福音のメッセージ
週報に掲載された、牧師による説教の要旨を公開しています。
3/4
3/4 「人間の必要と神さまの必要」 ヨハネ2:13~22
大斎節も3週目、ちょうど折り返し地点です。先ほど読んだ福音書はヨハネから「イエスの宮清め」の話が読まれます。神殿の中で両替をしたり動物を売っていたりした商人たちを、イエスが追い出します。それも優しく行ったわけではなく、鞭を使って、台を倒して大暴れ。ちょっと怖いイエス様です。
「神殿の中で商売をしている」のをイエスは怒っているわけですが、ユダヤ人たちにだって言い分はあります。そもそも献金するのには、皇帝の銘の刻んであるローマの貨幣は使えず、イスラエルの古銭でなくてはなりませんが、普段は使わないものですから両替する必要があります。いけにえの動物だって、長い距離を運んでくるのは大変ですから、神殿で両替したり、いけにえを調達できたりしたら便利ですよね。「人間的な必要」「便利さ」のために両替商や動物を売るお店がありました。考えてみればわたしたちの教会もそうですね。教会の入り口でジャム等の品物を売っていたり、教会グッズのお店があったりするのは普通の光景です。「その方が教会のアピールになるじゃないか」「足りないものが買えたら便利じゃないか」そういった「人間的な必要」に応えて今の姿があるわけです。でもイエス様が今教会にやってきたら、鞭を振り回して大暴れしちゃうかもしれませんね。
逆にイエスの言っていることはもっともでもあるんです。やはり「神殿」(教会)というところは祈りをささげるところだし、神さまに出会うところで、ある意味での「非日常」な空間であり、そんな中で「日常」の代表的なものである「商売」が紛れ込んできているというのは確かに憂うべきことかもしれません。「宗教法人」が「収益事業」に熱心になっているのは確かに見ていて気持ちの良いものではありません。
じゃあどうしたらいいのか、ということを考えるとやはり目に留まるのは、弟子たちの思い出した「あなたの家を思う熱心が、わたしを食い尽くす」という言葉にあるのだと思います。そもそもこういった「商売」をするのは、利便性を高めると同時に「礼拝に来る人たちが楽になるように」とか「アピールになる」という思いがあったはずです。しかしそのことに熱心になるあまり、一番大切なことである「教会で祈りをささげること」よりも「教会のためにしていること」の方が大事になっていることってあるのではないでしょうか。「教会のためだから」という言葉を免罪符にしてはいないでしょうか。
わたしたちは弱く、簡単に心が別の方向に向いてしまいます。だからこそ、毎年の大斎節を通して、わたしたちの信仰の行いは点検されています。ですから、今、大いに見直してみたいと思うのです。
2/25
2/25 「自分の十字架」 マルコ8:31~38
大斎節も2週目に入りました。今日の福音書はマルコによる福音書から、イエスによる死と復活の予告、そして叱責されるペトロの様子が読まれます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」とイエスは言いま。
「自分の十字架」というと、みなさんどのようなことを想像するでしょうか。「自分の十字架」というとわたしたちは「自分の過去」(例えばしてしまったこと)など、自分の起こしたことのことを想像するのではないでしょうか。「自分の息子(あるいは娘)が自分の十字架だ」とおっしゃる方もおられます。
イエスはゴルゴタの丘に行くとき、自分で自分が吊るされる十字架を背負って歩きました。自分を吊るしてもびくともしないだけの大きさの頑丈な木が2本。かなりの重さであったことは想像に難くありません。途中キレネのシモンに手伝ってもらいましたが、イエスは十字架を自分で背負って歩きました。
イエスはご自分の罪のためではなく、人々の、わたしたちの罪のために十字架にかかりました。先ほどの「自分の十字架」のニュアンスでいうと、イエスが背負っていたのは「他者の」十字架です。イエスは、それを見ていた人々が言っている通り、罪のない方です。少なくともイエスが背負っている十字架は「自分由来のもの」ではありませんね。「十字架」というのは、ややこしい言い方ですが「もともと他者由来のもの」であるのではないかと思います。イエスの背負った十字架が、間違いなく「自分以外の誰かのため」だからです。だからこそイエスは「自分を捨て」と強調しているのではないかと思えるのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」ということは、「自分の思いや過去にとらわれるのではなく、自分以外の誰かのために、その人の重荷を背負って(共感したり、協働したり)イエスに従う」というイエスからの勧めなのではないかと思います。
