福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
6/25
6/25 「何を言い表すのか」 マタイ10:24~33
本日読まれた福音書は、先週読まれた12人の使徒たちの派遣の続きで、イエスが12人に様々な心得を伝える場面です。「弟子は師のようになれば十分」と言い、「人々を恐れずイエスの言ったことを言い広めなさい」と励まします。
日本のクリスチャンたちは比較的奥ゆかしいのではないかと思います。昔はあったようですが、今、その辺に立って「あなたは神を信じますか」じゃないですけど行って歩いている人はあまりいません。むしろ外国の方がそうしているのが目立つかな、と感じます。信仰についてはあまり語らない、というのが多くの日本人のスタンスなのだろうと思います。「宗教と政治と野球の話はしないのがマナー」という考え方もあり、そもそも外で話題になることが少ないものです。しかし一方で、キリスト教というのは「はっきりと宣言する」信仰です。洗礼を受けるというある意味象徴的な決断が出発点ですし、イエスも「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す」ことを勧めています。でも、わたしたちが自分の信仰を表明するチャンスは意外と少ないし、無意識のうちに避けている部分もあるのかなと思います。確かに、世間的にはそうしないとやりづらいのも事実です。そうすると必然的に、日曜日教会に来て、信仰を同じくする仲間の間で語り合う、分かち合うことが貴重な機会となるはずです。
ところが、教会に来て、あるいは普段とは違う教会に行って話す内容が信仰に関することになることもあまりありません。今までの牧師生活の中で、一番話しやすいだろうその日の説教について聞かれたことは片手で数えるほどしかありません。日々のこと以外で、教会関連で語られる機会が多いのは教会への不満、牧師への不満、他の信徒への不満、要するに「不満」です。イエスは言います。「家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」 ベルゼブルというのは悪魔の首領です。もし、不満ばかりを口にするのなら、それは人々の前で自分の頭はベルゼブルだと言っているのと大した違いはありません。
自分の信仰について外で語るということはなかなか難しいことです。ですからせめて、教会に共に集った時くらいは信仰について語り合う者であっていいのではないでしょうか。教会は、信仰について語り、励まし合う場所なのですから。しかし、教会について語る時、嫌なこと、悪い事だけを話すのならば、遅かれ早かれ信仰は途絶えてしまうでしょう。自分の友人たちや子どもたちに対して、教会に対しての不満ばかりを語っているのなら(その割合の方が多いなら)、どうして教会に来る人が増えるでしょう。信仰の継承すらもままなりません。それは「人の前でわたしを知らないと言う」ことに他なりませんから。
教会において語られることの中に「信仰」や「夢」や「希望」が多く含まれているようになりたいのです。不満は「祈り」として神さまに聞いていただきましょう。わたしたちはそれができるはずです。そしてお互いに励まし合いつつ、信仰の道をともに歩んでいけることを願っています。
6/18
6/18 「出会いによって」 マタイ9:35~10:8
先週まで続いた聖霊降臨のお祝い期間は終わり、今週から祭色も緑色になり、一般の期節に入ります。福音書もマタイ福音書に戻り、イエスの活動がしばらく読まれることになります。先ほど読んだ箇所は12人の弟子、所謂「使徒」が選ばれ、彼らが町々へ派遣される場面です。この12人が派遣される場面はマルコとルカにもありますが、マタイの場合は大きく違う場所があります。それが5節から始まるイエスの言葉の冒頭です。「異邦人の道に行ってはならない。サマリア人の町に入ってはならない。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」と言うのです。
ユダヤの人々は外国人と関わらないことを大切にしていました。特にサマリア人とは会話もしないくらいです。ですからある意味で当たり前なんですが、今の教会の考え方からするとおかしな話ですよね。外国人と関わらないならシーメンズクラブはそもそも成立しません。忘れがちですがイエスはユダヤ人ですから、ある意味では普通のことを言っているようにも考えられます。でも、これはわたしたちのなじんでいる「やさしい」イエス様ではないですよね。また、福音書も後半になるとユダヤ人との対立が鮮明になっていくのに、どうしてなんだろうと考えてしまいます。
