え方、価値観、多くの場合で今までのことが通用しなくなったり、変化したりした時代です。「今まで通りでいい」と簡単に考えることができません。そんな時、人々は「わかりやすい指標」を求めます。「わかりやすく道を指示してくれる存在」を求めます。だからこそイエスは、救い主として待ち望まれていたのです。多くの物が混乱した時代に、わかりやすく自分たちを導いてくれる存在として待ち望まれていたのです。
しかし、そんな中、洗礼者ヨハネは一つの指標を示しました。「自分の役割を確認しよう」ということです。わたしたち人間はお互いに補い合って生きるために神さまに創造されました。だからこそヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と言いました。わたしたちは助け合う存在だということを今一度確認したのです。徴税人はローマ帝国の支配のもと、税を取りたて、余分に取れば蓄財もできる仕事で、同胞でありながら憎まれる立場でもありました。だからこそヨハネは「規定以上のものは取りたてるな」と言い、与えられた役割をまっとうするようにと説いたのです。兵士たちは治安維持も担当していながら、ともすれば武器を持ち、人々を脅す事も出来ます。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」。「兵士」としての自分の役割に純粋に取り組むようにと促します。そしてヨハネ自身は「荒れ野で叫ぶ声」として、「イエスの誕生を告げる」という与えられた自分の役割にとどまります。きっと望めば一時的にせよ「救い主」「メシア」としての活動でもできたでしょう。でも、彼はそうはしませんでした。神さまに与えられた自分の「役割」をまっとうしようとしたのです。わたしたち一人一人には、神さまからの役割が与えられています。自分の役目は何でしょうか。この世界でどんな務めを為すのでしょうか。神さまから与えられているわたしたちの役割を今一度見つめてみましょう。
12/9
12/9 「道」 ルカ3:1~6
わたしたちは普段歩く時「道」を歩くことがほとんどです。「道」があるのにわざわざ「道」じゃないところを選んで歩くことはしないでしょう。今でこそ「道路」は歩きやすいように、車が走りやすいように整備されていますし、町の中の狭い道はそのうち町を迂回するように「バイパス」が作られて、車が通るのに最適化されていく、今の道路は「車」に最適化されています。
最近は「スマートフォン」の中に地図が入っていて、かなり正確なものですから、信徒宅を訪ねる時も住所さえわかっていれば結構簡単にたどり着けるようになりました。わたしが神学校を卒業したころはまだそこまで発達しておらず、幼稚園にあったゼンリンの住宅地図を借り出して、一人ひとりお訪ねしたことを思い出します。ホントに便利な時代になったものです。
今、幼稚園で子どもたちが聖劇をやっています。多分日本中のあちこちでイエスさまの誕生が劇になっていると考えると感慨深いものがあります。マリヤとヨセフはイエスが生まれる前にナザレからベツレヘムへ旅をします。今だったら車でびゅんと行くところですが、当時は徒歩。東方から来た博士たちも、ラクダを使ったのか、それとも馬だったのか、乗り物と言っても動物の力を借りていました。今から考えればすごく手間もかかるし、時間もかかる、「道」を行くことはとても大変な事でした。そして、何となく整備されているのは町の周囲だけ。所々途切れそうな、「道」なんだかそうじゃないんだかわからない「道」もたくさんあったでしょう。そして何より、道は平たんではありません。今の整備された道路で車に乗っているとわかりにくいけれども、結構町の中にも勾配があります。ましてや日本だったら山が多いですから、峠を抜けるというのは大変だったことでしょう。
洗礼者ヨハネは人々に向かって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫びます。実際の道路と同じく、神さまの通る「道」も曲がりくねっていたり、勾配があったりして、神さまがわたしたちの所に来られる時まっすぐ来ることができません。最初に神さまをお迎えした道路も、長く使わないでいるうちにけもの道になってしまっています。イエスさまの時代で言えばよきサマリア人のたとえではないですが追剥が出るような場所もありそうです。
神さまがわたしたちの所に来るために通る「道」は定期的な整備が必要です。整備の仕方は簡単です。祈る、聖書を読む、黙想する、信仰的な本を読むなどなど、それこそ現代の便利な道具を駆使してもよいのです。降臨節は年に一度、わたしたちがイエスさまの誕生を迎えるため、神さまがわたしたちの所に向かう道を整備する、大切な準備の期間です。イエスさまの誕生まであと少し、静かな祈りの時を過ごしましょう。
12/2
12/2 「神さまを仰ぎ見て」 ルカ21:25~31
教会は今日が新しい一年の始まり。クリスマスの準備の期間です。アドベントクランツが灯され、祭色も紫になりました。教会の外に目を転じてみれば、初雪があり、霜がおり、一気に冬の装いです。今年は初雪が遅かったのですが、冬は一気にやってきました。例年と同じですね。
イエスは「人の子が来る時(自分が再臨する時)には“しるし”が現れる」と言います。それも「イチジクの木の葉が出ると夏が近い」(北海道だったら「山の木々の葉が一気に茂ると夏が近い」くらいの感じでしょうか)というような、誰もが知っているようなレベルで神の国が近づいていることがわかる、と言うのです。
しかし、こういった「時のしるし」というのは、見分けるのが結構大変な事もあります。例えば大きな地震に関する研究が進んでいて、今年の春ごろでしょうか、確か釧路の方では近いうちに大きな地震が起きる確率が高いと言われていましたが、大きな地震が起きたのは厚真でした。確率はかなり低かったと記憶しています。また、関東の方で大きな地震が起きるとわたしは子どものころから聞かされてきましたが、40年経った今も、大きな地震は起こっていません。というより、大地震の予知に成功したという事例はありません。「夕焼けだから明日は晴れ」と言われていますが、雨だったこともあります。「猫が顔を洗っていたら雨が近い」と言われていますが、うちの猫、毎日顔を洗っています。もはやわけがわかりません。どんどん不安ばかりが先行してしまいます。「神の国は近いのだろうか遠いのだろうか」
世界中のニュースが耳に入るようになると、世界中のあちこちで、様々な災害が起こっているのが、嫌でも聞こえてきます。地球という天体が揺り動かされているように感じ、不安になります。それに対してイエスは「身を起こして頭を上げなさい」と言います。「姿勢」というのはけっこう侮れないものです。礼拝の所作においても「姿勢」は大事にされます。特に祈る時、頭を下げるだけでなく、十字架を仰ぎ見る姿勢です。下を向くのではなく、上に掲げられている十字架を胸を張って見る姿勢です。下を向いていると不安が募ります。しかし胸を張って「見上げる」時、わたしたちは神さまにすべてをゆだねて安らいでいます。
神さまはわたしたちに対して「頭を下げて不安になる」ことを求めているのではなく「身を起こして頭を上げ」、神さまに対して「こうしたいです」と応答し、多くの「しるし」が現れることに対しても動ぜず、神さまを見続けていく姿勢を求めています。神さまを仰ぎ見ながら、クリスマスのその時を迎えたいと思うのです。