わたしたちはしばしば、「自分はこうしてきた」「ああしてきた」「こうできた」あるいは「こうできなかった」という自分の過去に良くも悪くもとらわれることがあります。しかしイエスが人に求めておられることは、自分の重荷(思いや過去)に囚われることではなく、自分以外の誰かのために仕えなさいということなのではないでしょうか。
大斎節はまだまだ始まったばかりです。この大斎節はイエスの十字架、そして復活へとつながる道です。どうぞ大斎節の間、イエスの十字架の意味を今一度自分の言葉で考えてみてはいかがでしょうか。
2/18
2/18 「“霊”に送られる」 マルコ1:9~13
本日は大斎節の第1主日。水曜日から始まった大斎節の最初の日曜日です。イエスの洗礼、そして荒れ野での40日、サタンの誘惑が描かれますが、マルコやルカの福音書と違って「サタンから誘惑を受けられた」と一言書いてあるのみです。内容が詳細に書かれていないのはマルコが伝えたかったのが「誘惑を受けた」という事実だったからでしょう。今日の朗読のポイントは“霊”の働きです。洗礼の時、鳩のようにイエスに舞い降りた“霊”が、イエスを荒れ野へと送り出します。
「これはわたしの愛する子」でありながら、神の“霊”はイエスを荒れ野へ連れ出します。「荒れ野」は、ユダヤ人たちにとって特別な場所でした。出エジプトで紅海を渡ったその後に、民全体が荒れ野を彷徨います。その中で彼らは天からのマナを受け、メリバの岩場で水を飲み、そしてシナイ山で「十戒」を授かります。彼らは今でこそ町や村に住んでいますが、彼らの信仰、宗教的な思い、大切なものはいつも「荒れ野」にありました。エリヤのような預言者は荒れ野で生活し、時折町に来て活動をしました。洗礼者ヨハネもそうですね。「荒れ野」というのは、ユダヤ人たちに「信仰」を思い出させる原点でもありました。生活するのに大変で普段は近寄らないところですが、怖れと、もしかしたらいくばくかの憧れもあったのかもしれません。「荒れ野」から、神さまも彼らの信仰を問い直す預言者たちもやってきたからです。“霊”はただ何もないところに、辛い思いをさせるためにイエスを荒れ野に連れて行ったわけではありません。大胆に言えばイエスが、イエスとして活動をするための「修行」「試練」の場として彼を荒れ野に誘ったのです。神さまは荒れ野でもイエスを一人にしてはおきません。天使たちが仕えるという形で、守ってもいてくれたのです。
毎年行われる大斎節は、古来から信徒たちの「克己」「修練」のために設けられた期間です。わたしたちにとっての「荒れ野」でもあります。わたしたちは“霊”によってこの「荒れ野」に送られ、様々な誘惑や試みに遭いながら、自分たちの信仰を確認していきます。この後、みなさんに灰の十字架を受けていただきますが、その十字架は、イエスが守ってくださるしるしです。イエスと共にいた天使たちが、わたしたちを守ってくれます。
「大斎節」はわたしたちにとっての「荒れ野」です。普段と少し違う気持ちで過ごしながら、わたしたちの信仰を確かめ、自分を振り返る大切な期間です。3月31日までの大斎節、じっくりと「克己」の中で過ごしてまいりましょう。信仰の養いとなる本を読んだり、普段できていない黙想の時間を取り、何よりも聖書を開いてイエスに聞いてみましょう。それらの小さな修練が、わたしたちをいつもキリストの前に新たな気持ちで立たせてくれるのです。
2/11
2/11 「イエスに聞く」 マルコ9:2~9
今日は大斎前主日。今週からいよいよ大斎節が始まります。福音書は必ず、イエスの姿が変わる場面が読まれます。毎年違う三つの福音書から読まれるのですが、なぜこの箇所なのでしょうか。
弟子たちにとってイエスは、いつも近くにいる先生であり、自分たちと親しい存在でした。イエスのことはよくわかっている、そんな思いもあったでしょう。しかしイエスの姿が変わり、モーセやエリヤと語り合うのです。「教えられていた」のではなく「語り合っていた」のです。モーセやエリヤという尊敬の対象と同じようにしているのです。ペトロが混乱するのもわかります。いつも気軽に話しかけていたあの人が実はすごく偉い人だった、と気づくと、しばしば人は、その相手と距離を取ってみたり、必要以上に持ち上げてみたりするものです。しかし、ペトロは彼らのための仮小屋を建てようと提案します。しかし、それに対する神さまの答えは「これはわたしの愛する子。これに聞け」というものでした。イエスに聞きなさい、と言っていたのです。