イエスは「神」です。ですが「人」でもあります。わたしたちが忘れていることの中にこれもあるのではないでしょうか。神は完全ですが人は完全ではありません。成長するものです。今日の聖書の箇所はイエスの活動のごく初期のことです。イエスは最初から完全な姿で地上に来られたわけではありません。実は出会いの中で自分の力を向ける対象が変化していく、増えていくこともあります。というよりも、様々な出会いの中で、イエスは多くの人を癒すようになっていったのです。15章にあるカナンの女性との出会いもその一つです。弟子たちもまた、その後多くの人々に出会い、活動を広げていきます。
教会の働きもそれと同じです。聖ルカ教会は最初幼子と出会いました。そして聖ルカ幼稚園が生まれました。外国船の船員たちと出会い、そしてシーメンズクラブが生まれました。そして、幼稚園として障がいを抱える子どもたちに出会い、その子たちを保育の中心に据えるようになりました。そして教会は今、その子どもたちと出会っています。時代ごとに、教会は様々な出会いを繰り返しながら成長し、その働きを広げてきました。それは牧師だけの働きではなく、みなさん一人一人が出会うのです。今日はその学びの日です。出会いを大切にしつつ、学び続け、神さまの働きを大いに広めていきたいと願っています。
6/11
6/11 「弟子にする、弟子になる」 マタイ28:16~20
本日読まれた福音書、「大宣教命令」なんて言いまして、教会が色々なところで神さまのことを宣べ伝えるという根拠にもなっている箇所です。「すべての人をわたしの弟子にしなさい」とイエスは言います。伝統的なもの、例えば将棋だとか囲碁、それから相撲とか落語などでは明確に師匠と弟子がいて、一門を形成して・・・なんてやってますね。「弟子」は「師匠」の所に通って、あるいは住み込んで、技能を学ぶわけです。もちろん様々な場合がありますが、通常考えられるのはこんな感じでしょうか。
すべての人をイエスの「弟子」にする。と言われた時、どういう風に思いますか? 単純に考えると「すべての人を信徒にする」という考えかたに行きつきます。でもそうなると、他のものを否定することにもなり、どうにもこうにもやりづらそうだと思いませんか。「師匠」と「弟子」の関係って面白いですよね。将棋とか相撲とかだと聞いたことがあるんですが、最初に弟子入りしたところから、考え方などが合わなくて別の一門に行く。「師匠を変える」ということがそれなりにあるということを聞きます。「弟子」には「自由意思」があるんですね。ですから、「イエスの弟子」になったら自由意思が無くなる、とは考えない方がよさそうです。
「弟子」と「師匠」の関係というのは、実は「弟子」が生まれることから始まります。何か偉い人「師匠」がいて、「お前は弟子だ」といい出して始まるのではなく、例外なく誰かが「わたしを弟子にしてください」といい出して師弟関係が始まります。弟子入りするというのは何も全人的になるだけではなくて、例えば運動だったらこの人、音楽だったらこの人、料理だったらこの人、という形の範囲限定の「弟子入り」ということもあり得ます。多分わたしたちも最初に教会に来た時、惹かれた部分はそれぞれ違ったはずです。色々な面でイエスに触れ、それぞれの部分でイエスに聞き従い、それぞれの部分で弟子になっていったのです。必ずしも全員が同じとは限りません。「洗礼」というのは一つの形です。「信徒になる」「ならない」ということにとらわれず、多くの人にイエスのことを知ってもらう、理解してもらうというのが宣教の働きです。それが「弟子にする」ということです。
イエスはわたしたち全員に「わたしについてきなさい」と呼びかけ続けています。でも、そこで決断するのは一人一人です。完全に脳みそまで預けることではありません。イエスの弟子たちには「疑う者もいた」と記されています。従えない部分があってもよいのです。イエスを「師匠」として学んでいくのならば、その時点でイエスの「弟子」になるのです。そして、新しい弟子が生まれるとき、わたしたち一人一人が自分の「学んだこと」を思い起こして、「弟子になる」決意を新たにするのです。
6/4
6/4 「息を整える」 ヨハネ20:19~23
本日は聖霊降臨日。教会の誕生日と言われている日です。先ほど朗読された使徒言行録によれば、使徒たちの上に聖霊が降り、様々な国の言葉で語り始めた。このことをもって教会が誕生したとされており、イースター、クリスマスに次ぐ祝いの日でもあります。ペンテコステとも言われ、これはイースターから数えて50日目であることからきています。聖霊が炎のような舌の姿で降ったことから祭色は「赤」を用います。また教会によってはなるべく赤い色のものを身につけて出席するようにするところもありますし、式中に赤いバラの花びらをまいたり、激しい音が響いたことからトランペットを吹き鳴らす習慣があったりと、様々な祝われ方をしています。
「聖霊」についての聖書の描写は、この「炎のような舌」の他、今日福音書で読まれたように、イエスの吹きかける「息」、これは創世記で神がアダムを創造した時に鼻から吹き入れた「息」につながりますが、そのイメージの他、イエスの洗礼の際、「鳩のような姿」で降ってきたことが記されています。また、イエスは自分が天に去った後、「真理の霊」「弁護者」「慰め主」を送ると約束するとわたしたちに言い残してくださっています。聖霊はわたしたちのそばにいつもいて、わたしたちに真理を悟らせ、わたしたちの口の言葉を助け、あるいは代わりに語ります。だからこそ「舌」でもあるんですね。「弁護者」としてわたしたちが語りたいことを補ってくださるからです。また、わたしたちが生きるうえで欠かせない「息」として、わたしたちと一緒にいつもいます。
特に古代の人たちは命は「息」にあると考えていました。亡くなることを「息を引き取る」とか、休むことを「息をつく」なんて言いますよね。また、気が合うことを「息が合う」と言ったりもします。息をすること、呼吸を整えることは、昔からわたしたちの命と非常に関係があることだとされていました。人付き合いにおいては仲がいいことを「息が合う」、芸事などは「名人の息を盗む」という表現にもありますが、上手な振舞い方にはそれぞれの「息」があるとされていました。息をせずに生きている人間はいませんが、普段わたしたちが生きている時、あまり呼吸を意識することはないのではないかと思います。しかし、心臓の鼓動もそうですが、呼吸などの自律した体の働きがなければわたしたちは生き続けることはできないのです。そして、それは神さまがわたしたちに与えて下さった物です。現代の人は忙しくなり、文字通り「息をつく暇もないほど」です。知らず知らずのうちに現代人は呼吸が浅くなり、「息」を大事にすることが少なくなっているとも言われます。ですから、神さまがわたしたちに与えて下さった「息」を、この機会に今一度「整え直して」みませんか。「おしゃべりをしてから」礼拝に入るのではなく、静かに「呼吸を整えて」臨む。何かをする前に「深呼吸」してみる。特に一日に一度、静かに呼吸に集中する時間を持つことで、わたしたちの命は輝きだします。「息」は聖霊の働きです。その聖霊が活発に働く時、わたしたちの命は新たにされるのです。聖霊降臨日に、わたしたちは「息を整えて」、そして「息を合わせて」聖ルカ教会のこれからの歩みを続ける決意を新たにしたいと思うのです。
5/21
5/21 「ぶどうの樹」 ヨハネ15:1~8
みなさんは「ぶどう狩り」に行ったことがありますか? 果樹園に行って、色々な種類のぶどうを木からとって食べる。その場で食べるからおいしいですよね。ちょっと大変ですけど。あのぶどうの木、すごいと思いませんか? 人間の取りやすい高さにちゃんと実がなるように棚を作って木を育てているわけです。すごい手間暇かけていると思います。ぶどうの木って、放置しておくと、蔓をどんどんからませて伸びていくんですね。完全に放置されたぶどう棚は、複雑に蔓が絡み合って、もう収集がつかない状況です。何本もの木があるからそうなるのかと思いきや、たった1本だった、ということもあります。
イエスは自分をぶどうの木に譬えて話をしています。ぶどうの木は、本当に1年で良く伸びます。実際に育てている時、まぁこんなもんでよかろうと棚を増設したのですが、たった1年で伸びきってしまいました。その生命力には驚くばかりです。一方で、秋にその伸びた蔓は、枝として残る部分以外はみんな枯れて落ちてしまいます。そして葉っぱが落ちた冬の間に剪定をするのですが、こうやって普通は木の大きさをコントロールするんですね。だから切られてしまう枝が出る。ワイン用のぶどうの木は、本当においしいぶどうの実に、味の濃いぶどうの実にするために、1本の木に2~3房しか実がならないようにコントロールすると言います。枝なんかもうほとんど切ってしまいます。木の丈も伸びないようにしていると聞きました。