わたしたちは「祈り」を通していつもイエスに「聞いて」います。しばしば勘違いされますが「祈り」は必ずしも「願い」とは限りません。「○○になりますように」というのは一つの形です。「祈り」というのはイエスに語りかけ、聞いてもらうことです。内容は何でもいいのです。「今日こんなことがありました」「こんなことを知りました」のようなことです。悩んでいる時だけ祈るのではなく、日常の何でもないことも「聞いて」もらうために祈るのです。ですから、いつも「祈りなさい」と勧めるのは、こうやってみなさん一人一人がイエスに「聞く」ためです。悩み事の解消のためだけではありません。むしろ願い事だけの祈りというのは、祈りの中で大切なことを欠いています。大斎節の前にイエスの姿が変わる場面が読まれるのは、わたしたちが大斎節の中で、祈ること=イエスの聞いてもらうこと、と改めて意識するためなのです。
2/4
2/4 「一同をもてなす」 マルコ1:29~39
今日読んだ福音書はシモン・ペトロの姑が癒されるお話ですが、なかなかにハードだなと思う場面があります。それは、癒された姑が「一同をもてなした」とあるところです。イエスに癒されたとはいえ、病み上がりの人を働かせるという、ちょっとひどい展開だと思います。「もてなす」というとみなさん、どのようなことを想像しますか。例えば「主教巡錫の時、ちょっと特別な食事にする」というようなことを考える方も多いのではないでしょうか。でも、そういうのって意外と負担になったりもするもの。「準備が大変だから来なくていいです」ってなっちゃったら、本末転倒な気がします。でも、これ、あるんですよね・・・。「もてなす」という言葉を辞書で引いてみますと確かに「ごちそうなどを用意して、心を込めて客を接待する」という意味が一番に来ています。しかし本来の意味をたどっていくと「取り扱う」とか「対応する」というだけの意味から発展して「ごちそうする」という意味になっていったようです。「もてなし」というのは決して「特別」なものだけではないということです。
ここで考えたいのは「シモンの姑がどうしたのか」です。「治って起き上がってすぐイエスにごちそうを作る」のだとしたらあまりいい気持ちはしません。「イエスに癒されて特別な力をもらったからできた」と言ってしまえばそれまでですが、イエスたちに対してもあくまで普通に「応対した」ということなのではないかと思うのです。座っていただいて、貧しい生活の中からあるものを出し、しばし話をすることだったのではないかと思います。わたしたちはすぐ、「特別」にしなきゃと思ってあわててしまったり、来客を好まないことがあります。神さまの訪れに対してもそうです。しかし、わたしたちがするべきなのはいつもと変わらない対応です。「特別」にされることをイエスは好んだでしょうか。そんな描写は聖書のどこにもありません。ただ、不意にではあっても、その訪れを喜ぶ気持ちを持つことが大切です。それこそが「もてなす」ということの意味なのではないでしょうか。
1/28
1/28 「悪霊天国」 マルコ1:21~28
イエスの福音書に書かれている活動を「公生涯」と呼びますが、その期間にイエスが行ったことで重要なのが「癒し」のみ業です。癒しの話でおもしろいなと思うのは、病を起こす悪霊とイエスが会話をするというくだりです。現代の医学で細菌やウイルスとお話ししながら治療するなんてことはありませんよね。でもイエスは病気を起こす悪霊と会話をし、治療をします。しかもただ単に「出て行け」と伝えるだけではなく、悪霊の方から「かまわないでくれ」とアプローチしてきたりもするのです。その上悪霊はイエスのことを知っていて「わたしを滅ぼしに来たのか」「神の聖者だ」などと言う、そう考えてみるとおもしろいですね。
悪霊は人を病気にします。そしてイエスを遠ざけようとする、つまり神さまから遠ざかろうとする動きをします。そして悪霊に取りつかれた人、病気になった人は人々の交わりから外れて行きます。そういう律法があったからでもあるし、悪霊の作用として人々からも遠ざかってしまうからでもある。そうして一人にさせてしまう。その人が本来ならできたことも出来なくなってしまう。そんな悪霊は自分が取りついた人を好きにしたい。だから「我々を滅ぼしに来たのか」と挑みます。そして、悪霊はその取りついた人の口を使って「かまわないでくれ」と訴えます。しかも出ていく時はけいれんさせていくのです。その人ではどうしようもないことがその身に起こっているということなのでしょう。悪霊は人を神さまから遠ざけるものです。そう考えると、今のわたしたちにも関係が全くないという話ではなくなります。わたしたちが何となく神さまから遠ざかっている時、もしかしたらこの「悪霊」の働きが現代にも起こっているということかもしれません。そしてその働きは、目に見えるわけではありません。もしかしたらイエスさまが地上にいないこの世界は、悪霊たちの天国かもしれません。誰にでもついている可能性はあります。
イエスの「黙れ、出て行け」という言葉は悪霊に付かれた人に届き、その人は悪い夢から解放されます。今も残っているその言葉は、わたしたちの所に届いているはずです。わたしたちはその声を聞いています。悪霊が出ていく時、わたしたちはもしかしたらけいれんさせられた人のように苦しまなければならないかもしれません。しかしそれでも「自分の中にも悪霊がいるかもしれない」という気持ちと「イエスが追い出してくれる」という信仰を持って、そして神に委ねて、毎日を過ごしたいと思うのです。
1/21
1/21 「一歩踏み出して」 マルコ1:14~20
先週のフィリポとナタナエルに引き続き、今週の福音書はマルコから、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人がイエスに従う場面が読まれます。どの弟子たちの場面もそうなんですが、彼らがイエスに従う場面って、「わたしについてきなさい」的な一言があってそれでついて行ってしまうので、「それでいいのか?」と思わないではありません。だって、わたしたちが誰かを信用するかどうかを判断する時にはかなり時間をかけることが多いし、直感的に動くことができるってすごいことだなと思いますよね。
「それができたからイエスなんだ」と言ってしまえばそれまでなんですが、弟子たちがイエスに従う時、彼らは多くのものを残していくのですね。まず自らの仕事道具である「網」。これが無ければ漁師としてやっていくことは不可能です。そして「父親」。これは「家族」と決別したというわけではないことに注意してください。後で彼らも家族と一緒に過ごしている様子も伺えますから。イエスの時代、仕事は親の仕事を継ぐのが当たり前でした。仕事を継げば親の、また一族の庇護のもとにいられたわけです。しかし彼らが決断したのは「自ら立つ」という道でした。親の庇護、親の判断ではなく、神さまの元で自分で判断し、神さまに守られるという道です。ですからもう「舟」もいりませんでした。自分たちの道は「漁師」ではなく「イエスに従う先」にあるという決断でもあったのでしょう。これらの決断を、ある意味で一瞬でしたわけです。なかなかできる決断ではありません。
もちろん、彼らがそのことを軽く考えていたのかもと思わせる場面は福音書の中にたくさんあります。「ついて行った」のですが、イエスの弟子としてそれはどうなんだと思うような場面もたくさん聖書には書かれていますよね。でも彼らはイエスに従っていきました。恐れながら、揺らぎながら、そしておそらく悩みながらも従って行ったのです。彼らは偉い人たち、すごい人たち、特別な人たちではありません。普通の人たちです。たぶんわたしたちの周りにもいます。そしてわたしたちと同じです。ですからイエスは、従う人に完全を求めてはいません。ただ、叱られますけどね。しかし、イエスは叱りながらも導いてくれるのです。「できる」「できない」は資格ではありません。最初の弟子たちのように、まず一歩を踏み出すことが求められています。
1/14
1/14 「来て、見なさい」 ヨハネ1:43~51
今日読まれた福音書は、イエスが弟子たちと出会う場面。特にフィリポとナタナエルの二人組が登場し、イエスの弟子となっていくところです。「来て、見なさい」とフィリポがナタナエルを誘い、ナタナエルがイエスの弟子になります。
日本のことわざに「百聞は一見にしかず」とあるように、「見る」ということは様々なものを判断するための重要な要素となりますし、実物を見ることでわかることも多いものです。今は写真や動画などの技術が発達しているので、ネット上で写真だけで判断することができるように思えますが、実際にその場にいるのといないのとでは大きく違います。