イエスってぶどうの木だとしたらどんなぶどうの木だと思いますか。ワイン用のぶどうのように枝なんかほとんど切られている木でしょうか。それとも果樹園のように高さもコントロールされている木でしょうか。それとも伸び放題に伸びている木でしょうか。わたしはイエスは伸び放題のぶどうの木のような気がするのです。だって、イエスが誰かにコントロールされているって考えられないですよね。そんな生命力あふれるぶどうの木に、わたしたちはつながっているのです。
信仰というのは、教会というのは本来神さまに出会った自分が解放される場です。元気の出る場です。もちろん、元気のいい枝同志が同じ場所に伸びることはできませんから、時に譲り合ってということになるでしょう。でもぶどうの枝を剪定している時、「どうやって絡まったんだこれ」と思うような枝があります。絡み合いながら同じ方向に延びていくのです。絡み合ってというと何かよくないように思いますが、でも伸びていてその先では実がなっているのだとすればよいではないですか。一方の枝が一方の枝を切り落とすのではなく、絡み合いながらも伸びている。きっと時に譲り合い、時に助け合わなければこのようにはならないのでしょう。離れている場所もあったかと思えばしっかりくっついている、という形を見るとき、自然の豊かさにわたしたちは学ばなければならないと感じます。イエスは伸び放題のぶどうの木です。ですからわたしたちも伸びていきましょう。「邪魔をする」と思っている相手は本当に邪魔をしているのでしょうか。その枝とも一緒に伸びていけたら幸いだと思います。
5/14
5/14 「イエスの名によって」 ヨハネ14:1~14
お祈りをする時、最後に「イエスさまによって」とか「イエスの名によって」とか、個々人で言い回しは変わりますが、必ずイエスの名前を呼ぶ、というのは今日の聖書の箇所から来ています。でも、イエスさま、大胆ですよね。そう思いませんか? 例えば自分の子どもが、他の子どもに「大丈夫。家のお父さんの名前出せば何でもOKだからさ」と言って、それが本当になるってこと、まぁ普通はありませんよね。「どこの大物だよ」と言いたくなります。
昔の日本もそうでしたが、イエスの時代も仕事は世襲、身分も世襲でした。ですから子どもは「○○の子〇〇」という名乗り方をします。貴族だろうが漁師だろうが同じですが“親の権威の下にあり、それを受け継ぐ者だ”ということを明確にしたのです。ですからこう名乗った場合、相手は親と同じように扱わなくてはなりませんでした。ある意味で親の権威の範囲で願い事はかなえられたのです。イエスのことは「神の子」とされていますし、「父なる神と一体」であるわけですから、なるほどその通りなのでしょう。では、わたしたちはどうなんだろうと考えます。
聖書において、多くの人々に向かってイエスは「あなたがたも天の父の子になるためである」と呼びかけています。教会において、みなさんすべては神さまの子どもです。なぜならば神さまが世界のすべてをお創りになったからです。誰もが等しく神さまに創造された者です。現実に何歳かは関係ありません。70歳だろうが80歳だろうが90歳だろうがみんな神さまの子どもです。それはわたしも含めてみんな等しく神さまの子どもです。ですから、神さまの子どもとしてイエスの名を通して願うのです。
願い事をする時、その願いはイエスさまを通して神さまに預けられたのです。ですから、それを実現なさるのは神さまであり、わたしたちではありません。わたしたちに力を与え、わたしたちに今までになかった良い思いを起こし、願いを実現する方に向けられるのは神さまです。わたしたちはそのことを忘れているように思います。「わたしはやってるんだ」が「あいつはやってない」につながり、かえって願いがかなえられないことになってしまいます。願いはイエスさまを通して神さまに預けましょう。そして、イエスさまがお話になったことを聞いて、日々の歩みを続けましょう。まずイエスに聞くことを大切にしましょう。
5/7
5/7 「ゲートキーパー」 ヨハネ10:1~10
「わたしを通らなくては行けない」とイエスはヨハネによる福音書で何回も口に出しています。今日の福音書もその一つ。「羊の囲いに入るのには門を通らなくてはならない」「わたしは羊の門である」とイエスは、自分が門番であることを強調します。
「門番」という仕事は今ではものすごい豪邸でもなければ見かけるものではなくなりましたが、昔は教会においてれっきとした聖職の一種でした。礼拝堂の扉を開け閉めし、入ってくる人をチェックし、必要なら案内をする。またかつては「教会に来ていけない職業の人」など門前払いする対象がありましたから、それをはじくのも目的だったようです。もちろん普段は信徒たちの出入りを見ながら、必要な席に案内したりという、割と落ち着いた仕事だったようです。今でいうところの「アッシャー」(受付係)ですね。