最初の教会において、自分たちの仲間を増やすということは、「来てもらい、見てもらう」こと以外にはほとんどあり得ませんでした。今でもそれは変わりません。実際の教会を目にし、実際に牧師に会い、実際に礼拝に出てみるということを通して感じることを大事にしています。というより、それ以外にないでしょう。一歩も家から出ず、教会に通ってみたこともないという状況では、神さまのこともイエスさまのことも信仰のことも教会のこともわかりません。それどころか、教会の家族の中に迎え入れられたとしても、実際に足を運ばなければ、それらのことはわかりません。
教会というのは「そこに教会があることが“わたしにとって”必要」であり、「教会に通おう」と思う人がいると同時に新たに加わらなければ、いずれは消えてしまうものです。自主的な集まりですからね。そのためには人が来る場所が、自分にとっても、新しく来る人にとっても居心地のいい場所にならなくてはなりません。フィリポに声をかけられたナタナエルは、そこでイエスに出会ったことにより、イエスの弟子に加わりました。自分の居場所を見つけたとも言えるでしょう。今日の福音書のやり取りはちょっとわかりにくいですが、イエスに評価されたということのようです。
イエスの弟子たちは皆、イエスに「わたしについて来なさい」(あなたが必要だ)と声をかけられたところからスタートしています。要するに「イエスに呼ばれた」ということです。教会に足を運ぶ人は皆、「イエスに呼ばれた人」なのです。そこに条件はありません。その人たちが「呼ばれ」そして「足を運び」、教会は成り立ちます。ですからそこでわたしたちがすることは何かと言えば、1つはフィリポになることです。すなわち「呼ばれている」ということに気が付かせるために「来て、見なさい」と声をかけることです。もちろんその人が「呼ばれている」と気づけるかどうかは大事です。いくらすべての人にイエスが呼びかけているとは言っても、その気がないのに強引にするのなら、かえってイエスの言葉が伝わらなくなってしまいます。逆に、まったく声をかけないのなら、わたしたち自身がかえってイエスの言葉が広がるのを妨げていることになります。じゃあどうやって判断するのかって? それはわたしたちが祈ることによって神さまに聞くのです。そのためにも教会で神さまに祈る必要があるのです。
1/7
1/7 「出発点」 マルコ1:7~11
2018年最初の主日は主イエス洗礼の日となり、イエスが洗礼を受けた場面がマルコによる福音書から読まれます。わたしたちがよく勘違いしていることですが、イエスは「洗礼を授けよ」という命令を残していますが、彼自身は洗礼を「受けた」だけであって、自分で「施して」はいません。イエスと「洗礼」の関係は少し複雑です。洗礼を施していたのは洗礼者ヨハネと、そしてイエスに命令されたイエスの弟子たちでした。今日の使徒書はその一場面で、使徒ペトロが異邦人に洗礼を授ける場面です。
使徒言行録10章と11章が伝えているのはとても大事な話です。教会が異邦人に対して洗礼を行っていくきっかけとなった出来事ですから。もし、ペトロに気づきがなければ、もしかしたら今の教会はなかったかもしれません。イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことが広がって、すべての人が主の救いの対象となっていったのです。11章9節に「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」というみ告げがありますが、この出来事を契機として、異邦人への宣教ということが真剣に考えられ始めました。それまではあちこちに住んでいたユダヤ人コミュニティへの宣教だったものが、その町の人全体が対象に変わったのです。洗礼は教会の出発点なのです。
洗礼を通してイエスはすべての人の救い主であることを現わしました。それはイエスの洗礼の出来事に示されています。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という声は、イエスがまさに神の子であり、世界中のすべての人に遣わされたことを示しています。しかし、弟子たちも含めた多くの人はなかなか気づこうとしませんでした。イエスは短い自分の公生涯を通して、自分が神の子、救い主であることを証明し、多くの人が気づくようになったのです。洗礼はイエスの出発点でした。