「仕事は段取りが八割」なんて言ったりしますが、礼拝においても、特に大礼拝などだと聖職や朗読者の座る位置などをきちんと段取りしておかないと、礼拝を進めるうえで少々混乱してしまうことがあります。「門番」がしっかりしていると、すべてが滞りなく進みます。聖職であったころの「門番」は、単なる警備員というわけではなく、とても大事な仕事を任されている者でした。入るべき者が中に入り、入るべきでない者は外にいる。教会において秩序を守る者でもあったのです。
イエスは「羊の門」として、わたしたちに自分を示してくださいました。聖職としての「門番」はいなくなりましたが、わたしたちにとっての「門番」はイエス様です。教会に今いる人で、「羊の門」をくぐらなかった人はいません。イエスさまが守ってくださっているからです。裏を返せば、今ここにいる人たちはみな「ふさわしい」人たちです。なぜならば、みんな礼拝堂の扉を開けて入ってきたからです。ですからわたしたちは、お互いにどんなわだかまりがあったとしても、ここに今いる自分も含めたすべての人が「ふさわしい」人であると、もう一度思っていただきたいのです。自分の好きなあの人も、自分の嫌いなあの人も一緒です。さぁ、一緒にお祈りしましょう。神さまはわたしたちみんなを、いつでも招いていてくださいます。
4/30
4/30 「心は燃えていた」 ルカ24:13~35
ちょっと前のCMで、確か塾のCMだったと思いますが、「やる気スイッチ」という表現があったのをおぼえておられる方はいるでしょうか。教会において様々な活動をする時、ふとした瞬間に「やる気スイッチ」が入り、ぐんぐん活動ができるような気になることがあります。
エルサレムからエマオの町へ歩いて行く途中、二人の弟子たちはイエスに出会います。道中イエスに出会いますが、彼らは全く気が付きません。しかし、自分から話し、聖書の話を聞いているうちに夢中になったのでしょうか、先を行こうとする同行者(イエスだと気付いていませんが)をひきとめて、なおも話をしよう、話を聞こうとするのです。食事の時、彼らはイエスについに気がつきますが、イエスは去った後でした。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と彼らは報告しています。この話が伝わっているのはとても重要な事だと思います。使徒たち有名人以外にも多くの弟子たちがいたイエスですが、その人々の名前はあまり伝わっていません。復活したイエスに出会ったのが使徒たちばかりなら、復活のイエスはただ「特別な人にだけ現れる」みたいなものです。しかし、クレオパともう一人の名前も伝わっていない弟子たちに現れ、その心を燃えたたせたイエスの話は、だれか特別な人だけに起こるのではなく、誰でも起こることを示しています。イエスは誰の所にも、それがイエスだと気が付かなくてもそばにいて、気付いたときにはもう見えないけれども、わたしたちには燃えた心が残るような現れ方をするのです。
今、わたしたちの心は燃えているでしょうか。「そんな燃えていたのなんて、もう何十年も昔のこと、もう今はそんな情熱はありません。」と言うかもしれません。でも、そうではありません。イエスは「何歳以上は高齢者だからダメ」と言ったことがありますか? 聖書のどこにもそんなことは書いてありません。わたしたちの心は何歳だとしても、何度でも燃えることができます。ここに座っているみなさんは、多分一度は心を燃やしたはずです。もう一度それを思い出してみてください。それを懐かしむのではなく、その「心が燃えていた」感覚のことです。「燃え尽きちゃうかも」と思わないでください。本来、教会における「心が燃える」ために必要なのは聖書の話、そして祈りです。それが燃料でした。弟子たちもそうでしたね。ですから、そう簡単に燃え尽きることはないはずです。イエスはただ、火をつけるだけです。その火は、一つだけだと小さな火ですが、集まって炎となります。わたしたちの心の火は、消えてしまうことはありません。見えないくらい小さくなっているだけです。その火を大きくするのに必要なのは、日々の祈りと聖書の言葉です。
4/23
4/23 「神さまとの待ち合わせ」 ヨハネ20:19~31
イエスが復活したとき、最初に弟子たちはそれを信じることができませんでした。なんせ、イエスが十字架にかけられる時は逃げ去っていたわけですし。もしかしたらいくばくかの後ろめたさもあったのかもしれませんが、そこに大きくあったのは「恐れ」の感情でした。「自分たちも捕まって、同じように十字架にかけられてしまうのではないか」そんな思いで、彼らは家に閉じこもっていました。そこにイエスが現れることによって、彼らの恐れは取り払われました。しかし残念ながらその時いなかったトマスは、羨ましさもあったのかもしれませんが、「見るまで信じない」と言い出します。2度目にイエスが現れた時、トマスに対してイエスは言います。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」
「信じる」ということを話すと、よく「証拠は」という聞かれ方をします。確かに、世の中には騙そうとする人も多く、「オレオレ詐欺」などが横行しています。インターネットの発達によって情報が早く伝わるようにはなりましたが、不正確な情報も多くて、踊らされているような気がしてなりません。だから「証拠がないと信じないぞ」という姿勢はよくわかるのです。しかし、本来神さまを信じること、人を信じることは「証拠があるから」という類のものではありません。
自分の友人と、例えば駅で待ち合わせている時、お互いに「相手が時間通りに駅で待っている」という証拠がない状況から始まります。しかも証拠を集めようにも、相手が時間通りに待ち合わせ場所にいることを確認する方法はありません。何らかの方法で確認して、それから出発したのだったら自分が遅刻です。逆に相手にとっては「信用ならない」人である証拠になっちゃいますね。ですから、普通は相手がその場所にいることを「信じて」出かけていくわけです。様々な場面で、わたしたちは「証拠」はなくても人を信頼して行動しています。
神さまを信じる信仰は、神さまとの「待ち合わせ」のようなものです。自分が歩いている道の途中で神さまに出会った、そして「ここまで来てごらん」という声を掛けられて進んでいくと、その場所に神さまが待っていた。こうやってわたしたちは神さまに出会っていくのです。特に神さまは、日曜日、この礼拝を通してわたしたちに豊かに語りかけてくれます。日曜日ごとに、わたしたちは神さまとここで待ち合わせをしています。そして出会い、お話をして、もしかしたら荷物を下ろして、それぞれの生活の場所に帰っていくのです。神さまとの待ち合わせの約束が、わたしたちの生活の一部になった時、それが信仰を得る時なのです。
4/16
4/16 「新しい命へ」 マタイ28:1~10
イースターおめでとうございます。イースター、最近色々取り上げられているみたいで、先日立ち寄ったイオンのお菓子売り場に「ハッピーイースター」とか書いてあるのを見て、思わず首をかしげてしまいました。いやまぁ、有名になるのはいいと思うんですが、イースターの意味が分かってやってるのか、ちょっと不安になったりもします。イースターは十字架につけられて死んだイエス・キリストが新たな命によみがえったことをお祝いする日です。しかも、罪がないのに十字架にかけられて苦しんだ、ということがあっての「復活」なので、ただ単に「おめでたい」ということとは一味違います。医学的な見地から言いますと、一度生命活動を終えた個体が生き返るというのはありえないので、この「復活」さえなかったら信じられる、と言われたこともあります。
「復活」というのは、単純に「生き返る」ということとは違います。「新しい命」「永遠の命」として「復活」した、ということなんです。乱暴ですが、それまでの命とは違うものに「変わった」と言い換えてもいいでしょう。クリスチャンという人々は、多かれ少なかれ、「わたしたちはいずれ、イエスが得た『新しい命』『永遠の命』の姿に『復活する』」という希望を持っています。そのしるしが「洗礼」です。キリスト教の初めのころ、洗礼式はこの復活日にしか行われていませんでした。人が「新しい命」に変わるしるしとして、一番ふさわしい日とされていたのです。
「洗礼」を受けてクリスチャンになったとして、その人が何か変わるかというと、人としては全く変わりません。「洗礼」という体験一つで性格が丸くなるなどの変化を起こすことができるなら、もっと洗礼を受ける人が増えるような気がします。見える形で大きく変化するということはほとんどありません。でも、その魂は少しずつ変えられていっています。洗礼は「魂」に、人の心の奥底に作用するものだからです。長い目で見ると、「魂」が変化したことで、表に現れる動きが変化することもあるでしょう。「洗礼」というのは実は「出発点」です。これからどうするのか、ということが問われます。しかもそれは、何度でも思い出すことができるものです。「洗礼」はイエスの復活の記念であり、見る人にとって、何度も思い出す機会となるからです。この後「洗礼式」が行われます。自分もかつてした誓約を思い出しながら、もう一度「新しい命」に「復活」する恵みにもあずかろうではありませんか。