洗礼はわたしたちにとっても出発点です。洗礼を受ける人たちにも伝えていますが「洗礼を受けたからと言って人間が劇的に変わるわけではありません」。イエス自身も確かに「霊」を受けましたが、その立ち居振る舞いが大きく劇的に変わったのではなく、荒れ野の40日や自身の活動、また多くの人との出会いによって変えられていったのです。ですから、わたしたちもイエスよりもっと時間や多くの出会いを重ねなくては変わることができないでしょう。しかし、洗礼という「出発点」に立つことによって、イエスと共に歩む長い道のりを始めたのです。その時の思いを、今一度思い返してみたいものです。
12/31
12/31 「言葉による知らせ」 ヨハネ1:1~18
クリスマスの後の主日、喜びの余韻に包まれた1週間目は、クリスマスの出来事を振り返るような福音書が読まれます。「神の言が肉となって、わたしたちの間に宿られた」という喜ばしい知らせがわたしたちに与えられました。
今でこそ、様々な道具があるので写真や動画を使えるようになりましたが、大体の場合「お知らせ」というのは「言葉」によってなされます。口頭で言う場合もあるでしょうし、お手紙などの形を取ることもあったでしょう。様々な形があるわけですが、伝えたいことを一番間違いなく伝えられるのは、面と向かって「言葉」を用いる時でしょう。表情や言い方、声のトーンなど、他の情報もたくさんありますから。まるで、一つの言葉からたくさんの枝が出ているみたいです。
「言葉」とここでは書いていますが、先ほど読んだ福音書に書かれているのは「言」です。「言」一文字で「ことば」と読ませているのですね。ちなみに聖書ではここだけに使われる表現です。なぜ「言」と使うのかと言えば、それが神さまの言葉だからです。天地創造の際、神は言だけで世界を創造しますね。「〇〇あれ」というと実現するのが神の言です。イエスはこの「言」として「肉」となってわたしたちの世界に生まれたのがクリスマスです。逆に、なぜ日本語では「言葉」と歯を付けて表現するのかと言いますと、古今和歌集の序文で「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」と、「和歌」を人の心から成長した植物(葉っぱ)となぞらえていることから来ています。
わたしたちが使う「言葉」は多くの枝を持ち、葉を茂らせています。言葉一つに一つの意味なら楽なのですが、そんなことはないですよね。その「言葉」の持つ枝葉の読み違いで、わたしたちは時に結びついたり離れたりするものです。でも、神さまの「言」は、一つのはっきりした意味をもって迫ってきます。ただ、それを表現しているのはあくまで「言葉」なので、わたしたちは聖書を繰り返し読み、どの枝葉の意味が正しいのだろうと考えるのです。だからこそ、聖書は繰り返し読まれてきました。時代によって意味が変わることもあったけれども、わたしたちはその「言葉」たちの背後にある、神さまの「言」を目指して歩み、そしてこれからも読み続けていくのです。クリスマスの良い知らせが、多くの人たちにも「良い知らせ」となりますように。
12/24
12/24 「突然の知らせ」 ルカ1:26~38
クリスマスおめでとうございます。本日読まれた福音書はいわゆる「受胎告知」、礼拝堂の後ろに絵がかかっていますが、天使ガブリエルがマリアのもとを訪れたお話。16日の土曜日、幼稚園の子どもたちが演じてくれた聖劇でも重要な場面の一つであり、クリスマスの物語のいわば始まりの予告です。
「告知」という言葉は、例えばイベントや活動などを知らせる時に使うほかに、保険などを契約する時の「告知義務」、病気などのことを知らせておかないといけない、という時にも聞く言葉ですね。でも、わたしたちはもう一つ、重要な使い方を知っています。それは「病気」、とくに「がん」などの病気の際です。今でこそ患者本人が聞くこともあるのですが、かつては家族だけ聞かされたなんて話はよく聞きました。イベントやなんかの知らせでしたら嬉しい「告知」ですが、余命の「告知」はショックですよね。聞きたいような、聞きたくないような、そんな「告知」もたくさんあります。わたしたちの生活は「告知」「知らせ」に囲まれています。
クリスマスのお話は「告知」、「知らせ」で満ち溢れています。マリアへのみ告げに始まり、「住民登録をせよ」との知らせがあり、「救い主が生まれた」という知らせが羊飼いと博士たちにあり・・・。「救い主が生まれた」という「良い知らせ」に収斂していきます。
「イエス・キリストが生まれた」クリスマスは、多分日本で「知らない」という人はいないほど、一般的に知られた日となりました。
しかし一方で、わたしたちの生活には「突然」ということも多いもの。天気のことでしたらある程度予測はつくものの、地震などの災害を事前に知ることはほぼ不可能です。交通事故や通り窓の事件もそうですね。もちろんそんなおどろおどろしい事だけでなく、わたしたちの生活の中にどんどん入ってくる「突然」の出来事は多くあります。何かの集会で突然お話をすることになったり、旅の人が訪ねて来たり。「告知」そのものが急すぎてわたわたしてしまったこともあります。マリアにとっても、この「知らせ」はおそらく「突然すぎる」話であったに違いありません。マリアも動揺してガブリエルと話した様子が見えます。
神さまの「告知」は、「突然」やってきます。「そんなの聞いてないよ」と言いたいところですが、そうはいきません。でも「予告の予告」なんてなってくると意味が分からなくなっちゃいますね。今までの人生を思い返してみますと、何か予告があって、事前に準備してじっくり取り組めたことよりも、突然ドーンと知らせが来て、あたふたしている間に進んだことの方が多いのではないでしょうか。クリスマスは「突然に」「驚くべき」「良い知らせ」が来た日です。わたしたちはいつもクリスマスがやってくることを知っていますが、この知らせを初めて受けた人たちのように受け止めて、神さまの不思議なみ業
12/17
12/17 「待ちきれない」 ヨハネ1:1~6,19~28
今週も先週に引き続き、洗礼者ヨハネのことが語られます。
洗礼者ヨハネはその当時のエルサレム近郊では大変人気があったようです。ファリサイ派やサドカイ派などの派閥を問わず、多くの人々が彼から洗礼を受けるために、荒れ野にいる彼のもとへ出かけて行きました。ヨハネは自分のことを「荒れ野で叫ぶ声」だと言い、「道」を整えるよう説きます。あくまで自分は先触れをするものであり、救いそのものではないのだと強調しました。
「道」にも色々ありますよね。アスファルトで舗装された「道」もあれば、登山道などの踏み固められたような道もある。道路だって、港の通りのように片側四車線で路肩も広い道路もあれば、東京の下町みたいに狭いところもある。日本だったらアスファルトでしょうが、石畳の国もあるし、舗装なんかできない国で土の道がドロドロだったり、あるいは中国四川の桟道のように木で作られた道もあります。山登りをすれば、ややもすればけもの道に迷い込んでしまうこともあります。山の方をドライブすればまっすぐなバイパスが完成した横の方に旧道があり、閉鎖されて草木に覆われてしまって何とか見えるような道もあります。
「道」という漢字の成り立ちは、一説に「首」が向いている方を意味しているそうです。わたしたちの顔が向いている方、正面にあるのが道なのですね。考えてみれば、世界で最初の道は、誰かが前を向いて通ったところが、何度も人が通るようになり、幅が広がって道になっていく、という形でできていったはずです。最初は通れるところを通ったので曲がりくねっていた道も、技術が進めばトンネルや橋も作ることができるようになり、だんだんまっすぐになっていきます。わたしたちの心の道もそれと同じです。何度も通っていればただ踏み荒らしたような道もはっきりとして道が形づくられ、何度も通っているうちにやり方や考え方がわかってきてまっすぐになっていくのです。「道」は、わたしたちの首が向いている方に作られていきます。そしてしばしば、わたしたちの歩む前に道はないのです。わたしたちはよく「誰もやったことがない」とか、「前例がない」という理由で立ち止まってしまいます。でも本来、道はわたしたちの進んだ後に作られていくし、最初は道が無いように見えても通るしかないのです。それでも進んでいける理由は、ただ一つ「神さまが呼んでいるから」です。首が向く方向は、ただの道なき道なのではなく、神さまの方へ向かう道で、わたしたちは洗礼によってその道に首が向いたのです。多分多くの人が初めての道を通るのです。でも、歩んでいるうちに、同じような人たちと出会い、励まし合いながら進んでいく、それが教会です。ヨハネの呼び声に応え、わたしたちも自分の向くべき、神さまの方を向き、神さまに向かって歩んでまいりましょう。