4/9
4/9 「十字架につけろ」 マタイ27:1~54
毎年復活前主日にはイエスの受難について書かれた長い長い福音書の箇所が朗読されます。読まなくてもいい、とされた部分まで含めると丸2章分。読む方だって大変です。正直なところ「飽きてしまう」とお思いの方もいるかもしれませんね。
教会では古来より、この聖書朗読の箇所を分担して読む習慣がありました。地の文を読む人、イエスの役、役人の役などに分けて、会場全体で分担しながら読むのです。さながら劇のようにするのですが、「劇のようになる」ということよりももっと大事なことがあります。その際、「十字架につけろ」という群衆のセリフだけは、会衆全員で大きな声を出して読むように勧められているということです。
イエスの受難の時「十字架につけろ」と叫んだ群衆のようにわたしたちはならない、とどこかで思っています。でも、わたしはその場面を思い出すたびに、「十字架につけろ」と叫ばない自信はありません。後になって悔やむかもしれませんが、その場は「十字架につけろ」って言ってしまうだろう、という確信めいた予感があります。後になって「騙されてた」「乗せられてた」というかもしれませんが、「十字架につけろ」と言っていた事実だけが残るのではないか、そう思います。
実際、わたしたちは様々な事に流されやすいのです。自分に実害がなければ、どこから湧いてきたのかわからない正義感をたくさん持って、誰かを糾弾することがあります。そしてそれが間違っていて、糾弾した人が無罪だったとしてもそのことを忘れてしまっています。だからこそ、わたしたちはそんな弱さを持っているということを忘れないために「十字架につけろ」と口にし、年に一回自分のことを省みる時間が、この復活前主日の朗読です。
この1週間は、イエスの受難の週です。イースターの喜びの前に置かれた、辛く苦しい期間です。そのトンネルを通りぬけて、イエスさまの復活の喜びに向かって進んでいきましょう。
4/2
4/2 「たられば」 ヨハネ11:17~44
今日の福音書は、イエスがラザロを生き返らせる場面です。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と泣くマリアに対して、イエスが憤るという、「やさしいイエス様」ではない珍しい場面が見られます。
福島第一原子力発電所の事故が起こった時、「安全」と言われていたものが「安全ではない」ということが明らかにされ、わたしたちの多くは呆然とし、後に憤りました。東京電力の職員が「想定外」という言葉を繰り返したこともとても印象に残っています。「想定外ってなんだよ」って思いますよね。
しかし、酷い言い方ですが「すべてのものを未然に防ぐことはできない」というのは、みなさん実はよくご存じだと思います。突然包丁を持った男が暴れだす通り魔事件を予測していつも防刃シャツを身に着けて歩いている人はいません。完全に想定外ですよね。警察も医者も国家も「対症療法」しかできないのです。「事件が起こらないと対処できない」と言われて嫌な思いをした方もいるのではないかと思います。これを未然に防ごうとしたら、誰かが「怪しい」と言った人をすべて拘束しなければならなくなりますよね。それこそ「共謀罪」のまかり通る秘密警察的な社会になってしまいます。冤罪もはびこるでしょう。
わたしたちは「○○だったら」「○○であれば」とわたしたちは未然に防ぐことにいつも思いをはせます。マリアも「ここにイエスがいてくれたら」とイエスに泣きつきます。結果的にラザロはよみがえることになるのですが、そこにはイエスの「憤り」が残ります。それは「たられば」にこだわり、今を見失っていることに対してなのではないかと思うのです。
わたしたちにできることは「その状況を認めること」、そして「それに対処すること」だけです。「昔はよかった」と言って過去を懐かしむのではなく、「今なにをするのか」に思いをはせることです。そのためには過去との比較でなく、現在を見つめることが必要です。「たられば」ではなく、今を思うことです。過去の栄光を取り戻すのではなく、新しいことを創造していく道です。イエスがラザロをよみがえらせたのは、過去を取り戻すのではなく、神を信じて歩む未来を見せるためです。